アスタ(7)
「……嘘」
足が勝手に、止まった。
どうしても、動かせなかった。
倒れたビアンカに駆け寄ることが出来ず、舞は呆然と立ちつくした。ビアンカの着衣はほぼ整っていたが、襟元が開かれていた。彼女は綺麗な顔をしていた。ただ眠っているだけのように、見えた。
「うそ……」
どうして足が動かないのだろう。どくんどくんと鳴る心臓の音を聞きながら、舞は自分を罵倒した。いつもこうだ。最悪の事態を恐れるばかりに、体がすくんで動けなくなる。
先ほどから忍び寄っていた厭な予感が舞の全身を捕らえて呼吸さえも阻害していた。ビアンカが手に持ったアスタの花束は、茶色に変色していた。枯れているのだ。どの花も五枚の花弁を完璧に残して、花束にされてから一度も動かされず、ただ生気だけを吸い取られてしまったかのように、からからに乾いている。
アルガスが舞を追い越した。花を蹴散らしてビアンカに駆け寄っていく。舞は自分を叱咤した。ばか、動け。動け、動け、動け……
「……息がある」
ビアンカの上に屈み込んだアルガスが、言った。
「生きてるぞ。気絶してるだけだ」
一瞬、頭が真っ白になった。
「ビアンカ……!」
現金なもので、生きている、という言葉が舞の呪縛を解いた。ビアンカに駆け寄ると、確かに胸が静かに上下していた。舞はビアンカの手に触れた。手は柔らかくて、温かかった。枯れたアスタの花が、力のない手からぱらぱら落ちた。枯れた花束の禍々しさとは裏腹に、ビアンカの顔は気持ち良さそうにさえ見えた。
口元に手を当てると、呼吸が手に触れる。喉に触れると、とくとくと血の流れる感触がある。けれど舞は眉をひそめた。ビアンカの開いた首元に、赤黒いような小さな痣がある。
「何これ……」
呟くとアルガスが、「え?」と呆気にとられた声を上げた。
「見て、これ。痣かな? 元からあったのかな。何だろうこれ。気絶したのってこのせいかな」
間があった。
ややして不思議そうな声が降ってくる。
「え? いや、待て。知らないのか」
「知らない」
振り仰ぐとアルガスが目を丸くしていた。信じられないものを見た、と言いたげな目は痣にではなく舞に向けられている。舞は瞬きをした。
「知ってるの?」
「知ってるというか。まさか知らないとは」
「……何?」
「いや知らないんならいい。とにかくそれは気絶とは関係ない。釦を留めてやってくれ」
「ああ……うん」
まだいぶかしく思いながらも舞はビアンカの首元を留めた。そして再びつくづくとビアンカを見た。頬は赤い。手も温かい。ただ気絶しているだけ、という事実は、本当に嬉しいことではあったのだが、でも腑に落ちないことでもあった。
「誰のしわざ……なのかな」
言いながら答えはわかっていた。ファーナが植物を枯らすのを見たことがあったからだ。魔物は植物からも生気を吸い取ることが出来る。ファーナによって枯らされた花は、花弁を全てつけたまま、みるみる茶色くしおれていった――まさに、ビアンカが握らされていた、アスタの花束のように。
クレイン=アルベルトが、ここに来たのだ。そしてヒリエッタが立ち去って、舞とアルガスがたどり着く前のわずかな隙に、ビアンカを気絶させて、寝かせて、花束を持たせて、その花束を枯らした。
――ティファ・ルダの血筋を絶やすのは本当に容易いことなのですよ。
アルベルトの穏やかな、でも残酷な声が聞こえる気がする。
――これは、警告です。愛しい我が娘よ。
舞はビアンカの手を握り締めた。あたしがビアンカを巻き込むなら、容赦はしないと言うことだ。たぶんロギオンも、ビアンカが危険になるということを知っていたのだろう。だから舞に告げたのだ。彼女を護るようにと。
ピィ――ッ。
唐突にかん高い音がした。見上げると少し離れた場所で、アルガスが呼子を吹いていた。ピィ、ピィ、ピィ――ッ、すこし間を置いて、再び三つ。呼子の音は【アスタ】中に響き渡っただろう。それほど大きな音だった。
三つの音を組にして四回吹き終わると、アルガスが呼子を下ろした。見つめる視線に気づいて、手のひらの中の呼子をちらりと見せた。
「【アスタ】の用心棒が渡される笛だ。不審者がいる、周囲に警戒して捜せ、緊急、と吹いた」
「そっか……」
ヒリエッタが降りて行ってからまだ本当に間がない。ビアンカが一人になったのを待ってからこの状態にしたのなら、まだ遠くへは行っていないはずだ。舞は腰を浮かせた。
「ビアンカをこのままにしてはおけない。あたしがこの辺捜すから、ビアンカを運んでくれない?」
「それはできない」
アルガスの答えは素っ気なかった。灰色の目が舞を見て、訊ねた。
「ビアンカを運べるか? 無理なら誰かが来るまでここで待つしかないが……無理そうだな」
「え?」
舞は瞬きをした。
「や、そんな悠長なことしてられないでしょう。ビアンカはあたしより大きいし、ガスが運んだ方が」
「わかった。じゃあ俺が運ぶから一緒に来てくれ」
「……なんで? だからそんな悠長なことしてる場合じゃ」
舞は苛立った。アルガスが何を言いたいのか、わかってはいた。つまりこの辺りは危険かもしれないから、お前に任せてはおけない、と言っているわけだ。あからさまに軽んじられた気がして、腹が立った。
「捕らえようなんて思ってない。その呼子を借りていく。見つけたら吹く。それくらいあたしにもできる」
「そういうことを言ってるわけじゃない!」
アルガスが声を荒げた。舞は、目の前で、アルガスの灰色の目が藍色に染まる瞬間を見た。
「本当に分からないのか。【アスタ】がこうなった以上、ビアンカと同じくらいあなたも危険なんだ!」
「――」
舞は息を止めた。まただ、と思った。またしてもだ。
自然と声が冷たくなった。
「……どうしてあたしが危ないと思うの」
「ビアンカが狙われたのはティファ・ルダの血筋のせいだろう」
「そう」
舞は息を吸った。そして言った。アルガスを睨んで。
「それでどうしてあたしも危険だとあなたは思うのか、聞いてる」
アルガスが、黙った。
藍色の目が、舞を睨んだ。しばらく確かめるように舞を見てから、用心深いような声で言った。
「……アルベルトが屋敷で言っていただろう」
「そうだね。言っていたよね。ティファ・ルダの生き残り、って。でもそれより前に……知っていたよね」
舞は、立ち上がった。
立っても自分より頭ひとつ半以上高いところにあるアルガスの目を、威圧されないように睨みつけた。
「あなたは、初めからあたしを知ってた」
「……」
「ルファルファ神の【最後の娘】《エスティエルティナ》だということも――そして|ティファ・ルダの生き残り《【魔物の娘】》だってこともだ! 【魔物の娘】が生きてるなんて、クレインでさえ、王でさえ、思ってもいなかったのになぜ分かった? なぜ知ってた!? あたしはあなたを知らないのに!」
アルガスの目が、揺らいだ。
「……あのう……お取り込み中失礼しますが……」
おずおずと足下から声をかけられて――
舞は我に返った。下を向くと、ビアンカが目を開けていた。仰向けに寝たまま、ビアンカは本当に本当に申し訳なさそうに、小さな声で言った。
「あのね……こんな近くでそんな緊迫した会話されると……目が覚めちゃってもしょうがないんじゃないかと……思います……」
そして起きあがった。不思議そうに自分の体を見下ろしたが、すぐに顔を上げた。
「いやあたしもね、空気読めよって自分でも思うんだけど、でも、寝たふりして聞いちゃっていい話でもないかなと思って……」
ぷしゅ、と、張りつめていた空気が抜けた気がした。
舞は目を閉じて、未だ残る激情の余韻を抑えつけた。とにかく――とにかく、自分の疑問はぶつけたのだから、後はアルガスの問題だ。舞が自分を疑っていることを知ったのだから、これ以上舞に関わる気なら、話すかごまかすか、何らかの行動を取るだろう。そうしないなら避けるまでだ。得体の知れない人間にかかずらってる暇も余裕もない。
アルガスは黙って二人から離れた。花畑を抜けて、木立の中へ戻っていく。舞はその後ろ姿を見送り、斜面を近づいてくるいくつかの気配を感じた。たぶんデリクが来ているだろう。デリクに、ビアンカのことを頼まなければ。無事にエスメラルダに送り届けてくれるように。
「……ビアンカ」
急に泣きたくなってビアンカのそばに座り込む。枯れた花を不思議そうに見ていたビアンカは舞に視線を戻した。その黒い目を覗き込む。
「大丈夫? どこも痛くない? 気分悪くない?」
「……大丈夫。ちょっと頭が痛いけど」
そしてビアンカは、哀しそうな目をして、舞の頬に指を触れた。
「本当にごめんね、起きちゃって。あなたが自分から話してくれるのを待ちたかったよ」
ビアンカの境遇は、舞にとって他人事ではなかった。
そしてそれは、ビアンカもそうだったのだろう。彼女の黒い瞳には、いたわりと同情の色があった。その色に、舞は哀しくなった。赦されている。そのことに安堵している自分は、なんて卑小なのだろう。
「あたしも……もっと早く言っておけば良かった。ごめん、わざと黙ってたわけじゃないんだ、けど」
「わかってる」
ビアンカは微笑んだ。
「だって出会ったの昨日だもんね。何だかもうずっと、友達みたいな気持ちでいたけど」
「ん……あたしの本当の……正式な名前はね、」
舞は一瞬ためらった。この名前を口に出すのは勇気が要る、いつも。
でもビアンカの目に励まされて、彼女は名乗った。
「マイ。エスティエルティナ=ラ・マイ・ルファ・ルダ。ルファルファ神の【最後の娘】で、そして……ティファ・ルダの生き残り……」




