戴冠式(1)
冬至の日は、朝から慌ただしかった。
ニーナもビアンカも夜明け前から起き出して準備に駆けずり回った。まずはマーシャによってドレスを着せられ、髪を結われ、お化粧をされた。朝食を簡単に済ませて、それからアンヌ王妃のための部屋の最終確認に行き、姫が雇ったという十二人の流れ者のために家と天幕を準備した。家の窓を開けて風を通して、寝具を風に当てて、天幕の立ち並ぶ広場まできたときに、ニーナが呻いた。
「ああ、やっぱり天幕なんかじゃゆっくり休めないんじゃない? 寝台も十分とは言えないし、これじゃ雑魚寝と変わらないわ。怒られないかしら」
「流れ者は野宿じゃない上食事が出るだけで喜ぶと思うけど?」
デクターが言い、オーレリアはあくびをした。ニーナは唸った。
「うー。舞を助けてくれた人たちなのよ? 各都市代表のために準備してる部屋を開けさせたいくらいだわ。まあしょうがない。食事を好きなだけ食べてもらって満足してもらうしかないわ。少なくとも毛布は十分あるし、ふかふかよね。じゃあ次、行きましょう」
「まだあるのお~? なんで【最初の娘】が駆けずり回ってんのよお。家でのんびり待ってりゃいいじゃないのよお」
オーレリアはぐずっている。眠くてぐずるなんて、三十五歳のすることか、とビアンカは苦笑した。
「いい加減に起きてよ、オーレリア」ニーナも笑った。「あたしはもう病気じゃないんだもの、家でのんびりなんかしてられないでしょ? もうすぐ舞も着くんじゃないかな、エルヴェントラがてぐすね引いて待ってるから、あの子は家に戻る時間さえないかもしれないわ。でも朝ごはんはまだのはずよ、ということは流れ者たちもまだのはずでしょ? きっとマーシャがてんてこ舞いで、すぐ出せるご飯を作ってる、手伝いにいきましょ」
四人がニーナの家に戻ると、国境に続く道の方がざわめいていた。誰かが到着したらしい。またどこぞの都市代表に決まってるわ、とニーナは呟いた。誰かが到着するたびに、それが姫ではないかと期待する自分に言い聞かせているのだとビアンカは知っていた。昨夜からずっとだ。だから家でのんびりなんてしていられないのだろう。
厨房でマーシャは相変わらずゆっくりと動き回っていた。普段と変わらない、落ち着いた動きだった。けれど目を離した隙に、色とりどりの料理がどんどんできあがっていくのだ。薄切りのパンがずらりと並べられた上に次から次へとおかずが乗せられていく。まるでおかずが我勝ちに自分でパンの上に飛び乗っていくみたいだ。ビアンカはうっとりした。美味しそう。
厨房に入るとニーナは力強く宣言した。
「マーシャ! 手伝うわ!」
「恐れ入ります、ニーナ様」今日ばかりはマーシャは辞退しなかった。「ドレスが汚れるといけませんから、これつけてください。ビアンカ様も。じゃあニーナ様、この上にパンを乗せて重ねてお皿で重しをしてもらえますか? どっさりいるでしょうからね。スープは大鍋に二杯できています。ビアンカ様、恐れ入りますが、こちらでサラダを混ぜていただけますか。オーレリア」
「ふぁい」
「起きてください。ここにある鶏肉ね、下味がついてますから、粉をつけて油で揚げてくださいな。朝だけど、起きぬけに移動してきてお腹がすいてるでしょうからね。デクター、夜用のパン種を作りますから手伝ってください」
マーシャはてきぱきと指示を出した。ビアンカはサラダにトマトとキュウリとタマネギと豆を順番にいれながら彩りよくなるように混ぜ、最後にマーシャ特製の、すりおろしたタマネギがどっさり入ったたれをかけて混ぜた。いい匂いだ。大皿を並べてそこに一人分ずつ盛り付けていく。ニーナは重しをしたパンを切り分けてビアンカに続いて皿に乗せ、ようやく目が覚めたらしいオーレリアが、まだ仏頂面をしながら同じ皿に鶏肉の唐揚げを一人分ずつ乗せていった。他にも練り物だの、薯と腸詰めの炒め物だの、色鮮やかなトマト味の麺だのが乗せられて、お皿の上はもう大変な華やかさだ。
「あー、マーシャのお弁当だわ」ニーナがにこにこした。「これを箱に詰めてよく舞と探検に行ったものなの。ねえマーシャ、王の交代が済んだら、あたしたちの分も作って頂戴ね?」
「もちろんですよ、ニーナ様。いくらでも作りますとも」
「舞と、ビアンカ、アイオリーナも誘えたらいいわねえ。それからミネアと。デクターも行くでしょ? オーレリアはどうする? みんなでお弁当もって出かけましょ。えーと……なんて言うんだっけ」
「ぴくにっくです」
「そう! ぴくにっくよ。いいと思わない、ビアンカ?」
「すごくいいと思う。楽しみだわ。バーサも誘えたらいいんだけどなあ」
「呼べばいいじゃない? まあでも、春になったら巡幸だから、リヴェル近辺も通るのよ。ビアンカ、巡幸に同行して、リヴェルでバーサに会えば?」
「あーそっかー」
「今年はきっと華やかに回れるでしょうね」
オーレリアはようやく機嫌も直ったようだ。動きに生気が戻った。揚げたてをこっそり味見したからかもしれない。マーシャの美味しい唐揚げを揚げながら不機嫌でいられる人間はいないだろう。オーレリアは(もったいないことに)ドレスを着る気はないようで、普段どおりの簡素な服装だったが、ふりふりのついた前かけがよく似合っていて、次から次へと唐揚げを作るその姿はかいがいしいと言えるほどだった。オーレリアはなんでもできる人だなあ、とビアンカは感心した。油の温度もちょうどよく、唐揚げはかりっとしていていかにも美味しそうだ。
ねじりはちまきをしてパン種をこねているデクターは真剣らしく無言だった。結構完璧主義なのかもしれない。ビアンカとニーナが小さな器にスープをとりわけ、マーシャが汚れ物を洗っていると、玄関で鈴が鳴った。
ニーナはスープの入った器を机にどん、と置いた。ちゃぷん、とスープが揺れた。
「あれえ……? ただいまあー」
玄関で姫の声が聞こえた。
「マーシャ? ニーナ? 帰りました……」
「舞……っ!」
ニーナはまだ前かけをつけたままで厨房から歩いて出た(どうやら厨房で走ってはいけません、とマーシャに躾けられているらしい)。廊下に出ると走った。びっくりするほど速かった。ビアンカがまだ厨房にいるうちに、玄関で明るい声が上がった。
「舞! おかえり……っ!」
「わあっ!?」
どうやら姫にも飛びついたらしい。外で楽しげなざわめきが上がった。アンヌ王妃の声もして、ビアンカも廊下を走って行った。玄関の外には大勢の人間がいた。アンヌ王妃とヴェガスタとフィガスタと、アルガスがいたが、他は全員知らない人ばかりだ。ニーナは姫の顔を両手で挟んでまじまじ覗き込んでいた。
「元気そうね! よかった……」
「ニーナも」
久しぶりに見る姫は、少し痩せたように見えた。でもニーナを見て、本当に嬉しそうに笑った。
「孵化、うまく行ったってイーシャットから聞いてたけど、でも本当によかった。ビアンカ、ただいま。いろいろ本当にありがとう」
「どういたしまして」
姫はニーナから少し離れて、かたわらのアンヌ王妃を振り仰いだ。
「アンヌ様、こちらが【最初の娘】、エルカテルミナ=ラ・ニーナ=ルファ・ルダです。ビアンカはご存じですね? ニーナ、アンヌ王妃をお迎えしました」
「ごぶさたしています、アンヌ=イェーラ様」
ニーナはにっこりと微笑んだ。前かけをつけたままで、先程姫に飛びついたというのに、今は見事に王女に見えた。
「長旅、さぞお疲れでしょう。ようこそエスメラルダへ」
「ご招待ありがとうございます、【最初の娘】。十年ぶりかしら? 綺麗になられたこと」
久しぶりに会うアンヌ王妃は、姫にも増して驚くほどの痩せ方だった。痛々しいほどの変わり方だ。けれど、その笑顔は変わらなかった。優しくて、美しかった。
「それからビアンカ。――ビアンカ=クロウディア姫」
王妃はビアンカの前で、ニーナにしたのと同じように、丁重に礼をした。
「あなたのお心に感謝します。お元気そうで、何よりだわ」
「あ……恐れ入ります」
姫がにっこりした。
「バルバロッサとマーティンは今エルヴェントラの方に行ってる。すぐ来ると思うよ。それからここにいる人たちが手紙に書いた人たちです。フェリスタ、グリスタ、ノーマン……」
姫は流れ者を全員紹介した。ひとりひとりがニーナに向かって軽く礼をした。ビアンカはその中で、特に若い人がいるのに気づいた。ビアンカとあまり変わらない年齢のように見える。
「最後にニコル。ビアンカ、バーサの宿で雇われてたんだって」
「バーサの?」
ニコルと呼ばれたその若者は、とても人の良さそうな人だった。屈託のない笑顔で会釈をして言った。
「【アスタ】のビアンカ。バーサから話はよく……聞いたよ」
敬語を使うか使うまいか迷って、使わない方を選んでくれたのがわかった。本当に、バーサからよく話を聞いていたのだろう。バーサからの手紙を思い返した。今までどおり、貴族だなんて思わずに接したいと思っている。ビアンカにとって一番嬉しい言葉だった。ビアンカはにっこりした。
「初めまして」
と、ビアンカの背後を見て、姫が明るい声をあげた。
「マーシャ! ただいま!」
「よくご無事でお戻りでした」
マーシャは涙ぐんでいた。姫をぎゅっと抱き締めると、手を放してしげしげと見た。
「魔物の前へお出になられたとか」
うっ、と姫は一瞬うめいて、観念したようにうなずいた。
「……はい」
「……後程申し上げたいことがあります。一刻ほど」
お説教だ。流れ者の誰かが口笛を吹き、姫は苦笑した。
「はい」
「アンヌ様、ようこそおいでくださいました。どうぞ、お入りくださいまし」
王妃は丁寧に礼をした。
「ありがたいお言葉ですけれど、エルギン王子にご挨拶に伺いたいと思っておりまして」
「さようでございますか。それではご案内いたしましょう。他の方は中へどうぞ、食事を用意してありますから」
「こりゃあありがてえ」
答えた声は野太く粗野で、なんだかなつかしかった。【アスタ】の用心棒たちに食事を配った日々が思い出された。姫とニーナとビアンカは先に立って、流れ者たちを客間へ案内した。家中の椅子をかき集めて詰め込んだから、多分足りるだろう。
ビアンカは客間を素通りしてそのまま皿を取りに厨房へ向かう。デクターはまだ一生懸命パン種をこねている。オーレリアは洗い物をしている。食べ物の満載されたお皿を慎重に運び始めると、姫が言うのが聞こえた。
「……皆さんのお陰で無事にアンヌ王妃をエスメラルダへご案内することができました。本当にどうもありがとう。助かりました」
「私からも」ニーナが言葉を添えた。「お礼を申し上げます。我が【剣】を魔物から、さまざまな危機から守ってくださってありがとう。【最初の娘】の感謝をお受けください。今日は戴冠式があるので、あまりゆっくりおもてなしもできませんが、お時間の許す限りゆっくり滞在してください」
「こりゃ恐縮だなあ……」
フェリスタ、と紹介された男が感心したように言った。
「こんなに歓迎してもらえるとは思わなかったぜ」
「だって舞の恩人だもの、あたしの恩人でもあるわけだわ」
ニーナは急に砕けた口調になってにこやかに笑った。
「この子ったら無鉄砲で呆れたでしょ? あ、ごめんなさい、お腹すいてるわよね。今持って……ビアンカ、ありがとう。舞、厨房にお皿があるの。手伝って」
「うん。……わあマーシャのお弁当だ!」
姫はすれ違いざまビアンカの持つ皿の上を見て、先程のニーナと同じことを言った。ビアンカがふたつの皿を机に乗せると歓声が上がった。やはりみんなお腹がすいていたらしい。
厨房へとって返す間にニーナとすれ違った。姫はどうしたんだろうと思っていると、
「……お帰りなさい、エスティエルティナ=ラ・マイ=ルファ・ルダ」
まだふりふりの前かけをつけたオーレリアに首根っこつかまれていた。なるほど。
「たたたたたただいまオーレリア」
「よくものこのこ帰ってきたもんだわねえ。いい度胸だわ。あたしが最後に言った言葉、覚えてるでしょうねええ?」
「あああああああのお皿運びたいんですけれども」
「十日で帰るう? ふううううーん。何日経ったか言ってご覧なさいよさあさあ」
「や、だって、はっきりとはわからないから帰るまでってことにしてって言っ」
「口答えするんじゃないわよ! あんたねえあたしがどんっなに大変だったかわかってんの!?」
「そんなに大変だったかなあ? 棒十本もらってりゃ十分だったと思うけど」
デクターがパン種に布巾をかけながら言った。どうやら満足いくまでこねたらしい。オーレリアは鮮やかに彼を無視した。
「もうほんっとうに大変だったんだから! 通行証と紋章の件、忘れてないでしょうねえ?」
「忘れてないですよ? 大丈夫ですよ? あの、お皿、」
姫が言い、ビアンカは我に返った。おっと、ニーナ一人に運ばせているではないか。ビアンカが皿を手に厨房を出る時、姫が言うのが聞こえた。
「……オーレリア、それで運んでくれればグリスタが喜ぶよ」
オーレリアが何と答えたかは分からなかった。




