戴冠式(3)
戴冠式は正午の予定だ。あと数時間はある。
アルガスとデクターが家に戻り、マーティンとバルバロッサという二人組がニーナに挨拶しにきて、忙しく立ち去るともう、ビアンカにはやることがなかった。ニーナも、疲れたように座り込んでいた。マーシャは姿を見せなかった。厨房にいるのだとビアンカは思っていた。夜ご飯の仕込みを増やすと言っていたし、忙しくしているのだろうと。
お茶が飲みたいなあ、と思ってニーナをのぞき込んで、ビアンカは気づいた。
疲れてるんじゃなかった。考え込んでいる。
「……ニーナ?」
声をかけてみるとニーナは呟いた。
「フェリスタって有名なのかな」
「なんじゃないの? オーレリアとデクターが、腕と人柄は保証するって言ってた草原の民でしょ」
「そっか。そうね。あたしさっきよく見なかったの。てっきりアルガスが渡したんだと思ったから……ビアンカは見た?」
「あんまり見てないけど、明るい人だなって思ったわ。顔は怖いけど、根は優しそうだなって」
「……そっか。草原の民、フェリスタ……地下街で寝台を譲ってくれて、朝食を交換したって人よ。嘘から出た真になったわ。草原の民か。てことは草原に行っちゃうのかな、って思って、それはそれで淋しいな、と思ってたの。ぜいたくよね、あたし。選択肢が増えるのは、本当に嬉しいことなのに」
「草原に?」
そういえば、求婚、とか言っていた。
ようやくふに落ちて来て、ビアンカは息を詰めた。
「……姫がフェリスタと結婚するってこと?」
「舞がフェリスタを選べばね、そういうことになるでしょ。草原は遠いなあ。イェルディアの近くよね。あたしは巡幸があるし……ミネアが巡幸できるようになっても、あたしまで草原に住むわけにはいかないわ」
ビアンカは思った。きゃー。
そして思った。指輪をはめられて、何で気づかないんだろう。ここまでくると才能だ。
「……で、でも、まだ先のことでしょ」
ニーナはビアンカを見て、悲しそうな顔をした。
「今日の午後にはどうなるか決まるのよ」
「……今日の!?」
「そうよ、協定に効力があるのは、ミネアが五歳になるまでか、エルギンが王になるまでよ。今日の正午には戴冠式よ? 戴冠の直後にエルギンは求婚すると思うわ。そうしたら……舞には深く考えさせちゃ駄目なの。深く考えれば絶対エルギンを選ぶに決まってる」
「……そうなの? 王子様だから?」
ニーナは一瞬考えた。
それから、頷いた。
「まあそうね。アナカルシスの、この辺り一帯を治めることになる人物だから。舞は朴念仁でとんちんかんだから、自分のことには気が回らないの。だから今日まで未婚で許婚もなしで来てるの。舞がエルギンの気持ちにちょっとでも気づいてたら、さすがに【最後の娘】がアナカルシス王に嫁ぐことの意味を考える。そうしたら、あたしの協定は無意味だったはずよ。舞のようにエルギンの戴冠に多大な協力をした【最後の娘】が、アナカルシス王に望まれて嫁ぐことは、エスメラルダの――多分この国全土の、悲願なの」
「……そうなの?」
そんな大ごとな話なのだろうか。なんだか情けなくなって来た。デクターは説明されなくてもわかっていたようなのに。
「初めから勝ち目の薄い賭けだったのよ。兄様はきっと悲しんでいると思うわ。そもそもは、あたしが……あたしを、あたしの娘を、守るためにしてることだというのにね。あたしのしてることはきっと、アナカルシスとエスメラルダに対する裏切り行為なのかも知れない。でもあたしには……駄目よ。無理よ。絶対嫌よ、舞があたしのせいで誰かに縛られるなんて絶対絶対嫌なの。
両足を切り落とされて箱にでも詰められて毎年馬車に乗せられて巡幸させられる、年頃になったら子どもを作らされる、そんな人生を送ってたかもしれないなんて思うとぞっとするわ。……でもね、ビアンカ。それでも……それでもあたしは、舞がいなくなっちゃうくらいなら」
口を滑らせたようだった。一瞬、しまったという顔をして、ニーナは両手に顔をうずめた。
「……あたしはひどい人間だわ。結局自分が一番可愛いのよ。ただ舞を手放したくないだけ。舞がエルギンに嫁いだら舞があたしの犠牲になったってことになる。今みたいな関係じゃ、もういられないわ」
「例えそうだとしても……」
話はよく分からなかった。でも。
ビアンカはニーナの肩に手を置いた。
「あたしはニーナの味方をしたわよ。だってニーナがしてることは、姫が望んだ人のところに行けるようにすることよ? それが自分のためだって、姫のためにもなるんだもの、それならそれでいいじゃない?」
ニーナは顔から手を離して、ビアンカをまじまじと見た。
そして、
「……ふふ」
笑った。
「そうね。ありがと、ビアンカ。バルバロッサが話しておいてくれて助かったわ。いくら流れ者でも、その当日にいろいろ聞かされて、正午までにどうするか決めろって言われたって、混乱するでしょうからね。じゃあ、フェリスタに会いに行こうかな。そういうつもりでいてくれるなら、挨拶しといた方がいいものね」
「あたしも行く!」
ビアンカは勇んで立ち上がり、まだ前かけをつけてたことに気づいて外した。
マーシャはいなかった。一言かけて行こうと家中を捜し回って、外に出て、ニーナは口元を押さえた。
「おかしいなあ……どこ行ったのかしら。マーシャー? マーシャ!」
「食糧庫にいるんじゃない? 流れ者の胃袋が予想以上に大きかったから、夜の仕込みを増やすって言ってたよ」
「そう? じゃあそうかも。行ってみましょ」
マーシャの食糧庫は家の外、地下に大きく作られている。入り口を入ってすぐに傾斜の急な階段が有り、その下は鉄と石でとりかこまれたひんやりとした真っ暗な空間だ。子どものころ、何かで一度だけ閉じ込められたことがあるのだと、以前ニーナが言っていた。大変な恐怖だったと。
けれど十六歳のビアンカからすれば、そこはもうお化けの出そうな空間ではなく、おいしい料理になるはずのものがみっしり詰まった夢の空間だ。燻製にした巨大な肉の塊がつるされている。チーズの大きな固まりもある。地下だからか夏でも涼しいのでいろいろな食材を詰めておけるらしい。扉を開くとチーズの匂いが鼻をくすぐり、ビアンカはニーナの後ろからのぞき込もうとして、
がっ。
腕をつかまれた。
あんまり驚いて息を飲んだ瞬間、すごい力で腕を引かれて、ニーナもろとも転がり落ちた。一瞬風がふたりを守るように渦巻いたが、それは弱々しく、勢いを殺すような力はなかった。だが落ちたところは誰かの腕の中だった。ふたりの落下を受け止めてくれた誰かは、床にまともに倒れ込んで、アルガスの声で呻いた。
「……アルガス!?」
食糧庫の入り口が閉じた。暗闇が辺りを閉ざし、その中に、スヴェンの声が響いた。
「おとなしくしてもらおう。マーシャの命がかかってる」
貯蔵庫の中が、静まり返った。
真っ暗でよく見えないが、中にはアルガスのほかにも何人かいるようだった。ビアンカはとりあえずニーナの上からどき、ニーナが身を起こしながら言った。
「ありがとう。大丈夫?」
「……ああ」
アルガスの返答は怒りと苛立ちに満ちていた。ビアンカとニーナを引きずり込んだ誰かはアルガスではなかった。階段の上からゆっくり降りて来たその人は、剣を抜いた、ようだ。
マスタードラだろうか?
剣をビアンカに突き付けた誰かは、立ってください、と言った。マスタードラではなかったが、ホッとできる状況ではなかった。
「あなた……ケンネルね」
ニーナが低く呟き、ケンネルと言われたその男は、ビアンカの肩をつかんで立ち上がらせた。促されるままに壁際に連れて行かれて、座ってください、と言われた。座ると、デクターの声がした。
「ビアンカ、ニーナ、大丈夫かい」
その声は普段より弱々しく、ビアンカはなんだかぞっとした。
「デクターもなの? これはいったい、どういうことなの?」
「スヴェン。……あなたって人は、いつもいつも、よくもよくも、あたしの真心を踏みにじってくれるものだわ」
ニーナが呻いた。その声もなぜだか少し弱々しく響いて、ニーナが泣きそうになっているのが分かった。
「あなたなんか大嫌いよ。あたしにエスティエルティナがあれば命じてやるところだわ。もう一切、金輪際、罪悪感なんか抱いてやらないんだから……! マーシャは無事なの!?」
「無事だ。意識はないが生きてる」
「そんなの無事って言わないわ! あたしのマーシャを殴ったのね!? なんてことを! もう二度とルファルファの護りが自分の上にもあるんだなんて思わないことね!」
「静かに。……私は護りなどいらない。【最後の娘】がエルギン様を選んでくれればそれでいいんだ。ニーナ、座ってくれ。戴冠式が終わって王子の――王の求婚が済むまでここにいてくれるだけでいい。危害を加える気はない」
「ひどいわ……」
ニーナは座り込んだ。ニーナの隣にも兵士が立ったらしい。アルガスには何人ついてるんだろうとビアンカは思った。ふつふつと怒りが湧いて来た。そうまでして?
少し離れた場所で、デクターが言った。
「……情けない話でさ。マーシャが貯蔵庫で男手がほしいと言ってるって言われて、のこのこきてみたらこのざまだよ」
「もうすぐ姫が戻るはずだ」アルガスが静かに言った。「マーシャもニーナもビアンカもいないとなれば捜し回るぞ。こんなことをしても意味がない。王子は知らないことなんだろう? 知ったら怒ると思うが」
「お前に何が分かる」
「分かるわよ」ビアンカは口を出した。「前回のことだってすごく悲しそうな顔をしたのよ。こんなことして、あとで絶対ばれるんだし、絶対怒るに決まってるわ」
「怒られても構わない。これがエルギン様のためになることだ。ニーナが姫に黙って協定を結んだこととどう違う」
「全然違うわよ、バカじゃないの!?」
「もう話す気はない。黙れ。さもないと、」
スヴェンは言葉を切った。何を言いたいのかはよく分かっていた。ビアンカは唇を噛んで黙った。悔しい。信じられない。
息の詰まりそうな数分が過ぎ、天井の方で、軽い足音が響いた。どうやらどこかに通気孔があって、そこから外の音が聞こえるらしい。
「ただいまー」
姫の声もかすかに聞こえた。ばたん、と扉が閉じ、また静かになった。ビアンカの隣にいる、ケンネルと言う兵士(?)が息を詰めた。デクターが囁いた。
「捜し回るぞ。今ならまだばれないけど?」
「十数分後にね」ニーナがつぶやいた。やけになっているらしい。「まずお風呂よ。移動中じゃ体拭くくらいしかできなかっただろうし。ああ、疲れてるだろうし、湯船に浸かったらそのまま寝ちゃうんじゃないかしら? 戴冠式に舞が出なかったら大変よね? 起こしに行った方がいいんじゃないかしら」
やけになってはいなかった。どうにか事態を切り開こうとしているらしい。けれど声はいつもより弱々しくて不安になる。
アルガスもいる。デクターも、ニーナもいるのだ。ふたりで風を起こして意表をつくとかすれば、アルガスならマーシャを助けてくれるのではないだろうかと、思うのだが、それはやはり無理なのだろうか。無理なのだと、遅れて気づいた。アルガスは一人しかいない。戦えない、剣を突き付けられている人間はふたりだ。マーシャと、自分と。
――最低だ。やっぱり剣くらい習っておくべきだった!
その後しばらく、姫の物音は途絶えた。やはりお風呂に入っているらしい。
ニーナがもう一度さっきの言葉を繰り返したが、スヴェンもその仲間たちも無言だった。いくら疲れていても、湯船に浸からなければ寝まではしないだろうし、戴冠式の準備でいろいろと忙しそうだから、のんびり湯船に浸かったりはしないだろう。ビアンカでさえそう思ったのだから、スヴェンたちも気にしないようだ。
その内、また扉の音が響いた。
「あれえ……? やっぱりいないなあ。マーシャ! ニーナ! ビアンカ!」
返事はできなかった。ビアンカは唇を噛み、姫が自分で貯蔵庫を探しに来てくれることを祈った。
けれど周到に手を打っていたらしい。外で男の声が響いた。
「どうした。何を騒いでる」
知らない声だ。たぶん王子の兵なのだろう。ここにいるのと、同じように。姫も顔見知りらしく、全く疑う様子がなかった。
「あ、セシル。おはようございます。マーシャたちを知らない?」
「いないのか? そうか。一緒に捜してやろう。俺は貯蔵庫をみてくる」
「うん、お願いします」
お願いしますじゃないー!
ビアンカは思わず唸った。念力というものが自分にも使えればいいのに。
数分後、姫が戻って来て男に言った。
「いなかった?」
「ああ。そろそろ着替えなければならないだろう? 手が必要なら、誰か他の人間を捜した方がいいんじゃないか? マーシャもニーナもきっと流れ者の方へ行ってるんだろうし、ニーナはもう着替えてたぞ。準備ができてないのはあなただけじゃないか」
「うーん……そっか……忙しいのかな。どうもありがとう。誰か呼んで来て手伝ってもらう」
「それがいいだろう」
男は答え、その場を去ったらしい。姫は誰かを呼びに行こうとしたのかもしれない。どうしようとしたのかはわからない。けれど息を飲む音がした。誰か苦手な人が来たようだ、
「……何よその顔」
オーレリアだった。姫は引きつった声で答えた。
「なんでもないですよ? どうなさったのですかこんなところで?」
「なに引きつってんのよ、取って食いやしないわよ。いやちょっとさ、あんたに話があったの。戴冠式の後じゃ遅いかもしれないなと思って」
「なに?」
なんだろう。ビアンカも耳をそばだたせた。盗み聞きをするのは気が引けたが、これはスヴェンのせいだと自分に言い聞かせた。
「あんたさ、王の交代が済んだらどうすんの?」
ニーナが息を飲んだ。姫はしばらくの沈黙の後、
やや用心深い口調で答えた。
「どうする……って?」
「いやほら、どっか行きたいとことかさ、やりたいこととかさ、ないのかなって思ったのよ。ふうん、考えてないんだ? じゃさ、あたしと一緒に世界のへそ、見に行かない?」
「世界の、へそ?」
「あたしそこで巨人に会ったの。すんごい老齢だったけど、巨人の寿命は長いからね、まだ生きてると思うわ。面白い話をいろいろ聞いたのよ。ここ最近で、また聞きたいことができたし、落ち着いたらまた行くつもりなの。近々ね。だからもし、あんたが……ここにいられないような、いたくないような、出来事が起こったら」
スヴェンが息をつめ、オーレリアはさばさばと笑った。
「もしもの話よ。やることなくなったらでもいいからさ。つれてって上げてもいいわ、もちろん下心はあるのよ? あんたエスティエルティナだから。世界の中枢に至る者、だから。あんたと一緒に行けば、巨人の重い口もも少し開くかも、なんてね。そういう道もあるのよってこと。考えといて」
姫の返事は聞こえなかった。うなずいたのか、どうなのか。オーレリアは照れ臭かったのか、あっと言う間に話を変えた。
「で、なあにあんた、まだ普段着なの? 戴冠式、まさかそのまま出るんじゃないでしょうね」
「あ、ううん。アイオリーナがドレスをくれたの。せっかくだから着ようと思うんだけど、着方がさっぱりわからなくて、マーシャを知らないかな?」
「知らないわ。ふうん、アイオリーナ姫のドレスかあ。ねね、どういうの?」
「袖も首も肩も覆う形で、深紅と白の組み合わせで、裾がふんわりしてるの。裾からひらひらが覗いてて可愛かった。ふりふりはあんまりないからグリスタは嘆くかもね。でもあたしはすっごく気に入っちゃった。似合うといいんだけど」
「へえー!」
ああ盛り上がってる、とビアンカは思った。オーレリアが盛り上がっている。
とてもまずいのではないだろうか。
案の定、オーレリアは言った。
「あんた髪とか顔とかもどうにかしなきゃいけないわねえ。マーシャが他のことで忙しいんなら……しょうがない、あたしが手伝ってあげるわ」
「へ? いやでもね、あたしコルセットひとりでつけるなんて無理だから、」
「だから手伝ってあげるって言ってるんじゃないの。大丈夫、そんなぎゅうぎゅう締めないから」
「……え? 冗談、だ、よね?」
「なんで? なんであたしが手伝っちゃいけないの?」
「なんでって……あれ、あたしがおかしいの? なんかそんな平然と言われると自信がなくなってくるんだけどでもなんか、目が、怖っ、」
ばたん! と音が響いて、少し遠くなった姫の声が響いた。
「結構ですー! 他を当たりますー!」
「あこらちょっと開けなさいよ! ねー! 痛くしないからー!」
「そういう問題じゃありません! 他の人捜すから結構です!」
「なーんーでーよー!?」
なんでよ、じゃないだろう。
ビアンカは呆れるが、オーレリアはばんばんと扉をたたく。がちゃがちゃと音も響くが、玄関に鍵がかかったらしい。オーレリアはたたくのと叫ぶのをやめ、ため息をついた。
「あーあ……やっぱりあんたも他の人と一緒なのね」
その声があんまりにも悲しそうで、ビアンカでさえ胸を突かれた。と、アルガスがなぜかため息をつき、デクターが呻いた。
「騙されるなよ……?」
「あたしの体が男だから、いくら心は女でも、女って認めてくれないのね、あんたも」
「え……」姫の声は急に小さくなった。「や、でも……え? あたしがおかしいの? でも、でもですねえ、あの、」
「淋しいなあ。あたしね、本当に女なのよ、心は。ただ純粋にあんたの身支度を整えてあげたいだけなのに……」
オーレリアの声が、少しずつ移動していた。玄関の方から、そろりそろりと窓の方へ回っているらしい。姫は言った。
「そ……そっか……」
「あーやっぱり騙されたよ……」
デクターがまた呻いた時、また姫の声が聞こえた。
「でもやっぱりだめ。だってまたひどいこと言うでしょう。洗濯板とか薄っぺらとか色気がないとか、」
「あたしそんなこと言ったっけ?」
「そのうえ忘れてるし……って、わーっ!」
「あははははは捕まえたわあっははははは!」
オーレリアの勝利の高笑いが聞こえた。
「あたしの憂い顔と憂い声って一回目はみんな騙されんのよね。ちょろいもんだわあ。行儀悪いけど窓から失礼~」
「ぎゃーっ、放して、ちょっと、だからっ、」
「でもさっき言ったのは本当よ? あんたの裸なんかぜんっぜん興味ないし、だいたいあんたって中途半端なのよ。触って楽しいほどふかふかじゃないし、かといって手ごたえないほどまっ平ってわけでもないし。あたしもっと固いのが好きなのよねえ」
「あなたの好みなんか聞いてません!」
そりゃそうだ、とビアンカは思った。
「はーなーしーてーよー! 傷ついたんだからー! 恋人できても嘆かれるって言ったー!」
「あたしそんなこと言ったっけ。まあそうね。それじゃ恋人できても嘆かれるわ、いいこと言うなああたし」
「また言った……! もう怒った! 表に出ろ! いや出て! 出てくださいお願いしますー!」
「出るわけないでしょ、ばーか。ほんとにあんたひと月くらいじゃ全然変わんないのね。あそっかもう十九なんだから自然な成長なんてもう無理よねえ、あははー」
「きー!」
可愛がってるなあ……とデクターが呟いた。可愛がっているのだろうか、とビアンカは思う。
「でも胸って揉んだら大きくなんのよ、知らないの? しょうがないからこないだみたいにもんだげ、」
――こないだみたいに?
ビアンカの思考を姫の絶叫がかき消した。
「バカあああーっ! ばかばかばかばかっ、バカアホ間抜け、おたんこなすー!」
おたんこなす。初めて聞く罵倒だ。オーレリアは平然としたものだった。
「もう観念しなさいよ、往生際が悪いわねえ。ほら行くわよ」
「やだってば、誰か助けて……っ!」
もう涙声だった。ビアンカは正面の壁の辺りで何人かが身じろぎをしたのに気づいた。誰かが息を飲み、後ずさったようだ。スヴェンが静かな声で言った。
「動くなよ、アルガス=グウェリン。後悔なんかしてない。してないからな……!」
後悔しているらしい。それはそうかもしれない。アルガスは怒っていた。今やビアンカにもはっきりそれが感じられた。空気がぴきぴきと凍りついていくような気がする。マーシャとビアンカのことを忘れないでくれる余裕がなくなったらどうしよう。
と、スヴェンにとってもマーシャにとってもビアンカにとっても姫にとっても、救いの神が現れた。ようやく。
姫の声が変わった。
「あー! あの、ウルスラ! うーるーすーらー! すすす済みませんがちょっと手伝っていただけませんか……っ!」
ちっ、とオーレリアが舌打ちをしたのが聞こえた。
「ドレスを着たいんですけどコルセットが締められなくて……ガルシアさんにも済みませんが、ちょっとだけ……お願いします! ああよかった、ありがとう! オーレリア、というわけですからあなたは結構です!」
「えー? なによもー、せっかく遊べると思ったのにー。ふん、いいわよ。でも髪と化粧はあたしも混ぜてよ」
鍵が開いた。ウルスラが招き入れられ、しばらくのやり取りの後、家の中で扉が閉まる音がした。オーレリアが言った。
「十数えたら入るわよ。いーち、にーい……」
ゆっくりと数え上げ、
「きゅーう、じゅー! 入るわよー!」
「ほんとに開けるなばかー!」
姫の声が最後に響いて、静かになった。
ビアンカはため息をついた。どうなるかと思った。スヴェンも、アルガスのそばにいる兵士たちもほっとしているに違いない。
「何であの人はせっかく上がった評価をすぐ大暴落させるようなことをするんだろうな……」
デクターが呟いた。ビアンカもうなずいた。世界のへそに誘ったというのは、エルギンのこともフェリスタのこともアルガスのことも、選ばないという選択肢を提示したということだ。どうしても嫌ならそういう道もあるんだよ、と逃げ道を示しておきながら、あんなことをしては台なしではないか。
「……あんなに嫌がってるんだからやめてあげればいいのにね」
言うと、答えたのは、驚いたことにアルガスだった。
怒りと苛立ちをたっぷり含んだ、ひどく静かな声だった。
「あの人に対して嫌がるのは無意味だ。無意味どころか、逆効果だ」
「……そうみたいね」
「嫌がれば嫌がるほど盛り上がる。抗議が通じると思う方が間違いだ。抗議などせず、できるだけ静かにこっそり逃げるのが一番被害が少ない」
「覚えとく……」
その後しばらく、沈黙が落ちた。
 




