間話5-9 エルギン=スメルダ・アナカルシス(9)
目立つからと言った割に、やって来たのはエルヴェントラひとりではなかった。カーディス王子も一緒だった。しかも神官兵もつれずに来た。随分気さくな王子様だなあとビアンカは感心した。こういうところも、エルギンとよく似ている。
「兄上が残念がってましたよ」
あいさつを済ませて座ると、カーディスは屈託ない口調で言って、にこにこした。
「マーシャのおやつを諦めるのは人生の損失だそうです。僕が代わりにたっぷり食べてあげようと思って、呼ばれてないのにやって来ました。お邪魔じゃないといいんですが」
「とんでもないわ。大歓迎よ」
ニーナはにっこりして、カーディスの目の前に座った。そしてしげしげとその顔を見て、さらににっこりした。
「舞から聞いてたとおりだわ。とっても気さくでこだわらない王子様だって」
「気さくでこだわらない王女様も、エスメラルダにはふたりもいますね」
カーディスはやり返して、笑った。その笑顔を見て、ビアンカはさらにこの王子様に親近感を覚えた。アンヌ様の息子。なるほど、本当にそんな感じだ。顔立ちばかりでなく、人に対する距離の取り方も、気遣いの仕方も、アンヌ様に良く似ている。
「アイオリーナも似たようなものです。姫とすっかり仲良くなったんじゃないかな。もうじきエスメラルダに到着するそうですから、よろしくお願いします」
「楽しみだわ」
「……それで、話とは?」
ずっと沈黙していたエルヴェントラがそう言った。疲労がたまっているらしく、やつれて目の下に隈ができていた。たぶんほとんど寝てもいないのだろう。ニーナもその言葉を聞いて、居住まいを正した。
「ごめんなさい。疲れてるみたいね」
「仕方ないことだ。全部終わったら泥のように寝る」
「それがいいわ。――あのね、」
ニーナはそして、オーレリアが考えたことをすべて、ふたりの前で要領よく話した。話すうちにエルヴェントラの背筋が伸びて、表情もはっきりしてくるようだった。その間にマーシャが、さりげなくみんなの前に菓子と茶を配っていた。今日のおやつはふんわりした苺の冷菓子だった。聞き終えて、カーディスは、冷菓子を一口食べた。感に堪えないという顔をした。
「ほんとに、こういうお茶を諦めるのは人生の損失ですね。マーシャ、とってもおいしいです。どうもありがとう。そのヘスタという人物は非常に怪しいと僕も思います。ただ、僕は【アスタ】には全く関係がないんです。昔母の召使いだったイルジットが【アスタ】に行ったということくらいは知ってますが――それもガスから聞いて知ったくらいなんです。ガスが知ってる以上のことは僕も知りません。だからコルネリウスという名に聞き覚えがあるのは、【アスタ】がらみだからじゃないと思うな」
「私も聞き覚えがあるような気がするんだ。コルネリウス……」
エルヴェントラは茶を飲んで顔をしかめた。
「だが思い出せない。少なくとも頻繁に聞いた名前じゃない。どこかで目にしたか、人づてに聞いたか、その程度だ」
「僕もその程度なんです。マーセラ神殿に関わるのかな。でもそれならエルヴェントラがご存じのはずはないですね。ニーナ姫は、」
「ニーナよ」
「……ニーナは、聞き覚えないですか?」
「ないわ。舞も知らないと思う。ビアンカも知らないって」
エルヴェントラはため息をついて、菓子に手を伸ばした。一口食べて、瞬きをした。美味しいのだろう。それからしばらく一心不乱に食べて、食べ終えるとため息をついた。それはさっきとは全く違うため息だった。カーディスのようにマーシャに礼を言ったりはしないのだなあと思いつつマーシャを見ると、マーシャは嬉しそうな顔をしていて、ビアンカと目があうと片目をつぶって見せた。わかってるから大丈夫、と言ってるようだ。
「……とにかく」
エルヴェントラは咳払いをした。
「ヘスタについて調べよう。【アスタ】のロギオン=ジルベルトの秘書だったというから、詳細な身元証明などは提出を求めなかった。不覚だ」
「ビアンカがデリクを締め上げるそうよ」
ニーナが促すように言い、ビアンカは頷いた。
「【アスタ】内にヘスタのような人が混じっていたなんて、【アスタ】の名折れだもの」
「そうか」
エルヴェントラはビアンカを見た。その視線が少し感心してくれているように見えて、ビアンカは嬉しくなった。カーディスがマーシャにお茶のお代わりを注いでもらいながら言った。
「……ありがとう、マーシャ。そもそもヘスタがどうやって【アスタ】内に入り込んだか、疑問ですね。【アスタ】では少なくとも身分証明や身元の照会などはちゃんとしたはずですよ。マーセラ神殿や王に関する過去が少しでもあれば――」
呼び鈴が玄関で鳴らされて、マーシャが応対に出て行った。カーディスが続けた。
「あれば、【アスタ】の中に、特に代表の秘書なんて位置に入り込めたわけがない。だとすれば入った時には何の関係もなかったのに、途中で寝返ったのか? それとも――」
マーシャが慌てて戻って来た。マーシャが慌てるところなんか初めて見た、とビアンカは思った。
「噂をすれば、ですよ。デリクが来ました。ひとりで。ビアンカ様がお戻りになったと聞いて、夕方まで待てなかったそうですよ」
「好都合じゃないの」
オーレリアが愉悦の滴りそうな声音で言った。
「ここで一緒にお茶を飲んでもらいましょうよ。ふふ、楽しみだわあ……」
そして彼女は立ち上がった。デクターもだ。ふたりは黙って入り口の両脇に陣取った。ビアンカはドキドキした。マーシャがデリクを案内してやってくる音が聞こえた。
「ちょうどこちらでお茶を飲んでいらっしゃいますので――」
「……随分大勢なんだな。邪魔じゃねえのか?」
デリクは入る前に中の状況に気づいたらしい。マーシャが大丈夫です、と請け合って、扉を開いた。扉の正面にデリクが立っていた。彼は面食らった顔をしていた。一体どうしてこのような歓迎を受けるのかさっぱりわけがわからないといった表情で、ビアンカはひとまず安堵した。もしデリクもヘスタの仲間だったなら、つまり後ろ暗いところがあるなら、ここでこんな顔はしないのではないだろうか。
「入んなさいよ、デリク」
オーレリアが言い、デリクはまず、ビアンカを見て安堵した顔をした。それから部屋の中にいる人間をひとりひとり見ていった。エルヴェントラを見たときにははっきりと嫌そうな顔をした。アルガスを見捨てようとしたことで、本気で怒っていたというから、まだそれを忘れてはいないのだろう。最後にオーレリアとデクターを見て、観念したように両手を上げた。
「剣を渡した方が良さそうな雰囲気だな?」
「それには及ばないわ。ただビアンカが、聞きたいことがあるんですって。まずは座んなさいよ、【最初の娘】とエルヴェントラとマーセラ神殿の大神官とクロウディアの嫡子のお茶会に招かれるなんて、栄誉なことよ。流れ者には価値のないことだけどね」
「ようこそ、デリク。どうぞ座って」
ニーナが優雅な手つきで椅子を勧めた。デリクはわけがわからない様子ながらも、別段緊張する様子もなく、示された椅子に座った。ビアンカの正面だ。デリクの左にカーディス王子、右にエルヴェントラ、背後にはデクターとオーレリアが立っている。デリクはまじまじとビアンカを見た。それから、少し哀しげな顔をした。ビアンカは胸が痛むのを感じた。デリクにこんな顔をさせたいわけではないのに。
「……無事に務めを果たしたんだってな。あの小さかったのが、立派に育ったもんだ。俺はお前を誇りに思うぜ、ビアンカ」
「ありがとう、デリク」
マーシャがデリクにお茶と冷菓子を出した。デリクは会釈をしたが、手をつけなかった。
「……で、聞きてえことってのは?」
「ヘスタのことよ。ある事情があって、ヘスタのことを知りたいの」
ゆっくりと言いながら、ビアンカはデリクの表情を確かめていた。デリクは驚いたようだった――どうしてヘスタのことをビアンカが、そしてここにいる全員が、知りたがるのか、本当に分からないようだった。
「ヘスタを【アスタ】に入れたのは誰なの? イルジットも全然知らないって言ってたわ。ロギオンがつれて来たの? どういう事情があって、ヘスタは【アスタ】に入ったの?」
デリクは、ゆっくりと答えた。
「ヘスタが自分で来たんだよ。【アスタ】ができてすぐだから、六年……七年前か?」
「身元調査とかはしたの?」
デリクは黙ってビアンカを見つめた。
それから、首を振った。
「……書類は整ってた。身分証や戸籍や、そんなもんは全てな」
「戸籍の発行元に照会は?」
とカーディスが言い、デリクはため息をついた。
「してねえ」
「なぜ?」
「申し訳ねえ。口止めされてるんだ」
「口止め? 誰に? ねえ、デリク、あたしが頼んでもだめ?」
ビアンカは身を乗り出し、デリクは、背もたれに背を預けた。そして長々と息を吐いた。
「ヘスタにだ。ああ……ビアンカ、お前の頼みじゃしょうがねえ。だが約束してくれねえか。多分かなりの理由があるんだろうな? その理由次第だが、できれば、姫には内密に」
「舞に?」
ニーナが訊ねる。デリクは頷いた。
「あの子が【アスタ】に来た時に、俺はひょんなことからあの子がその……ええ……ティファ・ルダの生き残りだって知ったんだ。それでヘスタにそう言った。ヘスタはもちろんもう知ってた、七年経っても面影は変わらねえらしいな、あの子は。それで、辛いことを思い出させることもねえだろうから、自分が生きてるってことはあの子には黙っていてくれって」
「……コルネリウス……!」
カーディスとエルヴェントラが同時に叫んだ。ビアンカもデリクもびくりとした。カーディスは机に手をついた。勢いがよすぎて、茶器がかちゃりと音を立てた。
「そうか、それで聞き覚えがあったんだ! コルネリウス、ジェイル、ケヴィン、ドーリッシュ、それからファルジェリオ=ルジヘスタ!」
「それがヘスタの本名だ。なあ頼むよ、ビアンカ、姫はヘスタを覚えてなかった。いまさら知ったって意味ねえこった。黙っておけるもんなら黙っておいてやってくれ。――だから、身元の照会はできなかった。戸籍簿と埋葬録を照らし合わせてみたら、確かにファルジェリオ=ルジヘスタって男の遺体が見つからなかったってわかったしよ、ティファ・ルダの人間なら王に対抗する組織で――」
エルヴェントラが静かに遮った。
「姫が覚えてないのは当然だ。ヘスタとファルジェリオ=ルジヘスタは別人だろうからな」
デリクが目を見開いた。
「……別人だと?」
「先代が姫に聞いたはずだ。もしかしたら五人の人間が生きてるかもしれないが、捜してみるか、と。生きていて名乗り出ればエスメラルダで匿うこともできると。姫は答えたはずだ。それには及ばない。あの虐殺で自分以外の人間がひとりでも生きのびているはずがない、ということは、わかっているから、と」
デリクはまじまじとエルヴェントラをみていた。本当に驚いている。ビアンカの胸がさらに痛んだ。本当に知らなかったのだとしたら、多分そうだと思うが、デリクはどんなに傷つくだろう。
「生きていられるような状況じゃなかった。たとえ近隣の町へ逃げ込んだとしても、王の兵士たちの追討は執拗を極めた。ああした以上、ひとりだとて逃すことはできなかっただろうから当然だ。ムーサというマーセラの神官が、戸籍を引っ繰り返すようにして、あの後半年近くもしらみつぶしに捜し回ったというからな。あの時外出していて虐殺を免れた者たちもその後の追討で捕らえられて殺された。十二歳の、紋章を持たない少女でさえ二月も追い回した。姫はかなりの僥倖と運に助けられてやっと一人だけ助かったんだ。戦える男が、しかも五人も、生きていられたはずがない。先代も筋を通すために訊ねただけで、本気でティファ・ルダに他に生き残りがいるなどと、思ってはいなかっただろう」
「……それじゃあ……」
「成り済ましたのね。エルティナさえ生きていなければ、王は最近までそう思ってたんでしょうけど、その正体を見破ることのできる人間は誰もいない。ジルベルトもイルジットも、そしてデリク、あんたも。騙されたって仕方がない」
「ヘスタは舞が邪魔でしょうがないでしょうね」とニーナが呟いた。「もしかしたらファルジェリオ=ルジヘスタと面識があったかもしれないもの。ああ、それなら、通信舎に忍び込んで記録を見て、行き先を調べるくらい、やりそうだわ」
「行き先、調べてどうするつもりなんだろうな。……やっぱり仲間が」
「あと四人はいると思っておいた方がいいんじゃないですか。エルヴェントラ、無駄でしょうが、最近国境を通った人間の中に、ケヴィン、ドーリッシュ、といった名前がないかどうか、調べた方が」
「そうしましょう」
周囲のみんなが口々に言う中、ビアンカはずっと黙ってデリクを見ていた。デリクも黙っていた。ずっと無言だった。ただその瞳には理解の色があった。七年近いヘスタとの歳月を思い返して、何か、思い至ることがあったのかもしれない。ビアンカの視線を避けるようにデリクはいつしか俯いて、机を睨んでいた。
「デリク、」
たまらなくなって声をかけると、デリクはビアンカを見た。
「ビアンカ。ヘスタは、ロギオンも――」
「当然だわ」
ビアンカは呻いた。記憶がよみがえっていた。姫が出かける寸前、シルヴィアとビアンカにヒリエッタのことを訊ねた時だ。ヒリエッタが【アスタ】に来たのはいつ? と姫は言った。あなたがくる二日前、と答えたら、彼女は意外なことを聞いた、というように椅子に座って、じゃあやっぱり違うのかな、考え過ぎかな、と――
「ヒリエッタが【アスタ】に来たのは姫がくる二日前。だからヒリエッタにはアンヌ様と姫があの時会う、って情報をつかんで兵士を呼べたはずがないの。あの夜を選んで兵士が来たのは、デリク、誰かが呼んだからでしょう? ヘスタなら呼べたわ。あたしよりずっと先に、デリク、あなたよりも先に、【最後の娘】が【花】を支える【大地】、アンヌ様に、会いに来るって、知ってた――はずよ」
声が震えた。目の奥が痛んだ。あの夜のことが、頭の奥に押し込めていた記憶が、今ここに押し寄せた。自分の名前でロギオンを逮捕させてしまうと知りながらなす術もなかった悔しさや、ロギオンにずっと……デリクやアンヌ様に、イルジットに、騙されていたことや。姫に抱き締めてもらったことや、シルヴィアに、泣いていいのよ、と言われたことも。目の前にあの暗い森さえ見える気がした。あんなことが起こっているというのに、夜の森はやけに静かだった。怒りと悲しみに翻弄されそうになりながら、それでも、ビアンカは立ち上がった。デリクを見据えて、言った。
「デリク。ヘスタを捕まえたいの。手伝ってくれるでしょう?」
「……もちろんだ。だが、ビアンカ、俺を信じてくれるのか?」
「当然だわ。あなたがヘスタの仲間だなんて、もしあなたが言ったとしたって、あたしは絶対信じない。さっきはちょっと疑ったの、ごめんなさい、デリク。でも今はもう大丈夫よ。あなたがあたしの名前を使ってロギオンを逮捕させるなんてことに、加担してたなんて信じない。ロギオンのためにならないことを、一度でもしたなんて信じない。ヘスタのことはあまり好きじゃないの、でもあたしは、あなたが大好きなのよ、デリク。あなたを信じてる。だから大丈夫。デリク、あたしを手伝って。ヘスタは【アスタ】の名を隠れみのにしてエスメラルダに入り込んだのよ。あたしたちの手で捕まえなきゃ」
「ビアンカ、」
デリクは言って、周囲を見回すようにした。お前はよくても他のが、と言いたいらしい。ビアンカはため息をつき、立ったまま、エルヴェントラを、カーディス王子を、それからニーナを見た。
「デリクの身の上はこのビアンカ=クロウディアが保証します。今しばらく、デリクのことはあたしに任せていただきます」
「了解した」
エルヴェントラが言い、カーディスがうなずき、ニーナはビアンカの目を捕らえてにっこりした。
「わかったわ、ビアンカ」
「……ありがてえ」
デリクの声は静かだった。ビアンカは頷いて、机を回ってデリクの隣へ行き、その暖かな手を握った。
「でもすぐじゃないの、デリク。姫がまだ王宮から出てないかもしれないし、ヘスタがひとりじゃなかったとしたら、姫の危険が増すんだそうなの。だから、姫の手紙が届いて、王宮から出たってわかるまで待ってね。わかったらすぐ捕まえましょう。だからそれまでここでの話はなかったことに」
「……そうか。どんくれえ待てばいいんだろうな」
「それはわからないけど、でも、近いうちだと思うわ。それまで演技しなきゃいけないわよ。できるでしょ? そして、毎日あたしに会いに来てね」
「今までどおりにな?」
「そうよ」
「――ヘスタに会ったらすぐ殴り掛かりそうな気分だが、まあ、お前の信頼に応えなきゃな。大丈夫、演技くれえわけねえよ」
「よろしくね」
デリクは、ニヤリと笑った。その表情に、いつものふてぶてしさが戻って来た。お茶をガブリと飲んで、立ち上がった。
「あんまり長居すんのもまずいだろうからそろそろ戻るぜ。じゃあな、ビアンカ、姫から手紙が届いたらすぐ呼べよ」
「もちろんよ」
デリクは同席の人間にひとりひとり挨拶して――エルヴェントラにも目礼だけはした――部屋を出て行った。ビアンカは送って行った。オーレリアは今度はついて来なかった。デリクは玄関までは無言で、最後にビアンカを振り返った。
「本当に大きくなったな、ビアンカ。俺があと二十も若けりゃ惚れてるとこだ」
「わ」
ビアンカは赤くなった。誰かにそんなことを言われたのは初めてだ。
「オーレリアのそばを離れんなよ。いいか、ビアンカ。俺の名はデリクだ。覚えておけ――全部落ち着いたらふたりまとめて元締めんとこつれてかなきゃな」
「元締め? って?」
「流れ者の親玉みてえな人間だ。そいつんとこ連れてくってことはな、こいつの後ろ盾になってんのは俺だから、手え出すなら相応の覚悟をしろよって、全国の流れ者の前で宣言するってことなのさ。俺はロギオンにしか言ったことなかった。こんな短期間にふたりの、しかも若い娘に言うことになるとはな」
デリクはビアンカの頭に手を乗せて、わしわしとかき回した。わわ、と声を上げると、デリクは笑った。
「ヘスタをふん捕まえてロギオンの墓ん前に引きずってくのが楽しみだな」
「……そうね」
ビアンカは微笑んだ。じゃな、と手を上げて、デリクは歩いて行った。その背が見えなくなるまで見送ってから、ビアンカは客間に戻った。まだ先程の余韻が残っていて、足元がふわふわしている。
戻ると、デリクの残していった冷菓子を巡って、カーディスとエルヴェントラがひそやかな攻防を繰り広げていた。冷菓子はいつの間にか二人の間に移動していて、ふたりは匙を構えて目を冷菓子に注ぎながら、当たり障りのない会話を続けていた。
「姫からの手紙ですが、いつぐらいに届くでしょうね?」
「そうですね、あの子はそういう点は几帳面ですから、王宮を出たらすぐにでも出すと思いますが、鳩が手に入るかどうかが問題ですね」
「ヘスタの動向をさりげなく見張った方がいいですね」
「デリクがすぐそばにいますからね。何かあれば知らせてくれるでしょう」
そんな会話をしながら、お互いがお互いの隙を探っていた。もし相手が少しでも冷菓子から目をそらしたらすぐにでも匙を突き刺そうと虎視眈々と狙っているのが明らかに分かる。ニーナは笑いをこらえており、デクターは呆れており、オーレリアはビアンカに耳打ちしてきた。
「男はいくつになっても子どもみたいって、本当だわねえ。エルヴェントラも結構いい男だわあ、そう思わない、ビアンカ?」
いや、同意を求められましても。
結局その熾烈な争いは、マーシャが全員分の冷菓子のお代わりを持ってきたことで円満な解決をみた。ビアンカもその冷たくてつるんとした甘い冷菓子を再び食べながら、なんだか平和だなあ、と思った。
姫から早く手紙がくればいいと思っている。でも来るのが怖いような気もする。行動を起こすのが怖い。起こしたらもう後戻りはできない。
でも多分、その時がきたら自分もデリクもためらわないだろう、と思う。そしてためらってはいけないのだろう。自分の行動で誰かの人生に決定的な影響を及ぼすということは、とても怖いことだけれど。でも、やらなければならないのだ。
責任を取るということは、そういうことよ。
オーレリアの言葉を思い返しながら、冷菓子を食べた。つるんとして、本当に美味しかった。




