アスタ(6)
*
いつしか月が沈みかけていた。
もう夜明けが近い。闇が一番力を増し、空気が濃密になっている。
その闇の中でビアンカが舞を待っていた。
【アスタ】の入り口、デリクが使者を押しとどめている辺りで、ざわざわと人の動き回る気配がしているが、ビアンカはそちらを見もしなかった。
彼女はやってきた舞を見て微笑みさえした。あまりに乾いた笑みだった。
「そういやさっきさー、ルヴィの声が聞こえたんだよねー」
明るくさばさばした口調で言いながらビアンカは歩き出した。舞が黙ってついて行くと、くるりと振り返って笑う。
「ごめん、ほんとは信じてなかったんだよね。あなたのことも、ちょっと変かもなんて思ってた。賢い、良く仕込まれた鴉だなって思ったけど、まさかほんとに人間の意識が宿ってるなんてさ。謝るよ。ほんとごめん。ルヴィもさ、喋れるんなら言ってくれればよかったのにさー」
舞もシルヴィアも答えなかった。ビアンカは立ち止まった。ため息をひとつ。
「……ごめん」
「……」
「あ……ううん、ルヴィのことじゃなくて。……あのね。悪いことしたよね。あたしね、言ったかも知れないけど、自分の過去ってずっと誰にも黙ってきたの。言う必要ないって思ったし、知られるのがやだったの。不幸自慢みたいでいやじゃない? 自慢じゃないけどあたしみたいな壮絶な経験してるのって、噂の【魔物の娘】くらいのもんだわ。そこにきてまたこの事態よ。自分で感心しちゃう。
だから……そんな顔しないで」
ビアンカが手を伸ばした。血の気の失せた冷たい指先が、舞の頬に触れた。
「そんな泣きそうな顔しなくていいのよ。たぶん予感があったんだわ。だからきっと、今まで誰にも黙っていたのに、あなたには話してしまったんだわ。話してスッキリしたのも確かだし。聞いてくれてありがとう。あなたって話しやすいし、バカにしないし、したり顔でお説教みたいなこと言ったりしないし、変な同情もしないし、聞いてくれてほんとに嬉しかったわ。でも」
「ビアンカ」
「――ごめんね、話さなきゃ良かったね。そしたらそんな顔しなくて済んだのにね。大丈夫よあたしは、あは。こういうのには慣れてるんだから、平気よ」
「ビアンカ」
舞は声を立てて笑い出そうとしたビアンカを抱きしめた。ビアンカは舞よりも背が高く、大柄なはずなのに、今は不思議に小さくて、力を込めたら折れてしまいそうに思えた。
「優しいんだね、ビアンカ。でも、あたしのことなんか、気にしなくていいんだよ」
囁くとビアンカの体が震えた。シルヴィアも黙ってビアンカの肩に移り、翼を広げてビアンカの頬を包み込んだ。二人がかりで抱きしめて、ようやくビアンカの手が舞の体にすがりつく。
「気にしないで。大丈夫。もし泣きたかったら、泣いていいんだよ」
「だって……!」
ビアンカが叫んだ。ひどく切羽詰まった声だった。
「泣いたら駄目なのよ。泣いたって何にもならないわ。ロギオンはあたしを騙してた、アンヌ様もヘスタもそうよ、みんな知ってて黙ってたのよ! あたしはロギオンが好きだった、大好きだった、大変な思いをしたね、可哀想にって、頭を撫でてくれたのに……!」
『泣いていいのよ、ビアンカ』
シルヴィアが言った。とてつもなく優しい声だった。
『涙にはね、人の心を洗う力があるのよ。我慢しなくていいのよ。誰も貴女を笑ったりしないわ。私達のことは気にしなくていいのよ、私もエルティナも、貴女のことが大好きだから、泣かれるくらいどうってことないのよ』
「だって……泣いたって……ロギオンは戻ってこないわ……」
語尾が震えた。涙が滲んで、必死で抑えつけようとした嗚咽が喉から漏れた。
「ろ、ロギオンのこと恨んでなんかな、ないのに……あたしの名前でロギオンが……だ、大好きなのに。騙されてたけど、でも、生きててくれればそ、それで許してあげるのに、だって、だって……だって……!」
涙が、溢れた。
それは静かな泣き方と言えた。ビアンカはしゃくり上げながら舞の肩に顔を埋めて、声を噛み殺すようにして泣いた。舞は黙ってビアンカの背を撫でながら、ここが静かな森の中なんかじゃなくて、嵐の夜とか、滝のそばとか、大きな音が周りに鳴り響いている場所ならいいのにと切に思った。そうだったら、ビアンカも大声で泣けるだろう。
こんな時だというのに周りを気遣ってしまうビアンカが、哀しくて堪らなかった。
*
夜が明けた。
しばらく泣いたビアンカは、夜明けと共に動き出して、今も必死で立ち働いている。動揺する娘たちをなだめすかして落ち着かせるのは、娘たちの監督役であるイルジットよりも上手かった。要領よく事情を説明し、アンヌ王妃の尽力があるから絶対安全だと保証し、いつもの仕事に戻らせる、という一連の流れを根気よくこなし続けた。一度聞いた娘たちが再度不安になってビアンカのところへ行っても、苛立つ様子も見せず穏やかに、何度でもなだめて安心させる。到底真似できないと舞は思う。
それでも娘たちにはそれほど不安がっている時間はなかった。イルジットが、いつも以上の仕事をどしどし割り当てるからだ。ロギオンがいない朝だというのに、【アスタ】はいつも以上に活気があるといえるほどだった。
舞もイルジットの指示に従って山ほどの保存食を作る娘たちの輪の中に入っていた。舞の担当は魚の薫製だ。
「ほいよ、お待たせ」
釣った魚を籠に入れて担いできたのはデリクだった。何しろ【アスタ】に住む四百人近い人を少なくとも七日は賄う量の保存食を作ろうと思ったら大変なことだ。今や【アスタ】中の人間が一丸となって働いていた。
周囲の娘たちがデリクの籠に手を伸ばし、ぴちぴち跳ねる魚を取って、鱗を取って捌いて開いて内臓を出して塩をふって干す、という作業に取りかかるのを見ながら、デリクが言った。
「エルティナ。お前一人旅してたんだろ。魚釣れるか」
「え? ええ」
「バーサ、悪いがエルティナを借りるぜ。じゃんじゃん釣った方がいいってのに釣りに人手が足りねえんだ」
「あ、はーい。行ってらっしゃいエルティナ」
周囲の娘たちに手を振られ、否応もなく立ち上がりながら、舞はつくづくとデリクを見た。昨夜は気が付かなかったが、大柄の、髭もじゃの、厳つい赤ら顔のデリクには、目元に大きな傷がある。それなのに、どうしてこんなに人の良さそうな顔に見えるのだろう。
「何だ? じっと見て」
「ううーん。不思議だなと思って。顔の作りは怖いのに人が良さそうに見えるなと」
「誰が? 俺がか。こりゃ傑作だ」
わっはっはっは、とデリクは笑って舞の背中をばしばし叩いた。背後の娘たちも笑いだした。本当よね、同感、といった感想にデリクが振り返って、ニヤリと笑う。
「そりゃ人徳だ、俺様のすんばらしい心根は、このいかつい仮面でも隠せねえ程にすんばらしいってもんさ。おら喋ってねえで働け働け」
「はーい」
答える声はどれもにこやかで、デリクは人気があるのだなと思う。庫裡のそばを流れる川の支流で手を清めると、舞はデリクの後を追って歩き出した。
「エルティナ、お前これからどうすんだ」
やはりというか何というか、内緒話がしたかったらしい。舞はデリクを見上げた。
「どうするって?」
「いや……待てまずはここからだ。腕が立つんだろうな、お前」
何しろあの段階で起きてきたもんな、と言われたので、舞は曖昧に頷いた。
「自分の身を護るくらいなら」
「謙遜はいらねえよ。正直、今は人手が出来るだけ欲しいんだ。単刀直入に言う。ここに止まってくれねえか。グウェリンの野郎は今日の午後には発たなきゃならねえって言いやがる。他の街に出かけてる用心棒たちもな、【アスタ】がもはや終わりで、賃金払える当てもねえかもって思えば、どれだけ戻ってくるかわかったもんじゃねえし。【契約の民】が大勢いるって知れ渡ってるからよ、しばらくは大丈夫だろうが、【契約の民】ってのは実際それほど戦えるわけじゃねえんだ。ティファ・ルダが王の軍勢を前にあっけなく陥落したことを見てもわかるだろう」
舞は頷いた。そうだ。【契約の民】は一対一で渡り合うなら手強い相手なのだが、軍勢に攻め込まれたら結構脆い。
「お前がいてくれりゃ心強い」
まっすぐにデリクに見られて、舞は目を伏せた。
「申し訳ないけど……あたしも午後には出るつもりです。行かなきゃいけないところがあるので」
「お前黒髪だろ。【アスタ】に逃げてきたんじゃねえのか」
「違う。ロギオンさんに用があったんです」
「そっか……」
デリクは長々とため息をついた。
「ま、そんな気はしてた。一番遠い娘っ子たちの寝床で寝てたくせに起き出してきやがったもんな、【アスタ】に逃げ込むような奴じゃないわな」
「ごめんなさい」
「気にすんな。デクターもそろそろ来るだろうしな。あいつは何としてもふんづかまえてやるぜ」
――デクター。
舞はため息を隠した。デクターに会うまでここに止まっていたいと心底思った。ニーナにはもう、あまり時間がないのだ。
けれどそれは出来なかった。【アスタ】の終焉を出来る限り早く知らせなければならない人たちがいる。こちらはもっと時間がない。
「ロギオンもなあ……馬鹿な奴だぜ……」
独り言のように呟かれた声には、万感の思いが感じられた。
ちょうど川に着いたので、デリクは舞に釣り竿を放ってよこした。二人は黙って並んでしゃがんで、川縁の石をひっくり返した。うねうねとうごめく虫を捕まえて釣り針につけながら、
「ロギオンさんとは友達だったんですか?」
聞いてみたらデリクは頷いた。
「ずいぶん前からのな」
「十年以上前?」
「もちろんもっと前からだ。幼なじみってやつだな。あいつはウルクディアで商人をやってた。そりゃ商人だからな、金貸しもしてたさ。利子なんかほとんどつけずにな。俺が見かねて勝手に手伝うまで、取り立てにもいかねえ有り様だった。極悪非道が聞いて呆れるぜ。
子供にゃ恵まれなかったが、嫁さんと二人でさ、幸せに暮らしてたんだよ。……なんであいつだったのかな」
デリクは川面に釣り針を垂らし、糸の先を見つめた。やや間があって、
「クロウディア様は最高の領主だった」
「ええ」
「でも一個だけまずかった。ティファ・ルダの血縁だったんだ」
「ロギオンから聞きました。ビアンカは」
「ディオノス=ル・セルデス=ティファ・ルダの又従妹、ね。今から七年前にティファ・ルダが滅ぼされてるだろ。あれが本当はな、十一年前に起こってたはずなんだ。クロウディア様がいて、強硬に反対したからさ、王もむやみに手を出せなかったんだよ」
舞はデリクを振り仰いだ。デリクはこちらを見なかった。大きな石のそばに針を誘導して、首尾良く一尾を釣り上げる。
「引いてるぜ」
「あ」
「……王が選んだのが、あいつだった。なんでなのか、わかんねえけど」
魚を釣り上げて針をはずし、籠に入れる間に、デリクが再び釣り糸を垂らした。
「あいつは断れなかったんだ。何があったかわかるだろう。子供がいなくてまだ幸いだったってなもんさ。なあ――ただの町中の商人がさ、あんな大貴族をそう簡単に没落させられるわけねえだろう? 運悪く第一将軍が南方の辺境にかかり切りになってたのも、周囲の貴族が誰も助けられなかったのも。領民に慕われた領主だったから、領民が皆で寄付集めてさ……元金が払えるくらいの額になったんだが、それを全部握りつぶすのも、さ、どうやったらロギオンごときにできたって言うんだよ。できたわけねえんだよ、あいつに、そんな力なんかなかったんだからさ。
それで首尾よく――っつうのもなんだが――クロウディア家が没落してみれば、嫁さんも帰って来ねえ。あいつも刺客に襲われてさ。何度かは俺が助けたんだが」
「……」
「そのうち俺がドジをしてケガしてな、あいつが俺の前から消えようとした。そこを助けたのがアンヌ様だ。死ぬ気があるなら、【アスタ】を作る手伝いをしろって言ってさ。【アスタ】は大勢の人を匿ったが、そのいっとう最初はロギオンだったんだよ」
「……」
話を聞くうちに、昨夜感じたどろどろとした怒りが、再び存在を主張し始めていた。
ロギオンは、今どうしているのだろう。
――ビアンカはティファ・ルダの血筋だ。あなたには今一番必要な情報だろう。
最後に囁いてきたのは、その言葉だった。
もちろんそうだ。【アスタ】がなくなれば、エルギンにはティファ・ルダが必要になる。ビアンカを巻き込んでもいい、とロギオンは言ったのだろうか。娘のように思っていたはずの、ビアンカのことを……
胸が、ざわついた。
「クロウディア家はティファ・ルダの血縁で」
深く考える前に言葉が出ていた。
急に変わった声音にデリクはこちらを振り返った。
「……そう。ティファ・ルダを征服するのに邪魔だった」
「どうして今、この時期に、こんな絶妙な時期に、ロギオンを」
立て続けだ、と思う。
第一将軍の手からシルヴィアが奪われ、四日後にアンヌ王妃の手から【アスタ】が奪われた。どくん、と胸が鳴った。アンヌ王妃と【アスタ】がエルギン王子の手を取る寸前で、本当に後少しの差だったのに。舞がウルクディアに寄り道していなければ、もしかしたら――いや早く来てもアンヌ王妃は着いていなかったが、でも――
そして【アスタ】は潰えた。でも。
止めを刺すにはロギオンだけじゃ足りないのではないか。
【アスタ】がなくなってもビアンカがいる。ティファ・ルダの血筋が、王を弾劾する。
「ビアンカは今、どこにいますか」
「…………さっき見た時ゃ、娘共に囲まれてたが」
デリクを見上げると、彼は舞の手から釣竿を奪い取った。
「まあ見て来いよ。んでそばに張り付いてな。バーサには巧く言っといてやるさ」
「ありがとう!」
きびすを返した舞の背を、デリクの声が追いかけた。
「んでそのまんまビアンカの護衛になっちまえよ、ずっとな。期待してるぜ、エルティナ」
*
【アスタ】の中心部へ行くのにはさすがに迷わなかった。ただ斜面を駆け上がればいいのだ。簡単だ。それに昨夜とは違って、そこここで仕事に精を出す人影がある。
人に道を聞きながらたどり着いた粉挽き小屋では、イルジットが娘達を指揮して猛然と立ち働いていた。ここで作られているのは練り粉だ。保存されていた穀物を脱穀して茹でて灰汁を取って水気を切って乾燥させてすり潰す、という一連の作業が、工程ごとに班に分けられて競うように行われている様子は、活気があって目まぐるしくてやけに楽しげだ。
舞は娘達をざっと見回して、イルジットを見つけ出した。
「イルジット!」
「あらエルティナ。どうしたの、血相変えて」
ふくよかなイルジットは娘達をびしびし指導するのを中断して、顔を上げてにこりとした。暖かな人柄が微笑みから溢れ出る。
「ビアンカはどこにいますか」
「あら、あなたも?」
イルジットは首を傾げた。
「ついさっきアルガスも捜しに来たのよ。いないって言ったら血相変えて飛び出して行ったわ。珍しいこともあるなと思ったけど。本当についさっき。会わなかった?」
――ガスも気づいた。
「……いえ、で、」
「ビアンカならほんのちょっと出てるわ。ここで待ってればすぐ帰るわよ、ってアルガスにも言ったんだけどね。ヒリエッタが、なんか話があるとかで連れて行ったわ」
「ヒリエッタが――」
昨夜の潤んだ憎悪の瞳を思い返した。ビアンカに何の用だろう。ビアンカ、という名を聞くのすら厭わしげだったのに。
「どっちへ行きました?」
「あたしは見てないんだけど」
言ってイルジットは舞のすぐ脇、戸口から一番近い場所にいた娘を軽く睨んだ。娘は首をすくめるようにした。
「イルジットったら厳しいの。どこ行くのかなって思って見送っただけなのに、あたしがサボってたって言うのよ」
「――どっち、に」
もどかしくて口が巧く回らない。アルガスにも言ったんだけどね、と娘は前置きして、
「そっちの方に上がって行ったよ」
「ありがとう……っ!」
「ねーどうしてビアンカ捜してんの、アルガスまでーなんかあやしーい」
背後で口々に投げられたからかうような質問にも答えず、舞は娘の示した斜面を駆け上がった。すぐに木立が辺りを覆うが勢いを殺さず駆け抜けて行く。ぴしぴしと枝が頬に当たる。長い髪が枝にからまって、勢いよくぴんと外れるのも気にならなかった。厭な感触が、今ははっきりとした予感となって、ざわざわと胸を締め付けていた。
大きな木を回って開けた視界に、アルガスの背中が小さく見えた。そういえば昨夜、ロギオンの小屋にはいなかったな、と思い出しながら舞はさらに足を速めた。アルガスは誰かを問いただしているらしい、憤りを含んだ低い声が聞こえる。
「今はそんな場合じゃない。火急の用だと言ってる」
そして舞に気づいて振り返った。アルガスの向こうにヒリエッタが見えた。アルガスの目は怒りと苛立ちに藍色に染まって見え、ヒリエッタはひどく高慢な顔をしていた。舞を見たヒリエッタは、あら、と言った。
「またあなたですの。またビアンカに火急の用が?」
「そうです」
アルガスが一歩下がった。何をもめていたんだろう、と疑問は湧いたが、今は後回しだ。
「ビアンカに話があると言って二人で出かけたとか。ビアンカは今、どこに?」
ヒリエッタはじろじろと舞を見た。アルガスには一瞥も向けなかった。ややしてつん、と鼻を反らした。
「話はすぐ終わりましたの。その後ビアンカが一人にして頂戴って言ったから置いてきましたわ。何ですの、血相変えて、子供が迷子になったわけでもあるまいし」
「どこにいる」
アルガスが言う。ヒリエッタは鮮やかに彼を無視した。もったいぶっているのかとも思ったが、待っている時間はなかった。
「どこに……ビアンカは、どこに?」
舞が訊ねると答えた。
「あちらよ。アスタの花畑。謝るにはよい場所ですから」
「謝、った?」
「大貴族の跡継ぎだったとお聞きしたので、今までの非礼を詫びたのですわ。なにか問題がありまして?」
――大ありだ。
舞が睨んだので、ヒリエッタはちょっと驚いたようだった。高慢な頬が、ふくよかで可愛い雰囲気を取り戻した。でも、アルガスが走り出していたので、舞も黙って後を追った。ヒリエッタを責めている暇なんかあるわけがない。
大貴族の跡継ぎだったとわかったから、大嫌いなヒリエッタが手のひらを返した。
それをビアンカは、どんな気持ちで聞いたのだろう。一人にして頂戴、と言ったという。当たり前だ。ヒリエッタの顔なんか見たくもないだろうし、平気な顔でみんなの輪に戻るなんてすぐには無理だ。――だから。
――何もこんなときにそんな謝罪をしなくても!
ヒリエッタはひどく間の悪い人だと舞は思った。何も今、ビアンカを一人にすることはないじゃないか。無事でいて、と祈る間も、予感がざわざわと忍び寄ってくる。首筋のうぶ毛がちりちり言っている。
アルガスに追いついた。斜面がもうすぐ尽きる。
「花畑は?」
「上がりきった少し先だ」
アルガスの動きがわずかに鈍い。辺りを警戒しているようだ。構っていられなかったので、舞は先に出た。
「待て、俺が先に」
後ろで声がしたが気にしなかった。舞は斜面を上がりきり、木立に飛び込んだ。すぐに花畑が見えてくる。紫色の、五枚花弁の、この地の名を冠した可憐な花が咲き乱れている。甘い芳香が鼻をくすぐる。
――そして。
その中央に、ビアンカが倒れていた。
仰向けに。
縮れた黒髪が広がって、周囲の花にかかっていて。
胸の上で手を組んで。
手に、アスタの花束を握って。
それはまるで、花畑の中に埋葬されたかのような光景――




