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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第十一章 王宮
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王宮(12) フレデリカ

 もう少しのところだったのに。もう少しで、あとほんのもうひと押しで、“流れ星”を堕とすことができたのに。


 フレデリカは悔しくてならなかった。隣にいるエリカも悔しそうに歯ぎしりしている。




 エリカがフレデリカの前に現れたのは、半月ほど前のことだ。


 それ以前――ここひと月ほど、フレデリカはせっせと働いていた。“流れ星”に関する情報を貪欲に集め、整理し、推測し、エリカを演じるのに必要な、様々な欠片を集めていた。ティファ・ルダに行ってエリカの墓を見て、それからベスタに行って彼女の遺した不思議な鞄や衣類を見た。それから王宮の宝物庫で、ローラ=シェイテルの遺した手記を見つけ、更に学者たちが“サトウマイ”から得た知識を書き留めた手記や手帳や帳面や走り書きを、読んで、読んで、読んで読んで読みまくった。ワタナベエリカという名も、サトウマイと言う名も、その時に知った。


 特にフレデリカの心に食い込んだのは“流れ星”の片割れ――今フレデリカの隣にいる、エリカという少女のことだった。ローラの手記を読み学者たちの手記を読む内に、ベスタで見た幻影に似たものがフレデリカの前に立ち現れるようになった。そのうち幻影は実体を得た。具現化したのだ。エリカは死して尚、無念のあまりにこの世に留まり、力を蓄え、フレデリカの前に現れるまでになったのだ。エリカはフレデリカに訴えた――マイが憎い。憎い憎い憎い。なんであの子だけ元気で生きてて、あたしが死ななきゃいけなかったの。エリカはフレデリカの前で泣き、どうか仇を討ってくれと、切々と説いたのだ。もちろんフレデリカに否やはない。“流れ星”は全ての元凶だ。この世界とは何らか関わりのない異物であり排除すべき存在である。


 何よりフレデリカの“つがい”であるクレイン=アルベルトを誑かしたのが許しがたい。

 愚かな男ではある。憎らしくて頑なで、フレデリカの助言も忠告も聞き入れない。フレデリカの“右”に相応しくないのではないかと思ったことも一度や二度ではない。

 しかし一度フレデリカの“つがい”と認めた右だ。――あんな小娘に誘惑する権利などない。


 クレイン=アルベルトはアイオリーナ=ラインスタークを拉致するという大きな仕事に失敗した時に、“執着を抱いた”らしい。

 フレデリカは育ての親から、気をつけろと言われていた。“そなたらは不完全じゃ”と、フレデリカを育てた人魚は言った。“不完全故に、半身を求める。箱庭の中に住む正の存在がそなたらを狂わせる。執着を抱いてはならぬ。執着がそなたらを殺す”――と。


 クレインを狂わせたものが、どうやらその“執着”であるらしい。クレインは執着を抱き、そして狂った。歯車がひとつひとつぽろぽろと外れて落ちるように、狂気が彼に食いつき蝕んだ。彼は手駒にしていたヒリエッタ=ディスタを食い殺し、なりふり構わずあの娘を襲おうとして炎に灼かれ、命からがら逃げ出して、その途中で銀狼に追われた。何とか王宮に帰り着きはしたものの、彼はもはや、フレデリカの“つがい”に相応しい存在ではなくなっていた。十年前、死にかけたフレデリカを助け、温かな毒を注ぎ込み、大丈夫だと囁いた、あの凜々しい魔物は見る影もなく落ちぶれていた。フレデリカはそんな彼を温かく迎え入れ、王宮に入れてやったのだ。手当てし、介抱してやったのだ。少々嫌みと小言は言ったけれど――なのにクレインは、フレデリカがエリカのためにあの娘を王宮に呼び寄せて殺す計画を語ったところ、あろう事かそれに異を唱えた。


『わたしには、あなたがあやうくおもえる』


 クレインは――自分こそが執着を抱いて狂気に蝕まれていながら――どことなく遠巻きにするようにして、フレデリカに言った。


『あなたはわたしがあのむすめにしゅうちゃくをいだいてくるったとせめるが』


 とてもたどたどしい言い方だ。情けない。子供に戻ってしまったかのような話し方。

 

『わたしには、あなたこそがえりかにしゅうちゃくをいだいているようにおもえる』


 何を言うのか。何をバカな。クレインにはわからないのか。エリカの無念さと恨みとが、どれほど深いか。気の毒なエリカ。“流れ星”を断罪し堕とすことこそが、エリカの、そしてフレデリカの望みではないか。

 フレデリカの隣でエリカが言っている。あの娘に自らの罪を見せつけ、どれほど非道なことをしたのか知らしめて、絶望の内に殺してやらねば気が収まらない。

 その哀切な声が、あなたには聞こえないのか。エリカが見えないのか。こんなにそばにいるのに。


『きこえない』


 クレインはそっぽを向き、フレデリカは嘆息した。しょうがない。クレインはもう子供になってしまった。子供は聞き分けがないものだ。

 早いところこの子供をどこか別の場所に追い出して、新しい“右”が来られるようにしなければ。

 しかし焦りは禁物だ。クレインは頭の中身は子供だが、十年前に本体が灼けてしまったフレデリカよりずっと強い。子供をあやすように、フレデリカは猫なで声を出す。


『それなら仕方がない。そなたに手伝ってもらおうとは思わぬ』

『あのむすめはちょうみりょうだ』

 クレインは囁いた。

『わたしがそだてたぼうくんをおいしくするための』


 暴君を育てたのは儂だ。長年この王宮に棲み着き、数多の暴君を育て上げたのはそなたのではなく儂の功績じゃ。そう言いたかったが、言い争うのも面倒で、フレデリカは黙っていた。クレインはそんなフレデリカの忍耐になど気づきもせずに、だだをこねるように言いつのった。


『おうにさいごのしあげをするまであのむすめにてをださないでほしい』

『しかし呼ばねば仕上げもできまい』


 よしよしとあやす心持ちでフレデリカは言い、クレインは頷いた。


『よぶのはかまわない』





 そう言ってあの時満足そうに頷いたクレイン=アルベルトは、今、フレデリカの呼びかけに応じて現れて、フレデリカの望みどおりヴェガスタを殺した。


『クレイン、遅いではないか……!』


 フレデリカはそう叫び、大きく距離を取った。“流れ星”の連れてきた魔物が、クレインに襲いかかったのだ。あれはずっと王宮の前に飾られていた魔物だとフレデリカは悟った。“流れ星”がファーナと呼んでいた。七年前、あの娘を助けて逃げ、大勢の王の兵を殺し、ルファ・ルダ国内の崖のそばで、王に討ち取られた魔物。クレインに遜色ないほど雄々しく立派な魔物だった。最近喪ったのだろうか、左前足がなかったが、クレインを相手に一歩も引かずに立ち向かっている。


 あれほど立派な“右”も、“流れ星”に誑かされた。

 なぜだ。あんな細くて吹けば飛びそうな小娘が、なぜそこまで尊重されるのだろうか。常軌を逸し気が狂うまで執着を抱かれるのだろう。『赦せないわ』エリカが囁く。『なんであの子ばっかり。罪人なのに。異端なのに。異物なのに。この世からはじき出して、親しいもの全員から引きはがして、あの娘に相応しい境遇に堕としてやらなければ。クレインもファーナもあの子のもの。元々はあなたのものなのに』


『そうじゃ、儂のものじゃ……!』


 “流れ星”が王座へ向かっている。王座の真下を目指していることは疑いなかった。この王宮は寄せ木細工のような構造をしており、その中枢を貫く長い杭を引き抜けば、崩壊するのだ。フレデリカはファーナとクレインをちらりと見、充分距離が空いたことを確認してから“流れ星”に向かって跳んだ。“流れ星”の胸元で、あの忌々しい宝剣が甲高い警告音を立て、“流れ星”が元の大きさに戻した宝剣を鞘から引き抜く。目映い光が迸る。炎が宿っている。同時に湧き起こるのは警告音だ。けたたましい騒音に、フレデリカは思わず息を詰める。

 しかし、止まらない。フレデリカのすぐ隣でエリカが歓喜の声を上げている。殺せる。殺せる。やっと殺せる。例えフレデリカが小さくて“流れ星”が完全体でも、こちらには“毒”という武器があるのだ――


『もらった!』


 フレデリカは鉤爪を振り下ろした。毒をたっぷり含ませた爪。

 その下に“流れ星”がいる。フレデリカの鉤爪が温かな肉の感触を捕らえた。


 いや。


 フレデリカは愕然とした。

 鉤爪と毒を受けたのは、“流れ星”ではなかった。


 成人の、男だった。


『……貴様……!』


 フレデリカは叫んだ。地面に倒れ込んだ“流れ星”の上に、エリオット=アナカルシスが覆い被さっており、フレデリカの鉤爪はエリオットの背中を深々と貫いていた。と、フレデリカは異様な気配を感じて振り返った。間近に、ファーナを振りほどいたクレインがいた。美しい瞳を憎悪に見開いて、クレインは叫ぶ。


『てをだすなと……! わたしが! あれほど! あれほど!!!』


 そこで、

 ひどく壮絶な音がした。


 【亀裂】だ。

 フレデリカは愕然とした。執着を抱き、狂って、見境がなくなっているとわかっていたが、まさかここまで取り返しの付かない事態を引き起こすとは。ずれるような、割れるような、砕けるような、ひどく取り返しのつかない音を立てながら、空間が軋む。歪んで、ひび割れて、ずれて、そして――“あちら”が現れる。

 “夜”だ。


『あなたはなぜわたしのじゃまばかりするのだ!!』


 クレインは怒りの声を上げながら一瞬足を踏み外した。箱庭の亀裂に足を取られたのだ。小さな黒い穴。まだ空けるべきではなかった穴――箱庭が崩れてはアシュヴィティアの理想も実現できなくなるというのに。フレデリカは驚愕から立ち直り、激昂した。


『何をしている……!』


 クレインの上げた怒号が、その叫びをかき消した。


『それはこちらのことばだ! ふれでりか! なにがうるわしのひだりだ、このみさかいのない、おもいやりのない、ごうくつばりのかんがえなしの、あばずれめ!!!』


 クレインは“流れ星”に怒っているのではなかった。フレデリカは呆気にとられた。どうやらフレデリカに対して怒っているらしい。『なんであなたに怒るのかしら』エリカも呆気にとられている。『怒りたいのはこちらの方よね』

 全くだ。エリカの言葉でフレデリカはかろうじて平静を取り戻した。エリカは本当に気立てのいい物わかりの良い娘だ。


 かん高いきしむような雄叫びが、クレインの足元から吹き上がる。


 さっきクレインの空けた穴が盛り上がりつつある。下から触手や鉤爪が引っかき、めりめりと空間を押し開き、穴を広げようとしている。フレデリカがそちらに気を取られた一瞬に、クレインがフレデリカに襲いかかった。フレデリカは身を翻して逃げたが、クレインは易々とフレデリカを捕まえ、その大きな前足で、


『わたしのじゅうねんを』


 フレデリカの背中を、


『むいにした!!』


 引き裂いた。


 どっと“毒”が溢れ出し、フレデリカは恐怖と混乱で慌てながら身をよじった。殺される。殺される。アシュヴィティアに選ばれし崇高な左である儂が、こんな気の狂った愚かな子供の癇癪によって殺されるなんて。バカな。バカな。クレインの腕がもう一度振り下ろされる寸前にフレデリカは身をよじり、何とかクレインの前足を振りほどいた。死ぬ。死んでしまう。箱庭の終わりだ。終焉だ。つまりアシュヴィティアの栄光もここで潰える、そう思いながら、フレデリカは死にもの狂いでさっきの穴を目指した。あの向こうには仲間がいる。毒もふんだんにある。一度引いて身体を治して――箱庭が。箱庭がもし存続したら、その暁にまた戻ってくればいいだけだ。


『逃がすか』


 ファーナが穴の前に割り込んだ。こちらは狂っていない、左前足がないだけの立派な魔物だ。フレデリカは叫んだ。


『儂はアシュヴィティアの左ぞ! そなたをつがいにしてやろう、儂に力を貸して――』

『嫌だ』ファーナは蔑むように嗤った。『お前はマイの障害だ』


 またなの!! エリカが叫んでいる。あなたもなの――あなたもあの子に誑かされたの! あんな子のどこがいいの!!

 フレデリカは激昂し、叫んだ。


『箱庭を守らねば“流れ星”の望みも叶うまいぞ!』


 ぎち。

 フレデリカの足元で、亀裂が走った。一瞬思考に空白ができた。どうして、と思った。

 執着を抱き気の狂った魔物でなければ箱庭に亀裂を走らせることなどしないはずだ。その亀裂はフレデリカの足元で生じており、フレデリカには、なぜそれが生じたのかわからなかった。フレデリカは誰にも執着を抱いたりしていない。


 ――私には貴女がエリカに執着を抱いているように思える。


 クレインの言葉が頭をよぎる。

 ファーナが舌打ちをする。クレインの空けた穴はファーナが閉じようと働きかけるのもむなしくじりじりと広がっている。フレデリカの空けた穴もすぐさま下の魔物たちが取り憑き、歓喜の声を上げながら広げようと触手や鉤爪を差し込み始めている。フレデリカは嗤った。傷の痛みに耐えながら、高らかに嗤った。


『もはやお終いだ――全て壊してしまえ! あの娘! あの娘がここへ戻って来て穏やかな幸せを望むなど、絶対に儂が赦さぬ!!!』


 ファーナが前足をフレデリカに向けて振り下ろした。

 フレデリカはかろうじてそれを避けた。ファーナはフレデリカには構わず、今空けたばかりの小さな穴を前足で踏んだ。魔物は歪みに影響を受ける、それ故に歪みに影響をもたらすこともできる。ファーナはそこから突き出ていた鉤爪と触手を踏み抜き、悲鳴を上げてそれらが戻った隙に、その穴を塞いだ。


 フレデリカはその一瞬を見逃さなかった。身を翻してファーナのそばをすり抜け、クレインが空けた穴――もはや一抱えほどもある――に身を躍らせた。下から箱庭に押し寄せようと詰めかける魔物たちの間をすり抜けて、毒と怨嗟に満ちた“外”に飛び出した。

 箱庭が続いていたら、また戻ってこよう。エルギン――あの娘が苦労して王座へ導いたあの若き王を、暴君へと堕としてやろう。そう、心に誓いながら。

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