戴冠式(5)
*
姫たちが身支度を終えて出て行くと、スヴェンたちは行動を開始した。スヴェンも戴冠式に出る必要があるからだろう。ビアンカは立ちあがらされて、そろそろと出口の方へ連れて行かれた。一人また一人とビアンカの後ろを通って出口へ向かう。ビアンカは言った。
「ね、【最初の娘】と、ティファ・ルダの声を務めたあたしが、戴冠式に出ないなんてことがあっていいの? あたし、エルギンから招待されてるのよ? みんな捜すと思うけど」
「そうだろうな。だが正午の予定をずらしてまで捜しはしないだろう。イーシャットも出られない。エルギン様は姫さえ出ればいいとお考えだろう」
「そうかしら。エルギンってそんな人かしら」
「あなたに何が分かる」
「あなたは」ビアンカは声が辛辣になるのを止めることができなかった。「いつもそばにいるのに、何にもわからないのね」
スヴェンが外に出た。ケンネルという男が最後にビアンカを放して、外に出た。ビアンカが振り返って手を伸ばしたその鼻先で、ばたん、と扉が閉められた。がちゃり、と無骨な音が響いて、最後にスヴェンの声が聞こえた。
「グウェリンの剣はデクターの家に置いておく。戴冠式が終わったら出してやる」
「こんなことしても絶対無駄だと思うわよ! あなたの立場が悪くなるだけよ!」
叫んだ声には答えがなかった。沈黙が落ちた。ビアンカはばん、と扉をたたいたが、当然開かない。
デクターが言った。
「ニーナ、大丈夫か? 意識して呼吸した方がいい」
「なんなの、これ……? デクターは平気なの?」
ニーナの声は本当に弱々しく、ビアンカはぞっとして、階段を駆け降りた。
「ニーナ、どうしたの!?」
「ビアンカは何ともない……? あたし、なんだか、息が……」
「鉄のせいだ。孵化して以後は精錬されて加工された鉄に弱くなるんだ。自然の物じゃないからね。いいかい、ニーナ、魔力で体を覆うようにするんだ。そうすれば少しましのはずだ。スヴェンの前で弱点を教えるのはどうかと思って、言えなくて、ごめんよ。壁から少しはなれた方がいい。ニーナは僕より魔力が強い、まともに触ると火傷するかも」
「そんな……」
自然のものじゃないから苦手、というなら。
ビアンカはニーナの体を抱き締めた。人間の体は、自然のもののはずだ。
アルガスはマーシャの方へ行っていたらしい。マーシャのすすり泣く声が聞こえた。
「申し訳ありません……ニーナ様、ニーナ様」
「マーシャ! 大丈夫?」
「もちろんですとも。申し訳ありません、ニーナ様、本当に……」
マーシャがよろよろとこちらへ来た。ビアンカがニーナを放すと、ニーナにすがりついた。
「わ、わたしのせいで……本当に……皆さんにも……」
「マーシャのせいじゃないわ。スヴェンがいけないの。ああよかった、マーシャ、無事でよかったわ……殴られたりしたの?」
「ええ、でも、もう大丈夫です……大丈夫ですよ」
「……もうちょっとこうしてて? そうしたら楽みたい」
「デクターは?」ビアンカはデクターのいるはずの方をみた。「辛くないの、大丈夫?」
「僕は……」
デクターは首を振った、ようだ。でもその声はひどく弱々しかった。ここに入ってずっと、苦しかったのだろうか。だからずっと、声が弱々しく聞こえたのだろうか。ビアンカは手探りでそちらへ行くと、座り込んでいたデクターを見つけて抱き締めた。デクターが硬直した。嫌なのだろうか、と思って悲しくなる。
でも。
デクターは暖かかった。ビアンカよりずっと体温が高いようだ。
それは男性だからだろうか。それとも、孵化したせいだろうか。どちらにしても、何だかすごく、ほっとした。姿はよく見えなくても、デクターがここにいるって、ちゃんと分かる。
ため息が耳元で聞こえる。強ばっていたデクターの体から、少しずつ力が抜ける。ビアンカは暗闇の中で、デクターにしがみつく言い訳をそっと囁いた。
「こうすれば楽って、本当?」
「……本当、みたいだ」
泣き出しそうな声だった。
アルガスは扉の方へ行ったようだ。階段の上でうずくまって、身じろぎもしない。剣はデクターの家においておく、とスヴェンが言っていた。剣を取り上げられるというのは、きっと、ビアンカには想像もつかないくらい腹立たしいことなのだろう。ビアンカはデクターにしがみついたまま、呼吸を整えた。
*
流れ者にあてがわれたどの家も、天幕も無人だった。途中であった流れ者もエスメラルダの国民も、みんな口を揃えて知らないと言った。ニーナもビアンカもアルガスもデクターも見ていない、と。
舞はフェリスタに抱えられているという羞恥も少し遠のくほどに、ふつふつと、嫌な感じが湧き上がってくるのを感じた。これじゃまるで神隠しだ。
デクターの家にきた。でも誰もいない――
「なんだこりゃ」
舞を降ろして家を覗き込んだフェリスタが言った。
「グウェリンがいねえのはおかしいな。剣が、ほら、ここに置いてある」
「剣が?」
フェリスタの隣から覗くと、確かに、見慣れたアルガスの剣が家に入ってすぐの壁に立て掛けられていた。舞は眉をひそめた。
「お風呂かな?」
「見てくる。……でもなあ、風呂に入るっつったってよ、こんなところに剣を置いたりするかねえ」
程なく戻ってきたフェリスタは、険しい顔をしていた。
「いねえ。この家も無人だな。変だぞ、こりゃあ。グウェリンが剣をこんなところに置いておくなんて普通じゃ考えられねえ」
舞は手を伸ばして剣を取った。ずしりと重い。
「……捜そう。とにかく、ええと、一度あたしの家に行こう。ニーナかビアンカかマーシャが戻ったかもしれないし」
外に出るとまた抱えられたが、今度はもう抗議する気も起きなかった。舞はアルガスの剣を抱えたまま前方を睨んだ。何だかすごく、嫌な感じがする。
「アルガスが剣を手放す事情にはどんなのがあるかな」
「さて……盗まれるってのはありえねえな。寝てる時でも、ほれ、地下街で盛大に寝ぼけてた時でさえ、剣だけは無意識のうちに持ってたからな。この剣はあいつにとっちゃ特別なもんだ。取り返すの、大変だったしな」
「取り返す、の?」
「ああ、俺があいつらを知ったきっかけになったのがな、この剣を取り返したときなんだよ。養父が火あぶりになったろ? その時にこの剣の行方もわかんなくなってたのさ。で、ヴィード=グウェリンにゃ紋章入りの剣と養子がいたって話は有名だったが、あいつあの頃はもっと小さくて女みてえだったから、まさかあいつが本当にそうだなんて誰も思わなくてなあ」
「ああ……それはそうかも……」
舞がうなずくと、フェリスタは、なぜか一瞬だけ悲しそうな顔をした。
「……そんで、流れ者の中でもふとどきな奴らが何人も、俺が本当の養子だなんて名乗ってな。俺よか遥かに年上のバカさえ名乗り出てな、まあ、第一将軍があいつに財産やるから出て来いなんて、伝言残したりするからなんだけどな。いつしか、この剣を手にいれたのが本当の養子だ、なんてバカみてえな話になってさ」
「大変だったんだねえ……」
「そうだと思うぜ? 俺は当時から顔が広くてな、流れ者には草原の民が多いからな。デクター=カーンに頼まれたのさ。剣の行方を知ってたら、教えてくれないかって」
「それで教えてあげたんだ?」
「ただでじゃねえけどな」
「アルガスが本物だって、あなたにはわかったんだね」
「あー」フェリスタは笑った。「あいつらだけが、ヴィード=グウェリンが高潔な英雄だって言わなかったからさ。飲んだくれのろくでなしだって言いやがった。信憑性があるだろ?」
そうだろうか。
そこで家についた。出た時と変わらず、静まり返っている。フェリスタの腕から降りると、舞は声を張り上げた。
「ニーナ! マーシャ! ビアンカー!」
「はーい!」
どこかで声がした。舞はフェリスタと顔を見合わせた。どこでだろう、何だか遠くで、というか、くぐもった声だ。でもビアンカの声だった。もう一度呼ぼうとした時、どこかでどん、と音がした。
「……ビアンカ!?」
「ここよー! 開けて! あーけーてー!」
どんどん、とどこかで音がする。ふたりはきょろきょろと辺りを見回して、
「マーシャの食糧庫にいるの! 開けて頂戴!」
「食糧庫!?」
何でそんなところに、と思いながらも舞は走りだそうとし、けつまずきそうになり、舌打ちをして指さした。
「家のあっち側!」
「わあった」
フェリスタが走って行く。ややして声がした。
「でっけえ鍵がかかってんぞ。おい娘っ子、鍵はどこだ?」
「食糧庫の鍵? えーと……」
「厨房に合鍵があるってマーシャが言ってるわ! ……厨房の入って右側の、右端の棚の小さな籠の中!」
フェリスタが走って行った。舞は慎重にドレスをたくしあげて、しずしずと食糧庫に向かった。大きな錠前で頑丈に閉ざされた扉の中に声をかけた。
「ビアンカ? マーシャもいるの?」
「いるわ」ビアンカの声はすぐそばで聞こえた。「ニーナも、デクターも、アルガスも!」
「何で……!? ガス! そこにいるの!? あなたの剣がデクターの家にあったよ! 一体どういうこと!?」
アルガスの返事を聞く前に、フェリスタが戻ってきた。舞は我ながら、目尻が吊り上がっていくのを感じた。
*
程なく鍵が開けられて、まず見えたのは、フェリスタのあの厳つい顔だった。その後ろには姫がいた。オーレリアとウルスラが手管の限りを尽くしたのだろう、ものすごく綺麗になっていて、ビアンカは思わず見取れた。でもすぐに、その表情を見て唾を飲んだ。姫は怒っていた。それも、ものすごく。
瞳が藍に染まらないのが不思議なほどの形相だった。綺麗で、獰猛で、いつか見た表情と同じだった。口を開けば牙でも覗きそうな表情だ。
フェリスタがどいてくれ、ビアンカはおずおずと姫の前に立った。姫はアルガスの剣を抱えていて、ビアンカを見た。
「いつからいるの」
「えーと……」
ビアンカは必死で頭を働かせた。スヴェンに閉じ込められたことを言えば、協定に言及しないわけにはいかなくなる。ニーナは、姫には戴冠のその時まで事情を話すわけにはいかない、と言っていた。戴冠式は後ちょっとだ、でも、まだ話せないのではないだろうか。ビアンカは下を向いてもじもじした。と、フェリスタが言った。
「おいグウェリン……何閉じ込められてんだよお前まで」
アルガスはまずニーナを抱いて出てきた。ニーナはぐったりしていて、姫はニーナが降ろされるとすぐに駆け寄った。
「ニーナ! どうしたの!?」
「……なんでもないのよ」
ニーナの声はひどく弱々しい。アルガスはまじまじと姫を見ていた。姫が視線に気づいてアルガスを振り仰ぐと、我に返ったように目をもぎ放して、
「……とにかく全員つれてくる。フェリスタ、手伝ってくれ」
「まだいんのか?」
階段を降りて行った。ところが途中で足を踏み外した音がした。数段落ちたようで、ビアンカは慌てて覗き込んだ。
「ちょっと、大丈夫!?」
「大丈夫だ」声は平然としていた。「ちょっと手が滑った」
「足がだろ。何言ってんだ、お前。まあ無理もねえけどよ」
姫はまだアルガスの剣を抱えたまま、ニーナを覗き込んでいる。その内アルガスがデクターを、フェリスタがマーシャを支えて出てきた。デクターが地面に座り込むと、フェリスタが呆れたように言った。
「おいおい、流れ者がふたりもついてて、一体何やってんだよ」
「面目ないよ」
デクターは喘ぐように息を吸う。苦しそうで、胸が痛んだ。姫はアルガスに剣を渡して、マーシャを覗き込んだ。今まで真っ暗で見えなかったが、マーシャは本当にひどく殴られたらしい。首の後ろが真っ青になっていて、姫は顔を歪めた。
「マーシャ……誰がこんなことしたの」
「足を滑らしましてね。食糧庫に落ちたんです」
「……嘘」
「本当なんですよ、姫様。何も心配することなんかないんです。ちょっと横になってれば、夕食の支度には……」
「マーシャ」
姫は泣き出しそうな顔をした。ニーナを見て、デクターを見て、ビアンカを見て、アルガスを見た。
「なんでこんなことになるの? 一体何があったの?」
「まあ娘っ子。とにかく、マーシャを寝かせてやんな。あんなうまい料理を作れる人間はいたわらねえとな。もうじき戴冠式が始まる。今から行けば間に合う。な? マーシャは無理だろう。俺がつれてってやっから、そう泣きそうな顔すんなよ。グウェリン、手伝いな」
フェリスタは言い、マーシャを支えて立ち上がらせた。アルガスとふたりがかりで家の中につれて行った。姫はビアンカを見た。ビアンカは目をそらした。スヴェンが恨めしかった。さっき言ったとおり、閉じ込めても全くの無意味だった。でもその代償に、なんで友人にこんな顔をさせなきゃいけないんだろう。
「説明して……? あたし、捜したんだよ? 食糧庫……」
言いかけて、姫は何かふに落ちた顔をした。
「セシルが閉じ込めたの? あの時から中にいたの、あたしの声聞こえなかった? なんで……」
「なんでもないのよ、舞」
ニーナが言った。鉄から離れて、少し元気が出て来たらしい。アルガスとフェリスタが戻って来た。姫はニーナを泣きそうな顔で見た。
「何でもないわけないじゃない! 何でマーシャがあんな……」
誰も答えなかった。デクターも元気が出て来たようで、深呼吸を繰り返しながら立ち上がった。姫はアルガスを見上げた。睨んでいるような顔だった。
「二度目だよね」
「……」
「何でこんなことが起こるのかな。もう少しで……本当にもう少し……なのに……」
「舞」
ニーナが立ち上がった。姫の手を握って、静かに言った。
「明日全部話すわ」
「……明日?」
姫がニーナを見る。ニーナは真剣な顔をしていた。というより、すがりつくような顔だった。ニーナは必死の顔で、姫の腕を握った。
「だからね。明日……戴冠が終わっても」
「ニーナ?」
「エルギンが王になっても、あたしと一緒にいて」
「……ニーナ?」
「あの、ほら。温泉、行きましょうよ。ね? アイオリーナとも仲良くなれたし、カーディスも誘って、ここにいる全員で、マーシャにお弁当作ってもらって……ミネアもつれて行きたいの。喜ぶと思うわ。ほら、舞が言ってたじゃない。ぴくにっくって。みんなで、お弁当持って出かけましょ。温泉、こないだ行けなくて、悔しかったでしょ? ……ね。お願い」
姫は驚いているようだ。ニーナのそれは、まさに懇願だったのだ。アルガスとフェリスタが息を詰めるようにして姫の返答を待っているのにビアンカは気づいた。
ややして、姫は答えた。
「いいよ」
「……」ニーナは息を飲んだ。「いいの……?」
「うん。いいよ。楽しそうだよね。でも男の人も行くんなら、温泉じゃなくて他の場所の方がいいんじゃない? 後ろ向いててもらうのも悪いし、ゆっくり入れないし」
「……いいのね!?」
ニーナは泣き出しそうな顔をした。
「約束よ!? 絶対よ!? それならいいわ、男の人は誘わないで、あたしたちだけでお弁当持ってゆっくりのんびり温泉行きましょ!」
「おいおい、そりゃねえよ」
フェリスタが笑う。ニーナも嬉しそうに笑って、姫の手を取った。
「約束だからね。……明日はたぶん、今以上に舞は忙しいかもしれないわ。エルギンはすぐに、王宮に進軍するはずだものね。そっか、じゃあ、カーディスも無理か……でも、舞、あなたは後から追いつけばいいんだもの。だから予約したの。いい? 明日は、あたしのためにあけといてね。一日くらい羽伸ばしたって、エルヴェントラも文句言わないはずよ」
「……そうかな……?」
姫は疑わしそうに言った。いつしか全員で、闘技場へ向かって歩きだしていた。ニーナもデクターも、次第に足取りがしっかりして、その内すっかり元どおりになったようだ。鉄か、とビアンカは思った。スヴェンに、ばれていなければいいのだけれど。
そこへニコルが来た。
ニコルは一行を見つけると、ほっとしたようにかけて来た。何だか小犬みたいな人だ、とビアンカは思ってしまった。小柄なわけじゃないのに、動きがちょこまかしていて可愛い。
「ああ良かった! 見つかって」
「どうした、ニコル」
フェリスタが訊ね、ニコルは、自信無さそうに目を伏せた。
「いえその……ちょっと気になることがあったんです。言うほどのことでもないのかなあと思いつつ、でもすごく気になって……」
「なんだ、はっきり言えよ」
フェリスタがすごんで、ニコルはちょっと姫の方に身を寄せた。
「リヴェルで、アルガスが、バーサに便せん代、出してくれた時のことなんですけど」
「バーサ?」
ビアンカはぴくりと反応した。便せんを使えるなんて、バーサは羽振りがいいな、と思った時のことを思い出した。
「待って、アルガスが? バーサに?」
「え? そ、そう。あの、ビアンカ、バーサから手紙、もらったよね?」
「もらったわ。その手紙のことなの? アルガスが、あの便箋をバーサにくれたってこと?」
アルガスが眉をひそめた。
「バーサの手紙と一緒に、姫の手紙も着いたはずだが」
「それっていつの?」ニーナが口を挟んだ。「リヴェルで、ってことは、舞がウルクディアにいた時? 舞からは、ラインディアへ向かう途中に出したのの他は、王妃をお迎えできたって手紙しか来てないわよ」
「……え?」
姫がニーナに向き直った。
「だって、ヘスタは? ヘスタと残りの三人を捕まえたって聞いたよ。あたしウルクディアで、ヘスタを調べてくれるようにって手紙書いて、ガスにリヴェルで出してくれるように頼んだの。バーサにはその時に会って、鳩に一緒に入れて出すことになったって、聞いたけど」
「バーサの手紙は、ヘスタの仲間が届けてくれたの。つい二、三日前によ。鳩で届いたんじゃないわ」
言いながら、ビアンカはぞっとしていた。
ということは、姫の手紙はどこへ行ったのだろう?
「ヘスタの仲間が」アルガスが呻いた。「申し訳ない。迂闊だった。リヴェルで――」
「ガスのせいじゃないよ。通信舎の警備態勢が甘かったってことなんだし、大丈夫、だって、結局はちゃんとヘスタを捕まえられたんだもの。気にしないで。ごめん、ニコル。それで?」
「あ、はい。ええと……その、バーサがアルガスの名前を呼んだ時に、もうひとり、振り返った男がいたんです。すごく印象に残る雰囲気の男だったんで、覚えてました。左腕がどうも、使えないみたいで、それで……さっき」
ニコルは身じろぎをした。全員が食い入るように自分を見ているのが、とても居たたまれないようだった。
「さっき、ですね。その男を見たんです。ルファルファ神官兵の制服を着てたんで、見まちがいかなあと思ったんですが、でもどう見ても――」
「それってどこ!?」
姫がニコルに詰め寄り、ニコルは硬直した。
「と、闘技場の北です!」
「ありがと、ニコル! ――わ!」
姫は走りだそうとして、慣れないドレスにけつまずいた。ビアンカは思わず目を覆ったが、フェリスタはそれを予期していたようだった。待ってましたとばかりに姫を抱え上げて、
「わあ――っ! だから自分で走れるってー!」
「うるせえ黙ってろ! ニコル! その男の顔を教えやがれ――」
あっと言う間にその後ろ姿が遠ざかって行く。ニコルが慌てて後を追い、アルガスも無言で追って行った。デクターはひひひ、と笑って続いた。ビアンカはニーナを見、ニーナは足早に歩きだした。
「つまりまだ残っていたということね」
ニーナはドレスをたくしあげてきびきびと歩きながら言った。
「数多の尋問にも負けずに沈黙を通したってことね。大変だわ。由々しき事態だわ。戴冠式も平穏には済みそうもないわね。スヴェンも近々、バカなことをしたもんだって嘆くことになるでしょうよ」
憤然と、きびきびと、出来る限りの速さで闘技場へ向かった。ビアンカはこれから何が始まるのかと、心臓を締め付けられるような不安を抱いた。
そしてミネアだけはまず避難させようと心に誓った。




