アスタ(8)
*
シルヴィアは退屈していた。
ビアンカもエルティナも、昨夜仲良くなった娘たちもみんな忙しそうで、自分一人何も出来ないのが淋しかった。シルヴィアはもちろん保存食など作ったことはないし、生魚に触ったこともないのだが、それでも手さえあれば試みるつもりはあった。お茶をいれたり刺繍をしたり、そういう細々した仕事は得意だったし、みんなで力を合わせて山ほどの保存食を作るというのは、不思議にシルヴィアの興味をそそることだった。
そばで見ているだけでも楽しかったのに、鴉の本能が魚の内蔵に反応するので――もったいないあんな美味いところをあんな無造作に捨てるなど、全部俺が食ってやるのに――シルヴィアは見物も諦めなければならなかった。せっかく娘達と仲良くなれたのに、本能のままがつがつ魚の内臓を食らうところなど見せては、幻滅されるに決まっている。
ここは【アスタ】の外れだ。エルティナは午後には出発すると言っていた。どこへ行くにせよ、ここは絶対通るはずだ。万一にも置いて行かれないよう、道の真ん中に陣取ることにする。
言われたのは、今朝、夜が明けてすぐの頃だった。
昨夜はあまり寝ていないからだろう、エルティナは少し疲れているように見えた。当たり前だとシルヴィアは思った。大変な一夜だったのだ。今日もたぶん忙しくなりそうだけれど、一日を乗り切ったら、この安全な【アスタ】で一晩ぐっすり眠って欲しいと、思った矢先のことだった。
――この状態の【アスタ】を去るのは心苦しいんだけど。
疲れたような目のままで、呟くように彼女は言った。
――行かなきゃいけないところがあるの。どうしても、行かないと。シルヴィア、あなたはどうする? まだあたしと……一緒に、来る?
どうしてそんなことを聞かれたのか、よくわからなかった。
シルヴィアは反射的に答えた。行くわ。行くに決まってるわ。ついていくわよ、勿論。
エルティナはシルヴィアを覗き込んだ。疲れた視線が、なぜか哀しげに揺らいだ。
――あたしについてきたら、厭なことを見て、厭なものを思い出して、厭な目に遭うかも知れないよ?
たぶんその時、エルティナは、いろいろとシルヴィアに話そうとしたのだと、思う。
けれどそんな時間はなかった。ロギオンの去った【アスタ】は早朝から動き出そうとしていた。エルティナがここで油を売っている暇は全然なかった。彼女も、ビアンカを手伝って動き出さなければならなかったのだ。
――今は時間がなくて話せないけど……でも……本当はあなたを置いていった方がいいのかなって思ってる。ここが気に入ったんでしょう、シルヴィア。あたしも気に入ったし、みんないい人だし。ここにいた方が、あなたのためにはいいのかなって思うんだよ。
木漏れ日の中で、【アスタ】の入り口から外を見て、シルヴィアは密かに覚悟を決めていた。
私は今まで、いろいろな人に護られて、来たのだ。
だから何も知らず、何も見ずにいられた。国がこんな有様になっているというのに、静かに平穏に暮らしていられた。時たま、令嬢たちの集まる宴に出れば、平穏な生活にさざ波が立つこともあった。けれどそのさざ波は、頭を下げていれば、いつか通り過ぎる類のものだった。
――私は、幸せだったのだ。
でも、今は違う。何も見ないで済むように、汚いものを隠してくれる人はいない。何もしないで済むように、汚いことを代わりにやってくれる人もいない。体をなくして、初めて私は自分の足で立ったのだと、これからは自分の行く道に、自分で責任を取らなければならないのだと、思う。
――だから。
エルティナについて行こう、と思った。彼女が話してくれるまで、エルティナのそばにいよう。彼女の行く道は、たぶんあの――恐ろしい王に通じている。エルティナは、行きたくないと思っていたとしても、たぶん行かなければならないのだろう。だからエルティナは、シルヴィアを巻き込まないように、シルヴィアがこれ以上傷つかずに済むようにと、祈ってくれているのだ。
――でも、私はエルティナについて行く。
そして何を見ても、何を聞いても、どんな記憶が押し寄せても、それでエルティナを責めることはするまい。ここで決めたのは私なのだ。私が自分で、ついて行くのだから。
――エルティナは悪い子じゃないわ。
彼女のことは何も知らないけれど、それだけは断言できる。そしてそれで充分だ。ビアンカのことも、【アスタ】のことも、【アスタ】の娘たちのことも好きだけれど、エルティナはもはや別格だった。シルヴィアは本当に、エルティナのことが好きになっていた。だから一緒にいたかった。おいでと言ってもらえるうちは、自分から離れる気なんか――本当に、なかったのだ。
その時シルヴィアは、なだらかな斜面を見ていた。【アスタ】は森に囲まれているが、斜面の途中には一部分だけ、綺麗に木や草むらが取り除かれている空間がある。そのような空白の部分は、【アスタ】全体をぐるりと囲んでいる。これが、唯一、【アスタ】が持つ防御壁と言えた。あの空間には身を隠す場所は皆無だ。【アスタ】を守る見張りたちの目を逃れて入り込むのは難しい。
と。
ピィ――ッ。
【アスタ】の上の方で、鳴子が聞こえた。
ピィ、ピィ、ピィ――ッ、と再び鳴って、シルヴィアは辺りを見回した。随分禍々しい笛の音だ。鴉の本能が刺激される。シルヴィアは落ちつかなげに羽ばたきをして、そして。
その足音に、気づいた。
【アスタ】から続くゆるやかな道を、一人の細身の男が足早に降りてくる。
不意打ちだった。エルティナを待って道の真ん中に陣取っていたのが失敗だった。シルヴィアは身を隠すところのない開けた乾いた土の上で、クレイン=アルベルトを迎える羽目になったのだ。
『アルベルト、様……』
アルベルトは少し前からシルヴィアに、気づいていたらしい。立ちすくんだシルヴィアを、アルベルトの目が探るように見た。ウルクディアで蹴られた時とは違って、アルベルトは、シルヴィアをもはや、ただの鴉だとは思っていないようだった。
「まさかとは、思いますが」
少し手前で立ち止まって、アルベルトは、身を屈めた。
「シルヴィア姫なのですか――本当に」
『アルベルト、様……!』
先日の宴の際に、緞子の陰で囁かれた、熱い言葉が胸によみがえった。あの時と同じように、アルベルトはひざまずき、シルヴィアにそっと手を延べた。愛おしさを含んだ恭しい手の動きに、歓喜が胸に渦巻いた。
――ああ、私を、私を、こんな身になった私を、まだ愛しいと思ってくださるのだろうか。
人間だったなら、多分その手を取っただろう。
けれどシルヴィアは、翼を伸べる寸前に、それに気づいた。そして後ずさった。その手が禍々しく、とてつもなく恐ろしいものに見えたのだ。蹴られたときには感じなかったのに、手を伸べられただけでこれほどの恐怖を感じようとは。鴉の本能が悲鳴を上げた。
――なんだ、こいつは……!
『……アルベルト様、いったいどうなさったの!?』
「おや、鋭くおなりですね、シルヴィア姫」
ひざまずき、手を伸べた体勢のまま、アルベルトは微笑んだ。
綺麗で、作り物のようで、そして――あまりにも、残酷な、笑みだった。
「わたしは初めからこうなのです。貴女に初めてお会いしたときから、ずっとね。それにしても不思議だ。なぜ、ご存じなかったのですか?」
アルベルトの笑みが凄みを増して、空気が急に冷たく、重たく、固く、その密度を増したように思われた。鴉の本能は早々と屈服してしまっていた。飛んで逃げることなど思いもよらず、圧倒的な力を前に、鴉は戦意どころか生き延びる気さえも放棄していた。蛇に睨まれた蛙というのはこういう気分なのだろうかと、頭のどこかでシルヴィアは思っていた。相手はあまりにも強大で、恐ろしく、残忍だった。
「貴女は、エスティエルティナと同道していたと思ったのですが。違いましたか」
――エスティ……エルティナ。
「彼女はわたしが魔物だと言うことを知っている。それなのに、貴女には警告しなかったのですね。不思議ですね……なぜ聞かされていないのでしょうね?」
これもリルア石の効果なのだろうか。立ちすくんだままシルヴィアは考えた。アルベルトの、あまりにもまっすぐな悪意が、心臓に直接流れ込んでくるようだ。
「不思議だったのです。シルヴィア姫、貴女は、私の想像以上に心の広い方なのですね。まさかご存じないわけじゃないでしょう? 貴女が死んだのは、あのような目に遭ったのは、他ならぬあの娘の――【魔物の娘】のせいだと、いうのに」
――まものの、むすめ。
痺れたような脳の中に、記憶がひらめいた。そうだ。ビアンカがその名前を出したときにもちらりと思った。まだアイオリーナのそばにいた頃、令嬢たちの口さがないお喋りの中に、その名が出たことがあったのだ。
――ティファ・ルダの生き残りの少女が、黒髪だったとか。
――燃え落ちるティファ・ルダから、魔物に助けられて生き延びたとか。恐ろしいこと。
――彼女の報復を恐れるあまりに、王は最後の手段に出たのだと、お父様が言っていらしたわ。何しろ魔物が相手ですもの、形振り構ってはいられないのだと。
――王に殺されているのが平民だからまだいいとは言うものの。
――【魔物の娘】はなぜ出てこないのかしらね。
――早く出てきてくれれば、世も落ち着くのでしょうに。
――わたくしだったら耐えられませんわ。自分のせいで、大勢の民が、
――殺されていると、言うのに。
「それもご存じなかったのですか……」
アルベルトは楽しんでいた。それがシルヴィアにはよくわかった。あまりにもあからさまな悪意に、魂まで凍りつきそうだった。聞いては駄目だとわかってはいた。アルベルトの言うことは何もかもおかしかった。シルヴィアを殺したのは王であって【魔物の娘】ではない。令嬢たちの話を聞いたときにも思ったのだ。ティファ・ルダが滅んで七年にもなるのに、どうして今さらそんなことを言い出したのか――自分の非道に理由をつけたい気持ちが透けて見えすぎる、あまりにお粗末な言い訳だ、と。
わかっていたのに、動くことが出来なかった。
「私はこれで失礼しますよ、シルヴィア姫」
アルベルトは立ち上がり、優雅な礼をひとつした。
「【魔物の娘】に、どうぞよろしくお伝え下さい」
シルヴィアは、混乱していた。
アルベルトが去ってからも、彼女はそこに凍りついていた。恐ろしい圧力が去り、周囲が音を取り戻し、再び羽の上に暖かな木漏れ日を感じられるようになっても、動くことが出来なかった。なぜアルベルトがあんなことを言ったのかわからない。なぜあんな悪意を向けられたのかわからない。宴の時の、あの熱烈な口調も嘘で――【アスタ】の用心棒だったということも嘘で――裏道に案内するといったのも嘘で――そして、
――エルティナもそれを知っていて。
警告してくれなかった。
話してくれなかった。
それは――
騙されていた、ということに、なるのだろうか。
アルベルトに浴びせられた悪意は、ほんの四日前に浴びた、あの悪意とそっくりだった。シルヴィアを憎んだり呪ったりしているわけではないのだ。シルヴィアだから殺されるのではなく、黒髪ならば誰でも良かったのだ、王には。
王は美しい顔立ちをしていた。まだまだ若く、背も高く、巻き毛もたっぷりとし、目元も涼やかで、宴に出れば踊って欲しい女性が部屋中から熱い視線を投げるような、美しい外見を持っていた。その美しい外見で、王はシルヴィアに屈み込んだ。罪悪感などかけらも見あたらない、何か美しい美術品でも愛でるような目でシルヴィアを見て――
初めは指だった。初めの一本で気絶した。無理矢理目を覚まさせられて、これが現実なのだと思い知らされた。寝てはいけないよ、と優しい声で言われた。お前の声はとても綺麗だ、と。
「なんだ、どうしたんだ、この鴉。こちこちになって、置物みてえだな」
男の声が頭上で聞こえて、紅い紅い記憶の中で、現実がわずかに揺らいで見えた。そこは変わらず【アスタ】の入り口で、木漏れ日が羽にかかっていて。
「おーいエルティナー、捜してる鴉ってこれじゃないのかあー?」
「え、いましたか。ああ、本当だ。良かった――」
エルティナが駆けてくる。現実が紅い記憶を押しやって、シルヴィアは悲鳴を上げた。上げるつもりなんかなかったのに、アルベルトの悪意と紅い記憶があまりに壮絶で、エルティナを見たことでたがが外れた。止めなくちゃ、とどこかで思いはしたのだ。エルティナにこの感情を、決して悟らせてはいけない。
エルティナを責める気なんか全然なかった。王が悪いのであって、エルティナにはどうしようもないことだったのだとわかっていた。だから口には出さなかった、絶対出すつもりなんかなかった、今考えたことは、永遠にエルティナから隠さなければならないことだと、本能的に知っていたのに。
『【魔物の娘】がもっと早く出頭してきてくれていれば、私は死なずに――あんな目に――あんな目に――遭わずに、済んだのだろうか――?』
でもエルティナには、聞こえてしまった。
リルア石の効果はあまりに敏感で、シルヴィアの心の乱れをそのまま、丸ごと、エルティナに伝えてしまったのだ。
エルティナが足を止めたのが見えた。整った顔が、表情は変えぬまま、絶望に染められるのをシルヴィアは見た。エルティナを傷つけてしまった、取り返しのつかない傷を負わせてしまったのだということに、シルヴィアが一番傷ついた。
エルティナはシルヴィアを見て、そして、シルヴィアの隣に立つ男を見た。男は黙って、エルティナの隣を通って【アスタ】の方へ戻っていった。通りざまにエルティナの肩をぽん、と叩いてくれたのが、シルヴィアにとってのわずかな救いとなった。
「……シルヴィア」
エルティナの声はあまりにも、優しい。
「黙っていて……ごめんね、シルヴィア」
優しすぎて、答えられない。
「やっぱりこれ以上、あたしのそばにいない方がいいね。もっと早く言っておけばまだ……って、なんかこればっかりだな、あたし」
エルティナは屈み込んだ。さっきのアルベルトと同じような体勢になったのに、彼女はアルベルトとはあまりにも違った。エルティナは微笑んでさえいた。シルヴィアは、泣きたくなった。昨夜のビアンカと同じくらい、エルティナを泣かせてあげたかった。
「あたしの正式な名前はね。エスティエルティナ=ラ・マイ・ルファ・ルダ、と言うの。あたしは……貴女が好きだよ、シルヴィア。鴉になる前に、会いたかった」
どうして今は、リルア石は働いてくれないのだろう。
麻痺したような頭のどこかで、そう考えていた。
どうして今は――伝えたい言葉があるはずなのに――何も、浮かんでこないのだろう。
「さようなら、元気でね。ビアンカに、美味しいもの食べさせてくれるように、頼んでいくからね」
――行かないで、連れて行って、と言いたかったのに。
エルティナを傷つけてしまったという事実が、シルヴィアを縛り付けていた。連れて行ってと言える権利など、自分にはもはやないのだ。
――恨んでなんか、いないのに。
――あなたのせいじゃないって、知っているのに。
――責める気なんか、本当に、なかったのに……
気がつくと、エルティナの姿は既になかった。彼女が【アスタ】へ一度戻っていったのだということは、わかった。ビアンカに頼みに行ってくれたのだろう。そして荷物をまとめて出掛けるのだろう。行かなければならないところへ。
――私を、置いて。
彼女は遅からずここを再び通る。ここを通らないと【アスタ】から出られないのだから。それを悟ると、シルヴィアはそこから逃げ出した。置いて行かれるのだと言う事実から、もう二度と、エルティナに近づいてはいけないのだという事実から、逃げ出したのだった。




