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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第十一章 王宮
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王宮(11) シルヴィア

 ファーナが階段を上がりきった。


 舞は丁重に礼を言ってファーナの背から下りた。この辺りは階下ほど暗くなく、ぼんやりと辺りが見える。正面に、扉が見えている。

 ふんふんと匂いを嗅いで、ファーナは言った。


『外に銀狼が集まっている。びりびりして煩いくらいだ』

「びりびり?」

『威圧を放っている。杭を抜いてこの建物を崩す人間の、加勢をしようと言うんだろう。この建物が崩れたら、あの塔から落ちたときのように、お前の下に歪みが開いて別の場所に移動できる。だからお前は来た。そうだろう?』

「うん……」

『ならば脇目を振らず、まっすぐに“杭”とやらを目指すべきだ。あちらに何がいようと、何を言われようと、耳を貸すな』


 そう言ってファーナは、扉を開いた。


 ファーナの身体越しに、その広々とした空間が見えた。

 とても広い。――本当に、広かった。部屋は全体的に階段状になっており、舞のいる場所がこの広間の中で一番高いところにあった。その部屋は、貴婦人のドレスのように、左側に向けて緩やかに広がっている。シャンデリアも、ずらりと掲げられた燭台は全て消えているのに、広間全体がほんのりと明るい。

 舞の正面に、王座がふたつ、並べて置いてあった。手前の王座は空で、奥の王座に、女性がひとり、もたれかかるようにして座っていた。


 舞は息を呑んだ。

 アンヌ王妃だった。


 その足元に、知らない男がひとりいた。面差しがエルギンに似ている、そう思って舞は、愕然とした。

 今この時期に王宮の中にいて、エルギンに似た壮年の男、と言えば、エリオット=アナカルシスしかいないはずだ。ローラとセルデスと、ティファ・ルダの人々を殺した仇。大勢の黒髪の娘を集めて殺して、シルヴィアでさえ手にかけた。舞にとっては七年の間憎み続け、いつしか憎しみそのものが具現化したかのような存在――だった。


 はずだ。


 それが。



 ――どうして。



 舞は途方に暮れていた。この男は一体誰だろう。

 そこにいたのは、全然知らない男の人だった。


 彼はアンヌ王妃の座る王座の足元に蹲っていた。剣を抱えて、まるで王妃を守る騎士か何かのように、忠実な護衛のようにそこにいた。舞を見て、彼はゆっくりと立ち上がった。ファーナが舞を振り返る。


『脇目を振るなと言ったはずだ』


 その時。


「舞ちゃん、やっと来てくれたのね」


 彼女が、現れた。

 いつの間にか、彼女は、舞の近くに立っていた。ゆっくり歩いて、見知らぬ男とアンヌ王妃の姿を遮るように立った。王妃はどうしたのだろう、彼女の声は静まり返った広場にかなり大きくうつろに響いたのに、身じろぎをする様子もなかった。心臓を冷たい手でぎゅっと握られたような気がした。亡くなったのだろうか――

 しかし駆け寄ることも声をかけることもできなかった。彼女が、愛おしむような、何か美術品でも愛でるような目で、舞を見ていたから。


「舞ちゃん」


 彼女が言葉を重ね、舞は、目を閉じた。絵里花ちゃんの顔は、もう、ほとんど思い出すことができなかった。でも、彼女の顔立ちは、アナカルシスやエスメラルダ近辺に住む、どんな人たちとも違っていた。草原の民とも、アルガスのような南方の人々とも違う。舞と同じ、黄色人種に間違いなかった。

 渡辺絵里花という名も、確かに絵里花ちゃんのものだ。彼女が身につけている衣類の意匠も、アナカルシスにはないものだ。それから彼女が肩にかけているあの色鮮やかな背嚢は、どこからどうみてもランドセルだ。絵里花ちゃんが生きていて、十年、どこかで年を重ねていたら、きっと彼女のようになるだろう――と、思わずにはいられなかった。


 舞は震える声で訊ねた。


「貴女は……誰?」

「あらやだ、ちゃんと伝言をしておいたのに、こっちの世界の人間って本当に信用ならないわよね。……あたしは渡辺絵里花よ。舞ちゃん、忘れちゃったの?」

「貴女は誰?」舞はもう一度訊ねた。「絵里花ちゃんが生きてるはずない。だって……」

「そうよね」くすっ、彼女は嗤った。「だって……あなたが、殺したんだものね」


 あたしを。

 あなたが、殺したのよね。


 エリカの言葉はとても冷たく、辛辣で、舞は、すとん、と、彼女の憎しみと怒りが胸に落ちるのを感じた。彼女が怒るのは当然だ。だって舞が殺したから。絵里花ちゃんを抱き締めて、一緒に連れてきてしまったから――。舞は十年こちらで生きた。七年前にとても辛く苦しく哀しい出来事があったけれど、ランダールに拾われ、ニーナと一緒に過ごすようになってからは、とても、とても、楽しい日々を過ごした。

 身の程を知らず、こちらで生きたいと、願ってしまうほどに。幸せな日々だったのだ。


「ねえ舞ちゃん。一緒に帰ろうよ」


 優しい猫なで声で、エリカは囁いた。


「杭を抜いて、一緒に、あっちの世界に帰ろうよ」


『舞』


 新たな声が、出し抜けに、左手の、階段の下の方から囁いた。大人の女性の声だった。お母さんだと、舞は思った。お母さんが、呼んでる。


『舞……そこにいたの? 迎えに来たのよ。一緒に、帰りましょう』

『舞』


 今度は男の声がした。お父さんだと、舞は思う。


『舞、そこにいたのか。十年も捜したんだ。早く、帰っておいで』

『こっちにおいで』

『こっちに』

『おいで』

『おいで』

『おいで』


 前から。右から、左から、上から下から斜めから、様々な声が舞に呼びかけた。舞はその声に呼ばれるように、一歩、前に出た。震えていた。帰りたくないと思った。断罪されるような気がしてならなかった。十年も。十年もの間、舞は両親を忘れ、故郷を忘れ、ローラを慕いセルデスに懐き、ファーナに出会い、ニーナと遊んで。大勢の人々に愛着を持って、ビアンカやアイオリーナと出会って、アルガスに恋をした。舞にはそんな権利などなかったのに。この世界の住人でさえなかったのに。舞の属するべき世界を忘れて、うつつを抜かして。

 本来いるべき場所に、帰りたいと思わなくなって。

 絵里花ちゃんを殺したのに。絵里花ちゃんが死んだのに、舞は自分の幸せを。ローラとセルデスが殺されたのに、舞は自分のためだけに。


『どうしたの、舞。早くこっちにいらっしゃいな』


「舞ちゃん」エリカが誘う。「こっちにおいで。帰らなくっちゃいけないでしょ? そうしなくちゃいけないって、わかるでしょ? そこにいちゃいけないわ。あたしを連れて帰ってよ。あたしだって、お父さんとお母さんに、会いたいんだから」

『舞』

『マイ』

『まい――』


 舞は足を踏み出した。震える足を叱咤して。帰らなければ。杭を抜いて。王宮を崩して、エルギンの治世を完成させて、銀狼の要請を叶えて、それで。絵里花ちゃんを、連れて帰ってあげなければ。


『マイ』

『帰っておいで――』


 すすり泣きが聞こえた。自分の声だと舞は思った。ここに来てようやくわかった。舞は帰りたくなかった。帰るくらい大したことじゃないと思っていたけれど、そんなはずがなかった。ニーナの、ビアンカの、アイオリーナの、そしてアルガスの、そばにいたい。近くにいたかった。ひとりになんてもうなりたくなかった。例え王宮の傍でしか生きられなくても、歪みに晒されて何ヶ月か後に衰弱して命が尽きようとも、こちらにいたかったのだ。舞の足が止まったのをエリカは目ざとく見つけ、囁いた。


「早くいらっしゃいよ。まさか帰りたくないなんて言わないでしょう?」


 あたしを殺しておきながら。

 自分の幸せのためだけに。

 こっちに残りたいなんて、そんなひどいこと、言わないでしょう?


 舞は喘いだ。息が巧くできない。耳のそばで音が反響しているようで、頭がくらくらする。帰らなくちゃ。帰りたくない。帰りたくない。でも帰らなくちゃ。舞は足を踏み出そうとして――


 その時、闇の中で、“お母さん”の声のしている方角から、異質な、音が聞こえた。

 さざ波のような音だった。ざざっ、と、何か――ノイズのような音が走った。それに続いて闇に響いたのは、小川のせせらぎに似た音と、若い女性の声。


『この子は人間なの』


 えっ、と、思う。なんだこの声。違和感に引きずられ、罪悪感と強迫観念が遠のく。息ができるようになり、周囲が把握できるようになる。少し離れた正面で、エリカは立ち尽くしていた。

 彼女にとっても明らかに想定外だったに違いないその声。舞は息を吸った。

 あり得ないことが起こった。

 だって今のは、舞の声だった。


『体は鴉だけど、心は人間なの。名前は――』


 闇の中に、その名前が落ちる。宝石のようなその名前。


『ルヴィ』


 ビアンカの声が応じた。『ルヴィ?』


『あたしよりちょっと年下くらいの女の子。可愛い子なんだよ。あたしたちの会話も全部わかって聞いてるから、喋る内容には気をつけて――』


 この会話を、以前確かにした。

 あの時、舞のそばに、シルヴィアがいた。


『マイ』


 ファーナが囁いた。舞は振り返り、そこにある、様々な色が複雑に渦を巻く、ファーナの美しい瞳を見た。ファーナは舞の視線を捉えて、僅かに身じろぎをした。居心地が悪そうだが、目を逸らすことはしなかった。


『話はよくわからないが。つまり――お前は帰りたいのか?』

「舞ちゃん!」


 エリカが金切り声を上げる。ファーナはエリカを完全に無視して、言葉を継いだ。


『お前は何を望んでいる? お前の幸せは何だ? あの娘がもう死んでいるなら――そんな存在には、もう、何の力もないはずだ』

「舞ちゃん――!」

『お前に殺されたというあの娘が、お前を赦そうと、赦すまいと、その怒りにも断罪にも、何の力もない。お前を』

「舞ちゃん……!」

『お前を引きずろうとしているのはお前だ。お前を縛ろうとしているのもお前だ。あの娘がお前を赦さないんじゃない。赦してないのは、お前なんだ』


 幸せを祈っていると、あの子は言った。

 あんたとあんたに会えて幸せだったと、鴉に言い残して。

 幸せを祈っていると。あなたとアイオリーナが幸せになってくれること、それが私の望みなのだと。


 それを忘れないで。

 どうか、忘れないで。


 ――どうかあなたが、幸せになりますように。


 真摯な祈りを思いだし、舞は手のひらに顔を埋めた。何て気高い子だったのだろうと思うと、今さら胸を衝かれる。舞を恨んで良かったのに。エリカのように、舞を断罪して良かったのに。お前のせいだ。お前のせいで。お前が死んでいたら、私は死なずに済んだのにと。


 でもシルヴィアはそうしなかった。代わりに、舞の幸せを祈った。

 天使のような彼女が、祈ってくれた、舞の“幸せ”に通じる道。それがどこにあるのか、まだよくわからないけれど。

 彼女の祈りを道しるべにし、そちらに歩いて行くことが、誤りの、はずがない。幸せを。幸せに。道のりはまだまだ遠そうだけれど、全て片付いたその先に、あなたにとっての幸せが――


 待っていて、くれますように。


 エリカが喚く。


「舞ちゃん!!!」

「うるせえよ」


 出し抜けに。

 そこに忍び寄っていたヴェガスタが、剣を投げた。


 剣はくるくると回りながら弧を描いて、エリカの身体に付き立った。「あっ」エリカがよろめき、倒れかけた。舞は思わず駆け寄ろうとし、ファーナの左前足がそれを止めた。


『見てろ。あれは死人じゃない。ただお前の気力を奪い、俺からお前を引きはがそうとしていただけの』

「あ、あ……」

『悪意の、かたまりだ』


 ファーナの声に従うように。

 エリカは踏みとどまり、あああ、と息を吐いた。ヴェガスタが駆け上がってくる。と、その足が、小さな何かを蹴ったらしい。こんこん、軽い音を上げながら弾んでいくその小石が、さっき聞いた“お父さん”の声で言った。


『舞。舞、そこにいたのか。十年も捜したんだ。早く、帰っておいで』


 かすかな光の中に、転がる小さな丸い小石が見える。見覚えがある。アルガスが王妃宮で、王妃の執務室のすぐ隣の部屋で見つけた、音を保存しておけるらしいあの小石にそっくりだ。ヒリエッタが回収していたそれを、エリカが利用したのだろうか。ビアンカとシルヴィアと一緒に小川のほとりで昼食を取ったときの会話が、消しきれずに残っていたのだろうか。


「下がってろよ娘っ子。この魔物は俺の獲物だ!」


 ヴェガスタが腰に差していた斧を引き抜く。俯いていたエリカが、右手を振った。


「邪魔をするな!!」


 その右手に生えた鉤爪。広間のそこここで囁く、帰っておいで、という声。初めに巻き戻されて、今初めてのように舞を呼ぶ、女性と男性の、無機質な声。


 ――そんな存在に、何の意味もない。

 ――赦せていないのは、お前なんだ。


『マイ。お前は、どうしたい?』


 ――幸せに。


 異物だと思っていた。この世界に住む権利のないよそ者だったのだと。

 この世界の人々と、一緒に生きていける立場のものではなかったのだと。


 でもシルヴィアが祈りをくれた。彼女の願いは命綱だ。何よりも心強い、舞とこの世界とを結ぶ、よすがだった。


「帰りたく、ない……」


 幸せがどこにあるのかはわからない。でも、エリカと共に行った先にないことだけはわかっている。

 ファーナはあっさりと頷く。


『ならばどうする。杭を抜くのはやめるのか』

「杭を……」


 抜かないで外に出たらどうなるのだろう。アイオリーナは舞のために、銀狼を敵に回して、第一将軍の座を継いで、アナカルシス中から兵を集めて戦うと言ってくれた。それはアイオリーナの幸せに背くことに違いないのに、それでもなお。

 だからそうするわけにはいかない。シルヴィアが祈ったのは、舞の幸せだけじゃないからだ。


「杭を抜いて……別の場所に移動して……でも……帰りたく、ない」


 自分の望みを口にすると、それが酷く理に反したことのように思えてくる。しかしファーナは、こともなげに言った。


『ならばそうするといい』

「そんなの……」

『できるさ。お前は歪みの影響を受ける。つまり歪みを操ることも出来る。俺もできる。お前に渡した角の立てる音を聞いて、そこに道を開くことができる。だからお前にもきっとできる。帰らないで、この世界のどこかに出ればいい。そうすればいつかきっと、アルガスがお前を捜し出せる』

『ヴェガスタあああ!』


 エリカの姿が変わっていた。毛が生え、翼が生え、ファーナよりだいぶ小柄な猫科に見える獣だった。ワンピースとカーディガンを引き裂き、魔物は激昂した。


『貴様、貴様、貴様貴様貴様よくも……!』

『よく考えろ、マイ』ファーナは前に出ながら言った。『よく考えろ。何が最善なのか、考えろ。道を探れ。お前はこの世界にとって異物かも知れない。だから他の存在より少々苦労するかも知れない。でも道はきっとある。手探りでもいいから、前に進め』

「ファーナ……」

『お前は俺の愛し子だ。いつかきっと、幸せになれ』


 魔物が冷気を噴き出した。しかしヴェガスタは一瞬も怯まなかった。さっき投げた剣を左手で拾い上げ、右手に剣を構えて斬りかかる。エリカが下がり、何かを撃ち出した。毒の塊だ。ヴェガスタはそれをまともに胸に受けたのに、全く動じる気配もない。斧が魔物の身体に食い込み、剣が魔物の足を床に縫い付ける。そこへファーナが出て行き、焦ったエリカは叫んだ。


『クレイン! クレイン、クレイン……!』

『マイ、走れ!』


 ファーナの声に叱咤され、舞の呪縛がようやく解けた。舞は走り出した。と、疾風が奔った。「がっ」ヴェガスタの声が横に流れていった。ヴェガスタの背後から声もなく襲いかかったクレイン=アルベルトが、ヴェガスタの身体を横薙ぎにした。ヴェガスタの最期を、舞は見ることも出来なかった。ヴェガスタの亡骸はもんどり打って、階段の下へ落ちていく。


『クレイン、遅いではないか……!』


 エリカの声が甘えを含む。アルベルトが何か答える前に、ファーナが彼に、襲いかかった。

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