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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第九章 再会
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再会(11)

 アナカルディアを出て以降、姫は馬車の中にこもったまま、出て来なかった。


 その頃には、ニコルも他の流れ者たちも、事情をうすうす察していた。シンディという召使いが一緒に来なかったのは、実家へ帰ったせいであるというのは、どうやら王妃とヴェガスタが姫を気遣ってついた嘘であるらしい、ということ。いや、本当に嘘なのかどうかはわからない。でも姫はそれを恐れているようだ、ということは、今や暗黙の了解に近かった。


 それを知ってか知らずか、王妃は気さくな人だった。彼女の気遣いが一行の雰囲気を救っていた。姫に迎えにきてもらったことをとてもありがたいと思っていると、事あるごとにそう言ったし、言動の端々にもそれがうかがえた。姫のほかは全員流れ者か草原の民だという事実も、全く気にならないようだった。流れ者に護衛される身であり、姫の世話になっている者だという立場を、よくわきまえているようで、休んでいる時には全員の輪の中に入ってその中を居心地よくするのに力を尽くしていた。なるほど、王妃というのはこういう方かとニコルは感嘆の念を抱いた。【アスタ】の産みの母なだけのことはある。


 誰も、姫のいる馬車に声をかけなかった。昼食の時も休憩の時も彼女は姿を見せず、フェリスタが何度も馬車の近くをうろうろしているのをニコルは見た。王妃は、姫は手紙を書いておられると言った――先行の流れ者たちが、地下街でエスメラルダ行きの鳩を手に入れてきていたので、状況を知らせる手紙を山ほど書いているらしい。ニコルも馬車のそばに近づいた。そろそろ夕食の時間だ。でも声をかけるのははばかられた。泣いているかもしれないと思うと不安だった。かける言葉も見つからない。最大限の努力をして、それが報われなかった場合、なんと声をかけるのが正しいのだろう。


 どこかにそういう言葉を集めた説明書みたいなものがあればいいのに。

 そしてぞっとした。これでもし、イーシャットという人物が、多分あと二日もすれば会うだろう人物が、死んでいたら?

 そうなったらもう、目も当てられない。


 結局勇気が出なくて、ニコルは馬車のそばを素通りして薪を拾いに林の中へ踏み込んだ。情けない。

 でも、今夜はここで野営だ。夕食の支度に必要な薪は揃っているが、一晩中火を絶やすわけにはいかないのだから、いくらあっても困ることはないだろうと、言い訳をしながらいくつか枯れ枝を拾った時、目の隅に馬車に近づいて来る人影が飛び込んだ。


 アルガスだった。

 ニコルは反射的にしゃがみこんだ。そして驚いた。何で隠れるんだ、俺。

 けれど隠れてしまったものは仕方がない。今更立ち上がって手を振るのはすごく変だ。ニコルはゆっくりと茂みのそばへにじり寄って、そこで耳を澄ませた。アルガスが馬車の中へ声をかけて、姫が答えたのが聞こえた。涙声ではなかった。姫が顔を出した。ふたりが言葉をかわすぼそぼそとした話し声が耳に届いて、ニコルは我に返った。何を聞き耳立ててるんだ、俺。

 この体勢はどうだろう。人として。



    *



 馬車の中はとても静かだった。


 停まってからはずっと、王妃は馬車を出ていた。舞はひとりで手紙を書き終えた。こないだから書いておいた手紙と、今日書いた手紙をより分けて、出せる物を整理した。エルヴェントラへと、エルギンへと、ニーナへと、三通の手紙を手にして、読み返そうとしながら舞は、自分の書いた文字がちっとも目の中に入って来ないことに気づいた。目が滑る。考えないようにしようとしても、頭に浮かんできてしまう。


 ――エスメラルダへ行きたい。

 ――だからあなたに、恩を売りたい。


 シンディは追い出されないと、思っていたのは、あの約束があまりに真摯だったからだ。あの約束を強いたシンディが、舞を待たずに、王妃とヴェガスタを残して、実家へ帰ったりするはずが――


「でも、帰ったんだ」


 声に出して言ってみた。その声は我ながら弱々しく響いた。

 と、馬車の扉が叩かれた。移動を始めてから、初めてのことだ。王妃ならば声をかける。あんまり驚いて、声がはねた。


「は、はい!」

「ちょっといいか」


 アルガスの声だった。舞は胸がずきんと痛むのを感じた。アルガスはシンディと親しかった。仕方のないことだった、と言ってくれたけれど、シンディを悼む気持ちは舞よりずっと強いはずだ。舞は恐る恐る扉を開けた。瞳は灰色だった。舞をみて、アルガスは少し安堵したような顔をした。


「忙しいところ悪いんだが、少し話がある。時間をもらえないか」


 なんだろう。


「あ、手紙はもうすんだよ。さっき。だからもう忙しくないよ。イェルディアへは帰ってから出すことにした。今はニーナへの手紙を読み返してたとこ」

「そうか」


 馬車を降りようとしたら、すぐ済むからと止められた。舞は馬車の入り口に腰をかけてアルガスを見上げた。辺りはもう、薄暗かった。よく手紙が読めたものだ。今日は明るい光の下でアルガスを見なかった、と思った。


 アルガスは、懐から、黒い小さな何かを取り出して、手のひらの上に乗せて差し出した。


 舞は瞬きをした。見覚えがある。それは黒く黒く、光沢がなく、あまりに黒くて禍々しく見えた。角だ、と思う。魔物の持つ角にそっくりだ。円錐形をしているが、先が少しだけくるんと丸くなっていて、形としては優美だ。


「あなたに渡してほしいと頼まれた」


 魔物の、角を?

 ――誰に、

 訊ねかけて、口を閉じた。何やってんだよ、と言った、フェリスタの声が耳によみがえった。

 ファーナの近くを通った時に、アルガスは、何か音を立てたものを、調べに行ったようだった。


「……死んでなかった。自分の意志で、動きを止めていただけだったそうだ」とても静かな声だった。「あなたのことを気にしてた。元気か、幸せか、と聞いてた」


 ――ファーナ……!

 座っていてよかった。頭のどこかでそう思った。立っていたら、座り込んでしまっただろう。動揺を見せてはいけない、あたしがまだファーナを悼んでいることを、知られては、いけない、と、思って、いたのに。


 舞は頬に手を当てた。小刻みに震えているのを頬で感じた。駄目だ。無理だ。取り繕うなんて。ファーナを憎んでいる、忘れている、もう何とも思ってない、ふりを、する、なんて、あたしにはきっと生涯、無理だ。


「生きて……た?」

「そう。炎も宿さない剣の一撃で、魔物が死ぬわけがない、と言っていた。確かにそうだ。王妃宮に入った時、隠し通路から出る前に角を落とした。そうしたら現れた」


 ――行っててくれ。ちょっと落とし物を。

 あの時。

 あたしのすぐそばに、ファーナが、いた。


「あなたを呼ぼうかと言ったら、また狂うからやめてくれと」

「狂う、」

「本当はファーファという名なんだとか?」


 ――そんなことまで。

 ファーナの声が押し寄せてきた。銀狼と同じく、クレインと同じく、脳に直接響くような声が。ファーナじゃなくて、ファーファじゃないのか。初めのうちはよく抗議された。結構こだわるたちだった。だって言いにくいんだもの、と言うと、そんなものか、と不思議そうだった。発声器官を使うというのは不便なものだな、と言っていた。


 舞は両手で顔を覆った。衝動を止めるのに必死だった。そうしなければ走りだしてしまいそうだ。取り乱して、叫んで、叫んで、泣き出してしまいそうだ。


「……ファーナは……?」


 辛うじて言葉を絞り出すと、アルガスには意味が通じた。優しい声が降ってきた。


「もう帰るそうだ。あなたが七年生き延びて、元気でいることさえわかれば、それで充分だと」


 ――ファーナ。

 会いたい、のに。

 こんなに、こんなに、会いたいのに。会いたくてたまらない、のに。


「ごめんね、」


 両手を顔に押し当てたまま、舞は呻いた。


「おかしい、よね。クレインが、どんな存在なのか、知ってるのに……魔物、なのに、でも、やっぱり、あたし、まだ、まだ。ファーナに会いたい」


 我慢しきれなくなって、膝に顔をうずめた。この世から消えてしまいたかった。この期に及んで、あたしはまだこんなにファーナが好きだ。殺されかけても、大勢の人を殺して、食べるのを、見ても。この世の人、すべてが、魔物は厭うべきだと言い、自分でもそう思うのに、――それなのに。愚かだと、思う。あたしはやっぱり、どこかおかしいのかもしれない。アルガスに嫌われるのが怖かった。それでも、嘘はつけなかった。どうしても。


「死んでなくて嬉しい。ファーナに会いたい。会いた、い」

「全然おかしくない」


 アルガスがしゃがみこんだ。膝に伏せた舞の頭を、アルガスの大きな手が撫でた。幼い子どもにするようなしぐさだった。


「ただの魔物じゃない。あなたの恩人で、あなたを愛して、慈しんだファーナだ。会いたいのは当然だ」


 ――どうしてこの人は、いつも、あたしが一番欲しい言葉をくれるのだろう。

 信じられないような気持ちだった。

 ――こんなに甘やかされていいんだろうか。アルガスはあたしのものじゃないのに。この人抜きで、生きていけなくなったらどうしよう?


「……うぅ、」

「やはり、呼べばよかったな」


 舞は顔を伏せたまま、首を振った。ファーナが、狂うからやめてくれと言ったのなら、それは会うべきではないのだ。ファーナは狂っていった。舞と過ごすうちに、少しずつ。クレインと同じように。多分舞に会ったなら、ファーナはまた狂うのだ。どうしてだか、わからないけれど。


 わからないけれど、でもあれは、きっと、ファーナには不本意なことだった。


 手巾を顔に押し当てて、しゃくり上げながら、左手を出すと、そこに角が乗せられた。思ったよりも軽かった。中は空洞だった。握り締めるととんがった部分が手のひらに当たってこそばゆい。


 しばらく、ふたりは無言だった。アルガスは黙って頭を撫でてくれていた。それが終わってしまうのが惜しくて、なかなか口を開けられなかった。

 けれど次第に嗚咽も落ち着いた。永遠にこのままではいられない。舞は顔を上げた。辺りはもう本当に暗い。


「毛、触って、みた?」


 言ってみると、アルガスは驚いたようだった。


「……いや。触ってない」

「もったいない。気持ちいい、のに」

「そうか。惜しいことをしたな」


 舞は笑った。しゃくり上げる余韻と重なってむせそうになった。呼吸を整えて、手巾で顔の大半を隠したまま、目だけを出してアルガスを見た。


「……ありがとう」


 アルガスは微笑んだ。どうしてこんなに優しく笑うのだろうと舞は思った。どういたしまして、とアルガスは言い、立ち上がった。


「もうすぐ夕食だが」

「ん……」

「持って来ようか」

「ううん。いい。もう少ししたら行く」

「そうか」


 アルガスは一瞬だけ、舞を確かめるようにみた。

 それから離れて行った。舞は角を手の中で捻くり回した。つるつるして、触り心地がよかった。エスティエルティナをぶら下げている革紐に、この角を取り付ける方策を考えよう、と思った。そうすれば、いつも、持ち歩いていられる。


 生きていたのだ。ファーナは。

 死んだわけでは、なかったのだ。


 アルガスが今、なぜこの時に、ファーナの角を渡してくれたのか、舞にはよくわかっていた。その心遣いが嬉しかった。



    *



 結局話はよく聞こえなかった。魔物、とか、死んでなかった、とか、聞こえたような気がするが、はっきりとはわからない。ただ姫が泣き出して、アルガスがしゃがみこんで、よしよし、というようにその頭を撫でたのは見えた。年頃の男女というよりも、五歳やそこらの子ども同士のようなしぐさだった。それからアルガスが、姫に何かを渡した。何をかは、わからなかった。


 姫が泣きながら笑うのがかすかに聞こえて、ほっとした。何を言ったかはわからないが、姫にとっては嬉しいこと、だったの、だろう。けれど、


 何やってんだろ、俺……


 アルガスが、たき火の方へ戻って行くのをみて、我に返ってげんなりした。盗み聞きの上に覗き見なんて最低ではないだろうか。母に知られたら盛大に嘆かれるに違いない。バーサには絶対言えない。すごすごと薪を集めて、馬車を遠巻きにするように戻ろうとすると、唐突に背後からがしっと首に腕を回されて口をふさがれた。そのままずるずると物陰に引きずり込まれて、耳元で、フェリスタの声が聞こえた。


「……何の話してた?」


 ひいいいいい、とニコルは思った。


「な、何の話って?」

「とぼけんじゃねえよ。さあ吐け。吐きやがれ」


 ばらばらばらと薪が落ちた。


「聞こえなかっ、」

「いい度胸だなあ、くそ坊主」


 ぎりぎりと首を締め上げられてニコルは必死で声を上げた。


「ほ、本当なんですっ、本当に、全然、聞こえなかったんで、」

「それでもなんか少しくらいは聞こえたろうよ、ああ?」

「本当なんですううう――!」


 盗み聞きなどやはりするべきではない。悪事の代償は思いがけない形で支払うことになるよ、だからお天道様に顔向けできないようなことは、絶対しちゃいけないんだよ、と教えた母は正しかった。

 そしてフェリスタにはやはり近寄らない方が良さそうだ。本当に、このままでは、エスメラルダへ戻るまで身がもたない。


 それでも漏れ聞こえた、魔物、という不穏な単語についてはフェリスタの執拗な追求にも負けずに沈黙を通した。それはニコルの感性では、最低限の礼儀だった。

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