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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第十二章 探索
171/251

探索(1) 王宮が崩れた夜のこと

 春のさかりのエスメラルダは、息を呑むほど美しかった。

 潤いに満ちた森を歩いて行くと鼻腔を芳香がくすぐり、森を抜けると色とりどりの花々が目に飛び込んでくる。ビアンカはニーナに届けるお弁当を持って歩きながら、何度も何度も周囲に見とれずにはいられなかった。萌え出たばかりの新緑は日々勢いを増し色を濃くさせ、昨日見た景色が今日は全然違う。


 ――早く帰ってくればいいのに。


 今日もまた、そう考えずにはいられない。ビアンカがここに住むようになってまだ半年。案内して欲しいところも、見たい景色もまだまだたくさんあるのに。

 あれから四ヶ月経つのに、姫はまだ、帰ってこない。 



    *



 あの夜。姫がいなくなってしまった、あの日のことを、ビアンカは今日もまた思い出す。


 姫があっさりと出かけてしまった後――彼女の姿が見えなくなるとすぐに、ニーナは両手に顔を埋めた。

 そのまましばらく、動かなかった。

 けれど出し抜けに両手を放し、ぱん、と顔を叩いた。そして踵を返した。そのままニーナが王宮の傍からさっさと離れていこうとするので、ビアンカは驚いて声をかけた。


「ど、どこ行くの?」

「ビアンカ」


 ニーナは()()と音を立てそうな勢いでビアンカに向き直った。声を張り上げて、宣言する。


「あたし、帰るわ」

「帰る……どこへ?」

「エスメラルダによ」当然だろうと言いたげにニーナは言った。「立ち止まってる暇はないわ。家に帰って、準備をしなくちゃ。舞がどうやったら帰ってこられるのか、こっちで生きていけるようになるのか――宝物庫も学問所も全部開けて、国中の学者たちに総出で文献に当たってもらう」


 マーシャが喉に詰まった何かを払うように咳をして、それから、ニーナの後を追うように足を踏み出す。ニーナは微笑んで、両手を挙げた。


「マーシャはここにいていいのよ。大丈夫よ、女手は、エスメラルダにだってたくさんいるんだから」

「ですが、ニーナ様――」

「女手は他にたくさんいるけれど」ニーナは優しい声で、労るように言った。「マーシャはあなたしかいないんだから。マーシャ、自分のしたいようにしていいの。ここを離れがたいでしょう? 舞のそばにいてあげてくれるなら、あたしもその方が嬉しい」

「ニーナ、様」

「エルヴェントラ、後は任せたわ。その代わり、エスメラルダの学者たちは全員あたしに貸してね」


 エルヴェントラは少し、驚いたようにニーナを見ていた。しかし、やがて、微笑んだ。慈しむような笑顔だった。


「もちろん。エスメラルダの国民は、元々みんな貴女のものだ。……だが、ひとりで帰らないで欲しい。神官兵を何人か連れて行ってくれ」

「もちろん」ニーナは言い返して、にっこり笑った。「馬車で着替えて、馬で帰るわ。ビアンカ、アイオリーナ、中座する無礼を、どうか赦して」


 その時のビアンカは、まだ、ニーナがなぜあんなに急いで帰ろうとしていたのかわからなかった。

 しかしアイオリーナはそうではなかった。ドレスの裾をつまんで、軽く膝を折った。


「気をつけてお帰りください、【最初の娘】。貴女の旅路に祝福がありますように」

「お言葉に感謝いたします」


 ニーナは晴れやかに笑う。そしてビアンカにも微笑みを投げて、踵を返した。流れ者や兵たちが道を開ける。そこを足早に歩いて行きながら――途中で、ニーナは声を張り上げた。


「オーレリア!!」

「な、なによ」


 オーレリアは気圧されたように言った。姫を“異物”だと言ってから、彼女はずっと自分の殻に閉じこもったかのように黙りこくっていたのだが、ニーナは全くお構いなしにずかずかとオーレリアの目の前まで行って、ずいっ、と鼻先に顔を突き出した。


「あなたを雇いたいの。舞が棒十本で雇ったのよね、あたしはその倍を出すわ」

「は、はあぁ!?」

「世界の秘密を調べに調べて巨人のところまで行った、その見識をあたしに頂戴。エスメラルダに一緒に行って、学者たちの中に加わって、皆と一緒にあの子が帰れるようになる方法を探して欲しいの。お願い」

「なんであたしが――それは学者の仕事でしょ!? デクターやガルテの方が適任よ!」

「もちろんガルテにも依頼するわ。でもデクターは、ここに残って、王宮の中からざくざく掘り出されるはずの魔法道具や文献の方を調べる方がやりたいんじゃないかと思うの。適任でしょ。もちろん、その中からあの子の帰還に必要な情報があったら、エルヴェントラが高値で買い取ってくれるはずだし――」

「……なんであたしがあの子なんかのためにかび臭い本に鼻突っ込んで目の下に隈作らないといけないの!?」

「隈だけじゃないわ。きっとにきびもできる」

「何てこと言うの!? あたしはねっ、そもそも!」


 オーレリアは立ち上がり、憤然と、叫んだ。


「あの子が大っ嫌いだったのよ! 今も大っ嫌いだわ!」

「ええ、わかってるわ」ニーナは微笑む。「それで?」

「だからあの子のためなんかに働くもんですか! 文献!? 調査!? 世界の謎だの成り立ちだのっ、それはあたしの生涯を捧げるべき仕事よ! 誰かに雇われてなんか、やんないわよ!!」


 あーめんどくさい、と、ビアンカの近くで呟いた人がいた。デクターだ。

 ビアンカも思った。本当にオーレリアは嘘つきで、面倒くさい人だ。

 ニーナは頷いて、歩き出した。


「研究活動には環境を整えるのが大切だって、昔聞いたことがあるわ」

「あらそう。誰から?」

「昔お世話になった人によ」


 ニーナはずんずん歩いて行く。オーレリアも歩き出し、すぐに追いついた。一緒に並んで歩きながら、ニーナが数え上げる声が聞こえる。


「衣食住の保障と、生活費の支給。家を整えて食事を作ってくれる専属の人を付けるように手配するわ。それから学問所には貴女専用の個室に、大きな机と座り心地のいい椅子、光量を調節できる光珠。それでどう?」

「書架も付けてよね」オーレリアがずけずけと言う。「それから紙と羽筆と上質の墨も!」

「いいわよ、それから家は、学問所のすぐそばにある方がいいわよね。お風呂はどうする?」

「あたし専用のお風呂! ……しょおっがないわねえ!」


 何がしょうがないんだ、と、あの時ビアンカは、思った。



 ニーナとオーレリアが去ると、周囲はすっかり静まり返った。

 あの時ビアンカは、姫が帰らねばならないと言うことを、受け止め切れていなかった。彼女がどうしてあんなに急いでいたのか。例え帰らなければならないとしたって、ひと晩くらい、別れを惜しむ暇があっても良かったのではないか、と思えてならなかった。そこへきて、今度はニーナまでもが帰ると言う。もちろん、姫が帰ってこられるように活動を始めるという言い分は、いかにもニーナらしかったけれど――それにしたって、姫の帰還を見届けるくらい。王宮が崩れるまでくらい、ここにいても良かったのではないだろうか。


 アンヌ王妃がどこにもいないことが、ビアンカの胸をざわめかせていた。姫ばかりではなく、アンヌ様まで。【アスタ】を作ったアンヌ王妃は、ビアンカの憧れだった。いつかあんな人になれたらと、祈ってしまいそうな人だった。

 王妃もニーナも、姫の大仕事を見守らない。そんなのって、酷い、と、思っていた。


 と。

 アイオリーナが、ビアンカに言った。


「……わたくしは、ルファルファの教義にはあまり詳しくないのだけれど」


 え、と、彼女を振り返ると、アイオリーナはとても沈鬱な顔をしていた。


「【最後の娘】が戦場に赴くとき――【最初の娘】は泉の前にいなければならない。そんな伝承が、あったと思う」

「そのとおり」エルヴェントラがこちらを見た。「姫が危険な場所へ赴いた以上、ニーナも泉の前へ行かねばならない」

「どう、して?」

「【最後の娘】に万一のことがあったなら、エスティエルティナが……姫の身につけているはずの剣が、泉の中に現れるはずだからだ。もちろん、すぐに現れるわけではないらしいが」

「……」


 ビアンカは思わず息を呑んだ。愕然とした。

 そんな。そんなのって。

 そんなのって、酷い。


 その時ビアンカは、初めて、ニーナと姫がずっと担ってきた役割というものについて思いを馳せた。それまでは、王女のような存在である、という認識しかなかった。でも彼女たちは王女ではない。もっと得体の知れないもの――神の娘たち、なのだ。

 ニーナはあんなに明るく振る舞い、オーレリアとわいわい言い合いながら帰って行ったけれど、その実、泉を確かめに行ったらしい。ビアンカや周りの人たちに気を使わせないように――マーシャを置いていったのも納得だ。王宮が崩れたとき、もしも姫が命を落とすようなことがあったなら。ニーナと一緒にいたならば、泉に現れた剣を、見なければならないから。


 全ての母は、まことに酷なことをなさるものだ。


 今までに何度も聞いた言葉だった。その言葉を、ビアンカは心の中で思い浮かべた。


 ニーナはこれから四日の間、馬を走らせて泉を見に行く。彼女がたどり着いたとき、そこに剣はあるのだろうか。もしあったらどうしよう、そう思いながらニーナは帰るのだろう。もしあったらどうしよう。もし――


 マーシャがビアンカのすぐそばに来ていて、そっと、ビアンカの肩を抱き寄せてくれた。ビアンカは、マーシャにしがみついた。心臓がどくどく言っているのが今さら聞こえ始めた。

 もしあったら――


「帰ってくるって、言ったもん」

「ええ、おっしゃいましたね、ビアンカ様」

「大丈夫。大丈夫よ、マーシャ。約束破るような人じゃないもの。絶対大丈夫、よ」

「ええ」マーシャはすすり泣いた。「今までだって何度も何度もひとりでお出かけになりました。先程と同じように、無造作にね。そしてちゃんと帰ってこられたんです。今度だって、大丈夫ですとも、ビアンカ様、」



 その音は、

 優しい、ささめきのように聞こえた。



 何か大きな年老いた生き物が、生涯の最期に、安堵に満ちた吐息を漏らしたかのように。



 マーシャが硬直した。周囲にいた人々全員が、王宮を振り仰いだ。ビアンカはマーシャの肩に顔を埋めたままでいたいと思う誘惑とせつな、戦って、怖れを振りほどいて王宮を見上げた。デクターが近くにいた。流れ者たちも。兵士たちも。全員が見守る中、王宮の崩壊は内側から始まった。月の光に照らされて、王宮はゆっくりと、ゆっくりと、静かに、崩壊した。音が何も聞こえなかった。耳をつんざくほどの轟音が、響き渡ったはずなのに。


 長かった暴君の治世の、それはまさに終焉だった。


 姫がそれを終わらせた。だからこれは避けられることではなかったのだと、ビアンカは悟った。長い間、そのために、そのためだけに働き続けてきた彼女が、その望みどおりに幕を引いた。


 だからきっと、なるべくしてこうなったのだろう。そう思う。

 そのために、ここにいるあたしたち全員が、彼女を失うことになったとしても――


 ――ううん。違う。


「帰ってくるって、言ったわ」


 ビアンカは囁いた。その音で、周囲の呪縛が解けたようだった。流れ者たちが、兵士たちが、足を踏み出し、歩きだし、次いで――誰からともなく、走りだした。ビアンカも後に続いた。ここのすぐそばの路上で暮らしたとき、ビアンカの上にいつも、贅沢と豊かな生活の象徴として君臨していた王宮の死骸に向かって。


 大勢の男たちにもみくちゃにされそうになったのを助けてくれたのはデリクだった。溺れそうになって足が浮いた瞬間、デリクの大きな手がビアンカをひょい、と抱え上げて、周囲の男たちを蹴散らしてのしのしと先へ進んだ。ファーナの台座を通り過ぎ、植え込みを回る。

 そこに、みんな、立ちつくしていた。それ以上進むのを恐れるかのように。デリクは恐れなかった。ビアンカをその広々とした肩に乗せると、遠慮会釈もなく人垣をかき分けて中へ入った。押しのけられた人たちも文句は言わなかった。みんな魅入られたように、その先を覗き込んでいる。


 背の高いデリクの、更に肩の上に乗せてもらっているビアンカには、全てがよく見えた。


 アルガスの背中が見えた。銅像の台座に腰をかけて王宮を見ていた。瓦礫はその身体の周囲にまで届いているのに、避けた様子すらなかった。右手にマスタードラとイーシャットがいた。そして王宮の残骸の上に、銀狼がいた。それも五頭も。


 何をしているのかは、ビアンカには良くわからない。ただ、近くにいたはずのデクターが、そっと離れていったのはわかった。どうしてだろうと疑問はわいたが、考えている余裕はなかった。


 ビアンカとデリクの背後から、エルギンとカーディスが歩いてきていた。一頭の銀狼がエルギンに気づいて、近寄ってきた。初めて見る銀狼は、とても堂々としていた。威厳に満ち、気迫に満ち、至高の獣という呼び名は伊達ではなかった、とビアンカは思う。


『――危機は回避された』


 銀狼はエルギンの目の前にきちんと座ると、頭を垂れた。


『礼を言う。お陰で間に合った』

「【穴】っての……開いたよな」


 やはり近づいてきていたイーシャットが銀狼に言った。マスタードラはアルガスの方へ向かっていた。アルガスはこちらの会話になど気にも留める様子がない。まるで自分が銅像にでもなってしまったかのように、王宮を見つめて身じろぎもしない。

 イーシャットの声がまた聞こえた。


「崩れてすぐ、すげえ音が聞こえた、なんつうか、甲高い、悲鳴みてえな……引き裂くような、割れるような、そういう、ぞっとするような音だ」

『開いた』


 銀狼は重々しく肯定した。


『ごく小さいものではあったが。外側の魔物たちが押し寄せようとしていた。正確に言えば開いたのは崩壊の少し前だ。危ないところだった。だがこちら側に、もう一体。魔物がいたのだ。箱庭に与する魔物が』

「ファーナです」


 イーシャットが言い添え、銀狼は、頷いたエルギンを見た。


『不思議なこともあるものだ。その魔物が【穴】に自らの身体で蓋をしていた。自らの仲間を敵に回して、その命を投げ出して、この箱庭を守ろうとしてくれた。だから我々が間に合った。【穴】はもうふさいだ。その魔物の身体は残してはおけなかった。あちらに落とした。今はもうない。遺憾なことだ。魔物とはいえ、遺骸に礼を尽くすことも出来ないとは』

「……狂った魔物は」


 エルギンが初めて訊ねて、銀狼はぱたりと尻尾で地面を叩いた。


『少なくとも、近くにはいない。それをこれから捜す。おそらく死んでいると思う』

「【穴】は――」


 エルギンが膝をついて、銀狼に視線を合わせた。


「あなた方ならわかるだろうか。もうひとつ、【穴】が開かなかったか。開いた、はずなんだ」

『やはり完全体に頼んだのか。そうだろうと思っていた。完全体の開く道については、伝承では聞いたことがあったが、――わからない。完全体は魔物のように空間を引き裂いたりはしないだろうから、我々にも感知は出来ないと思う。いずれにせよ、開いたとしても、もう閉じている』


 銀狼は言い、また尻尾をぱたりと振った。瓦礫の山を振り返って、続けた。


『歪みを増やさずに道を開けるのは完全体だけだ。我らの仲間が一度彼女に会っている。我らも鼻を尽くそう。万一帰還に失敗して箱庭の中に倒れていたら彼女の命に関わりかねない。すぐに捜しに行かなければ』


「完全体は――やはりどうしても、こちらで暮らしては行けないのか」


『無理だ』銀狼は深々と息を吐いた。『……無理だ。我らのような頑健な身体と体力を持っているならばあるいは。しかし彼女の体力は普通の人間にすぎまい。そんな力の弱い完全体がここで十年も生きたという事実、それ自体が、我らの理解の範疇を超えている』


「しかし、何か。何か、手段は」


『若き王よ。申し訳ないが長話をしている暇はない。箱庭は一度縮んだとは言え広大だ。我らは数を減らしている、手分けして彼女を捜した方が良かろう、万一中に落ちていては一刻を争う事態だ』


「――申し訳ない。よろしくお願いする」

『探索が済んだら使いを出す。だが期待はするな』


 銀狼の長はそう言って、ひと飛びで姿を消した。気がつくと、瓦礫の上で何かをしていた他の銀狼たちも消えていた。代わりに、がらがらと、静寂の中に音が響き始めていた。アルガスが瓦礫に登っていた。マスタードラも後に続いている。時折崩れかける瓦礫の山を登るのは、本来ならとても不安定で危ないことのはずなのに、ふたりはさして苦労するでもなく瓦礫を登り終えた。マスタードラが言うのが聞こえた。


「玄関から王座までの距離は百五十歩ってところだ」


 アルガスは頷くだけでそれに答えた。

 がらがらと音を立てながらふたりが遠ざかっていく。


 アルガスが座っていた台座の上に、大きな古ぼけた背嚢がのっていた。ビアンカは唐突に胸を衝かれた。背嚢を用意して――ここで姫を待っていたのか。

 一緒に行く気だったんだ。たとえ行く先がどこでも。姫の故郷でも。

 全く知らない、未知の世界まででも。


「ビアンカ、下ろすぜ。俺も掘る」


 デリクが言い、ビアンカはまだデリクの肩に乗っていたことに気づいて、滑り降りた。イーシャットが、流れ者たちが、兵士たちが、続々と瓦礫の山に歩いていく。エルギンもカーディスも混じっていて、スヴェンが慌てたように囁くのが聞こえる、


「陛下。危険ですから――」

「明かりを! ありったけ用意しろ!」


 指示を出したのはエルヴェントラだ。エルギンもカーディスもスヴェンには構わなかった。エルヴェントラも指示を出し終えると瓦礫の山に向かった。立ちつくしているビアンカの隣をいろんな服装の男たちが流れていく。ここにいては邪魔だ、と思ったが、動けなかった。


 掘ってどうしようと言うのだろう。

 掘って……中に姫の死体があったらどうしよう。


 帰ってきたいと言ったけど。エリカの言葉が真実を指していなかったらどうしよう。エリカが嘘をついていたら。帰り道なんてなかったのだとしたら。


 帰り道が存在していなかったら。そうしたら。

 彼女が、どこにも行けなかったら。

 ここに、埋まって、いるのだとしたら。


「ビアンカ。行きましょう」


 アイオリーナがビアンカの肩を抱いてそこからどかせてくれた。


「そうしたいなら、一緒に瓦礫を運んでもいいわ。でもそのためにはまず着替えなくちゃね。それにたぶん足手まといよ。わたくしたちは、わたくしたちにしか、出来ないことをしましょう」


「出来ること、ある……?」


「これだけの量ですもの、捜すにしても数日はかかると思うわ。その間この大勢の殿方たちだとて、何か食べないではいられないでしょう。それも練り粉や干し肉なんて味気ないものを食べていては、力も出ないというものよ。眠る場所もいる。冬ですからね、外で寝たら風邪を引くわ、それにケガをする人が出るかも知れない。出来ることがあるかなんて場合じゃないわよ、ビアンカ。あなたは【アスタ】の女王でしょう。寝る場所を求めてやってくる大勢の人たちの世話をするのは、わたくしよりずっと上手なはずでしょう? 教えて頂戴、ビアンカ。頑張りましょう」

「……うん」


 アイオリーナの声はとても暖かだった。ビアンカは迷いも怖れも振り払って、アイオリーナと一緒に歩き出した。アイオリーナに言われたとおり、考えること、やるべきことは山ほどある。経験と知識がめまぐるしく頭の中で巡り始めて、ビアンカはありがたくそちらに頭を向けることにした。


 だいぶ歩いて、王宮の敷地から出た。ここからは、アナカルディアの全貌が見える。今はほとんど真っ暗闇だが、そこここに、ぽつぽつと、人家の明かりが見えている。


「まず王妃宮をどうにかしなくちゃ」


 ビアンカは声に出して言った。


「それから賓館や無人の家も借りよう。アナカルディアの住民たちはこれからどんどん戻ってくるはず、その人たちにも頼もう、ね。家を整えればみんながそこで休めるし、戻ってくる人たちにもいいことのはずよ。あたしたちの手だけじゃとっても足りないわ。女手を増やさなきゃ」


 アイオリーナが暖かな声で励ました。


「そうね、すごいわ、ビアンカ。どうすればいいかしら」

「エルギンに頼んで、王宮や王妃宮で働いてた侍女や召使い、侍従たちを呼び戻してもらおう。それから……そう、そうだ。ね、姫が」胸がずきんとした。「……言ってたよね。地下街には女の人も大勢いたって。デクターが言ってた、地下街はここの近くにあるって。流れ者をひとりつかまえて、地下街の女の人たちに、手伝ってくれるように頼んでもらおう。姫は大勢の流れ者の庇護を受けた人なんだから、彼女のためなら元締めも動くって前に聞いたわ、とすれば女の人たちだって動いてくれるはずよ。それから……イルジットに手伝って欲しいな。でもイェルディアにいるのよね」


「それはマーティン=レスジナルに頼みましょう。ここからレイデスまでは三日の距離、そこから船に乗ればイェルディアまでは、十日もあればつくんじゃないかしら? イルジットは王妃の侍女なのだから、戻ってきて悪いことはないわ。王妃宮について良く知ってる人間がデボラひとりじゃ大変だもの。陛下とカーディスはしばらく王妃宮に住むことになると思うの。新たな王宮が建てられるまでね。今すぐ到着するのは無理でも、イルジットが戻ってくれれば、この先も王妃宮は安泰よ」


「ウルクディアや近くの街からも人を借りよう」

「ラインディアにすぐ手紙を書くわ。鳩が手に入るかしら……」


 ふたりは言いながら足早に馬車道を下っていった。やるべきことは山積みで、それが本当にありがたかった。

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