王宮(1) 往路
次の日の朝、馬車で、王宮へ出かけた。
ビアンカと、アイオリーナと、それからニーナと一緒だった。流れ者の大半は、そのまままた雇われた。王にとって舞と、それからアイオリーナは、どんな手を使っても、巻き添えにできるならしたい相手だろうからと、ニーナが交渉して雇ってくれた。アルガスもデクターもデリクもいて、心強かった。フェリスタはいなかった。草原の長の弟として、フィガスタの補佐を始めるそうだ。ニコルも辞退した。何の役にも立てそうもないし、リヴェルに行く、と言った。
一夜明けても、胸の痛みは消えなかった。アルガスを見るだけで押し寄せてくる。できるだけ平静に話をして、できるだけ冷静に応対したが、舞はなるべくアルガスに近づかないようにした。痛いから。
ビアンカは馬車の中でも木刀を削っていた。そうしながら四人でおしゃべりをした。他愛のないことから、重要なことまで。シルヴィアの話もして、ビアンカと一緒にまた泣いた。ここにシルヴィアがいればいいのにと、舞は思った。本当に――いてくれれば、いいのに。
シルヴィアになら話せるだろうか。ふと、そんなことを考えた。
あの優しい人だったら。天使のようなあの子だったら。ずきずき痛む心臓を、物理的に治すことだってできるのではないだろうか。幸せを祈っている、それを忘れないで――幸せって何だろう、と舞は思う。舞の幸せは、何だろう。王を交代させること? もう誰も理不尽に殺されなくなること? シルヴィアやローラに、もう一度会えること?
心の中が乱れに乱れて、自分が何を望んでいるのかすらわからない。
シルヴィアは、舞がどうなることを、祈ってくれていたのだろう。
アイオリーナとビアンカがいるから、馬に乗らない言い訳ができて、本当に助かった。体調はゆるやかにではあったが、日を追うごとにどんどん悪くなるばかりで、馬に乗ったらみんなにばれてしまうだろう。
馬車の旅を始めて数日が過ぎたころ、
「……そうそう。ニコルに戸籍は渡したのよ」
ニーナがふと、思い出したように言った。舞は座り直した。
「え、そうなの? いつ?」
「出かける前によ。ニコルって結構優柔不断というか、もじもじして言い出さないところがあるでしょう。だからエルヴェントラが用意しといてくれた戸籍に、ニコルの名前書いてね、用意だけして放っておいたの。そしたら出かける直前に走って来て、暇になったら戸籍もらえませんかってやっと言ったから、はいって渡して来たわ」
「えー、何それ! 見たかったなあ」
ビアンカが言い、舞も笑った。同感だ。
「ニコル、喜んだ?」
「絶句してた。でも出かける時間が迫ってたから放ってきちゃった。あ……まだ戸籍簿の方には書いてないから、ちゃんとした戸籍じゃないのよね。帰ったら忘れずに書いておかなきゃ」
「エスメラルダ籍になるのね? なんか変な感じね。ああ、モリーと夫が来たら、そのふたりにもエスメラルダの戸籍を渡せば、また家族になれるか」
アイオリーナが言い、舞はそれで、マーティンがモリーを脅した話を思い出した。馬車のすみっこで繕いものをしているマーシャに聞いてみた。
「ねえマーシャ、モリーっていう、ウルクディアの料理人のこと知ってる?」
「存じておりますよ」マーシャはあっさりうなずいた。「彼女は伝説ですからね」
「やっぱり知ってるんだ……」
「モリーはですね、その頃毎年イェルディアで開かれていた料理選手権に一度招かれて、弱冠二十歳という若さですべての賞を総なめにしたんです。しかもその後一度も出ないという奥ゆかしさ。賞金がたくさん出たから、びっくりしたんでしょうね。マーティンがほれ込んで船に乗るよう丁重に誘ったんですよ、女性ですが、水の神レイルナートの嫉妬も自分が黙らせるからと」
「マーティンが丁重に誘った? 大変な恐怖ね」
ニーナはさすがによく分かっている。マーシャは笑った。
「モリーは既に夫がいて、夫はどうしても船に乗れなかったんです。昔水に落ちて溺れかけて、それ以来水が怖いとかで。それで夫を捨てては行けないと、断ったんですよ」
「まあ」
アイオリーナは微笑んだ。
「旦那さんにお会いするのが楽しみだこと」
「モリーの夫はさらに伝説ですよ。モリーは少なくとも実在することは分かっていますからね。家具職人だということは知っていますが……まあニコルが存在するんですから、夫も存在するんでしょうね。モリーは元気でしたか」
「とっても元気だったわ。でもウルクディアでは、彼女の腕に相応しい処遇を受けていたとは思えないけれど」
「彼女は欲がないんでしょうね。でもウルクディアの賓館勤めなら、王やアンヌ様にお料理をお出しすることもあったでしょうね」
「ああ……そうね」
「料理人として、そういう方々に召し上がっていただくだけで幸せだったのかもしれないですね。でも外に出て大衆食堂をするなら、あたしもあの伝説の料理を口にできるんですから、楽しみですよ」
「夫と言えば、」
と、ビアンカが言って、舞はまたずきんとするのを感じた。何だか過敏になっている。
「アイオリーナはカーディス王子といつ結婚するの?」
とたんに、アイオリーナは真っ赤になった。
「ええ……っ、そ、そんなのまだ分からないわ」
「近々じゃないの? 何しろ苺味だし」
「ニーナ!」
ニヤリとしたニーナにアイオリーナが叫び、舞は興味を引かれた。
「苺味ってなに?」
「なんでもない! なんでもないの!」
ビアンカなら知っているかと目を見てみたが、ビアンカもよく分からないらしい。ふたりは顔を見合わせ、首を傾げた。
ニーナは気持ち良さそうにニヤリと笑った。
「とにかくあの様子じゃ、王……前王がしかるべき処遇を受けて、エルギンが王座に座ったら即、って感じがするわね。本当に熱烈だもの。ねえ、どこでどう知り合ったの」
「え……ええとね……」
シルヴィアの言ったとおりだ、と、舞は何だか感心した。
――嘘よ、ニーナ姫とそういう話しないの? 信じられないわ!
ニーナは今まで一度も、舞と色恋の話をしたことはない。それは舞にそういう相手がいないと、よくわかっていたからなのだろう。そういう相手がいる人になら、ニーナも普通にこういう話をするんだ。
【アスタ】でもみんなこういう話で盛り上がっていた。
いいなあ、と思った。舞も盛り上がりたかった。今は胸が痛すぎて、できそうもない。
体調と同じく、胸の痛みは日々強まるばかりだった。食欲もあんまりなかった。フェリスタが指輪を渡しても、アルガスが気に留めないでいたということが、毎日毎日痛かった。それに。
――帰るのを邪魔する気はないんだ。
理性的に考えれば、とてもアルガスらしい、流れ者らしい、考え方だと思う。思いやりというものだろう。好きなように、やりたいように、させてくれるというのは。
でもそれは、二度と会えなくても構わないと、いうことなのではないだろうか。
――俺はちっとも構わない。
ラインディアに向かう馬車の中で、シルヴィアのことで、涙も出なくて苦しかったときに、腕の中に入れてもらったことが思い出された。暖かかった。あの時の自分に戻りたかった。優しいというのは、残酷なことでもあると、思った。頭をなでてもらったこと、涙が出たときに肩を貸してもらったことなどが、ひとつひとつ思い出されて、そのつど胸の痛みは律義に増した。
何とも思っていないなら、あんなことしないで欲しかった。
あの、青の月を一緒にみた夜もそうだ。崖から引き上げた後、舞を抱き締めたような体勢のまま、アルガスはしばらく動かなかった。何とも思っていないなら、あんな風に、落っことさずに済んだことを確かめるみたいに、抱き締めたりしなければいいのに。
「……晩餐会でね、初めて会った時に……噂とは違うなって、思ったのよ。もう四年前になるわ。わたくしもカーディスも、十四歳。社交界に出る年齢なの。噂はいろいろと聞いていたわ。優しいけれど気が弱くて、意志も弱くて、王とムーサの言いなりだって」
アイオリーナが話している。可憐な人だと舞は思った。頬を染めて、ぽつぽつと、愛おしい思い出を語る彼女は、目を見張るほど綺麗だった。
「シルヴィアはまだ社交界に出る年齢ではなくて、わたくしはひとりで心細くて、挨拶やお世辞の応酬が済むと、ひとりでその場を離れて、緞子の陰で庭園を見ていたの。そうしたらね、話し声が聞こえて上を見たわ。斜め上に露台が張り出していて、そこにムーサとカーディスがいた。ムーサが、お歴々にカーディスを紹介していたようなの。お歴々の態度がわたくしには不快だったわ。ああこれが例のぼんくらか、と言うのが丸分かりの態度で、腹が立ったの。カーディスによ。どうしてそんな無礼を見過ごすのかって――
そこでわたくしだけが見たの。下を向いたカーディスが、一瞬だけ、笑ったのをね。なんというか……捻りつぶすのはいつでもできるけれど、こんな下らないことに割く労力も惜しい、といいたげな笑みだと、わたくしは思ったの」
「まあ、そうなの。カーディスが一瞬だけ、仮面を外したところを運よく見たのね」
「そう、運がよかったわ――わたくしはそれからカーディスに注目したの。注意深く、観察でもするかのように。知りたいと、思ったのだわ。普段のおどおどした穏やかなだけの様子と、あの笑みと、どちらが本当なのか知りたかった。あの頃は、でも調べると言っても、どうすればいいのか知らなかったから、そうね……有り体に言えば嗅ぎ回ったの。後をつけてみたり、周りの人に、カーディス王子ってどんな人か、聞き回ったりしていたわ。
そうしたらある時、カーディスから手紙が来たの。お茶に呼んでいただけませんかって」
舞は胸の痛みも忘れて思わず身を乗り出し、ビアンカがきゃあ、と華やいだ声を上げた。
「それでそれで?」
「もちろん応じないわけにはいかなくて……然るべき体裁を整えて、お招きしたの。とても緊張したわ。でもムーサも一緒だったの……ムーサはひとりでよくしゃべってた。ラインスタークとさらに近づきになれれば幸いだってあからさまに言っていた。シルヴィアはムーサにおびえて同席していなくて、レノアがお茶のお代わりを取りに行き、ムーサが、お手洗いにかしら、行った。ふたりきりになった時に、カーディスが、言ったの。あなたは僕の正体を、どこで見てしまったんですかって」
「嗅ぎ回ってたのが、ばれてたのね?」
「そうね。ばれないはずがないと今では思うわ、もっとうまいやり方があったのに――カーディスにとっては、迷惑だったんだと思う。わたくしはラインスタークの嫡子だから、その、社交界でもわたくしの行動には注目が集まるの。そのわたくしに探り回られては、自分の化けの皮がはがれるかもしれないと懸念したのね。迷惑だった? と聞いたら、いや、光栄だけれど、でも、これからも探られると困るんです、と率直だった。わたくしはなんだかドキドキして……そこでムーサが戻って来てしまった」
「なんで戻ってくるのよ!」
ニーナが叫び、舞も同感だった。アイオリーナは笑った。
「全く本当に、わたくしもそう思ったわ。その後はまた当たり障りのない話をして、そこでおしまい。次からの社交の場では、わたくしはもう、出来る限りカーディスを見ないようにした。とにかく見られると困るのだと、わかったから。ムーサがせっついたようで、幾度か手紙が届いたけれど、その手紙も仮面を被ったものだったわ。先日はありがとうとか、またお会いしたいですとか、そんな社交辞令ばっかりで、悲しかった。社交の場で言葉を交わすことはあっても、腐っても王子だから、大勢令嬢が群がるでしょう。それを見るだけで胸が痛くて痛くて、どうしたんだろうってしばらく悩んだ」
痛かったんだ。アイオリーナも。
舞はぼんやり考えた。いつ頃痛くなくなったのか、聞きたい。
でもアイオリーナはカーディスとは親公認の間柄で、カーディスはアイオリーナに首ったけだ。だからだろうと、すぐに思ってため息が出た。そういう間柄になれないと、痛みはなくならないのだろうか。
「でもカーディスは、一度わたくしを訪問しているでしょう。そういうことってぱっと広まるものなの、ムーサも歓迎していましたから、いろんな人に広めたでしょうしね。そうなると社交界でもわたくしを無視するわけにもいかなくて、当たり障りのない話を幾度もして――そのうちね、なんだか、カーディスがわたくしに興味をもっているというのが広まってしまったの。令嬢達も、ええ、ほら、ラインスタークを敵に回すのは怖いでしょう。ひとりひとり離れて行って、気がつくと許婚のようになっていたわ。そこで気づいたの、わたくしは。カーディスは、周囲の令嬢を追い払うために、わたくしに気があるふりをしたのだって」
「そんなことないでしょう?」
「いいえ、そうだったの」アイオリーナは笑った。「カーディスは、そういう点、かなり乾いたところがあるのよ。周囲すべてを出来る限り利用しなくては、仮面を被り続けるなんて無理でしょう。それでわたくしは、腹が立って仕方なくて、カーディスを招待したの。ムーサをつれずにひとりで来て頂戴って。それで家に呼んで、シルヴィアもレノアもみんな遠ざけて、宣言したのよ。あなたがどんなつもりで周囲を騙しているかは知らないけれど、そのためにこのわたくしを利用する気なら、相応の覚悟をしてもらいますって言ったわ。事情を話さないならあなたの仮面に疑いの目が向くようにいろいろ画策するし、協力させたいなら巻き込むのではなく要請をするのが筋だと」
「それでそれで?」
「それでそれで?」
舞とビアンカが同時に言って、アイオリーナは笑った。
「カーディスは、驚いたらしいのね。そこで初めて、わたくしに興味を持ったようなの。利用しているとどうして思うんですか、と聞かれて、それで――あなたに興味のある令嬢に群がられていては、いろいろと差し障りがあるんでしょうから、と言った。カーディスは笑って、それで、話し出したの、どうして仮面を被っているのかということを。自分が今後、どうするつもりかということも。僕の人生は償いのためにあるから、今伴侶を見つけるわけにもいかないのだということも。でもカーディスは、やっぱり人が悪かったわ。多分嬉しかったのだと思うの、アルガス以外の前でこんな話をしたのは初めてだったでしょうから、たがが外れたんじゃないかしら」
――アルガスの。
また胸が痛んだ。もう条件反射に近い。
「前回は僕からお伺いを立てましたが、今回はあなたが自ら望んで招待してくれた、女性が自分に興味があると周囲に知れ渡っている男を招待するということに、どういう意味があるか、わからないんですか、と言われて。ああしまった、と、思った。確かに招待したらわたくしもカーディスに、そういう興味があるってことになるわ。その上ムーサをつれずに、と注文をつけ、自分でも、妹も侍女もみんな遠ざけて、ふたりだけで話をしてしまった。うかつだった。――それからはもう、一蓮托生、という感じで。カーディスは、わたくしを利用するだけでなく、協力を要請するようになった。わたくしにもそれが、望むところだった。それが十五の時だったわ。三年前ね」
「三年も? それでどうして求婚もせずにこられたの? 本人たちはよくても、周りがうるさいでしょうに」
ニーナが言い、アイオリーナは頷いた。
「だから対外的には、わたくしの我がままということになってるの。シルヴィアの伴侶を先に見つけたいというね。わたくしは嫡子ですからね、ラインスタークの領土問題だの、いざ婚姻となればいろいろと片付けなければならないことがあるのよ。ラインスタークの持つ領土の継承権をどうするかとか、財産の分配は先々どうするか、とか――そういう問題を片付けるためだと、周りは勝手に思って納得してくれてた」
「まあ、そうなの」
「なんだかお伽話みたいだわ。いいなあいいなあ」
ビアンカがあっけらかんと羨ましがって、アイオリーナは照れたように笑った。
「もう、いやだわ、そんなんじゃないのよ。お伽話だといろいろと障害が起こるものでしょう、親同士がいがみ合っているとか、身分が釣り合わないとか。そういうことは一切ないもの」
「アイオリーナがどう言おうと、あたしは、王子は初めからずっとアイオリーナのこと好きだったんだと思うわ。その方が想像して楽しいもの」
「残念ですけどね、それはないのよ、ビアンカ」
「じゃあいつから苺味なの」
アイオリーナはまた真っ赤になった。
「に、ニーナ!?」
「……違った、いつ頃からあんなに熱烈になったの?」
「しっ、知らない!」
苺味、という単語がアイオリーナを赤くさせるらしい。舞はつぶやいた。
「……苺味か」
「姫まで!」
「……苺味ね」
「ビアンカも! もうやめてよー!」
面白い。すごく可愛い。舞は笑った。
「いつ頃からなのか知りたいな♪」
「あたしもあたしも♪」
「あたしもあたしも♪」
アイオリーナは呻いた。
「もう……そうねえ……覚えてないわ……でも……一年くらい……かしら」
「これはもうカーディス王子に聞いてみるしかないですね」
「そのようですねビアンカさん」
「着いたら聞いてみましょう、ぜひ」
三人で頷き合うと笑いくずれた。アイオリーナは真っ赤になってそっぽを向き、舞は笑うことによって、少しだけ、胸の痛みが遠ざかるのを発見した。その時の舞にとっては、とてもありがたい発見だった。
その後も、他愛のない話をしては笑いくずれる日々が続いた。
嵐の前の静けさのような、日々だった。




