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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第二章 アスタ
13/251

アスタ(4)

   *


 ふと、意識が浮上した。


 ぽかんと目が覚めて、舞はしばらくじっとして、自分の鼓動を聞いていた。粗末な枕の隣に黒々と丸い影がうずくまっている。その体がゆっくり上下しているのを見つめて、眠りが再び訪れるのをしばらくの間待っていた。


 疲れているはずだ。お腹もすいてない。用を足したい気分でもない。ぬくぬくしてとてもいい気持ちだ。それなのにどうして、眠りは戻ってこないのだろう。


 小屋の中は静かだった。


 娘たちのひそやかな寝息が闇を満たしている。舞は目を閉じ、――そして開いた。そっと起き上がり、手探りで下着を身につけ、寝台のわきに置いた靴を探った。


 嫌な感じだ。感覚が鋭く冴えて、胸元の小さな剣がやけに存在を主張する。ぴりぴりと頬が引きつるような、ちりちりと首筋の毛が逆立つような不快な感触。


「何だろう」


 呟いて靴を履き、上着を引っかけて、シルヴィアを見る。しばし迷ったが、目を覚ます気配はないし、暗闇ではきっと何も見えなくて心細いだろう。起こさずにおくことにして、扉に向かった。

 開くと夜気が静かに滑り込み、外の涼しさに驚いた。狭い小屋に眠る五人の体温だけで、外と中ではこんなに温度が違う。上着をきちんと着込んでから夜気の中に滑り出る。体にわずかに残っていた痺れるような眠気の残滓が、夜気に洗われて消えていく。

 時間は真夜中を少々過ぎた辺りだろうか。

 見上げると月が出ていた。舞は顔をしかめた。月夜だ。


 ――月夜は苦手だ。


 だからだろうか。何か不吉なものが近づいてきているような気がしてたまらないのは。


 月は銀も青も充分にふくらんで、そろそろ双満月が近いようだ。森に囲まれた【アスタ】は二色のふたつの月に照らされて、しんと寝静まっているようにも思えたが、舞の感覚を逆撫でした不穏な気配は、確かに森の向こうに満ちていた。どちらへ行くべきか、一瞬迷った。アンヌ王妃は夜には着く、とビアンカが言っていた。今は王妃の身を守るのが最優先だけれど、いるとしたらどこだろう。ロギオン=ジルベルトの小屋の近くだろうか。


 ――どっち……だっけ。

「……ええと」


 なんということだ。舞は眉根をよせた。

 なんということだ。

 道が分からない。


「……間抜けすぎる」


 仕方なく舞は不穏な気配の方へ向かって歩き出す。多分誰かがいるだろう。いてくれますように、と祈るような気持ちで、夜露と月光に濡れた小径を歩いていく。

 道は下りだ。頭上を見ないで済むように、舞は足下を注視した。


 ――月夜は苦手だ。


 以前は、月を見るのが恐ろしかった。夜のお使いも夜目の訓練も、夜のお祭りでさえ恐怖でしかなかった。初めの夜のことを思い出して。泣いても叫んでも叩いても動かない絵里香ちゃんを抱いて途方に暮れた、九歳だったあの夜を。

 でも、今はもっと、月夜が苦手だ。

 あの声が耳に甦るから。その喪失を、思い知るから。


「――どうしたの、マイ」


 優しい声。温かくて穏やかで、胸に染みるような声。大好きな大好きなローラの声。記憶に過ぎないとわかっているのに、ローラの声は月夜になると何度でも舞に囁く。


「どうしたの? マイ。震えてるの? そんなに縮こまって……ああ、もしかして」


 ローラはいない。ローラは死んだ。殺されたのだ。わかっている。覚えている。

 それなのに。


「二つの月を見るのが怖いのね? ――ごめんなさい、当然だわよね。思い至らなかったわ。あたしとしたことが」


 わかっているのに。覚えているのに。何度も何度も思い知っているのに、それでも舞は、その声を辿って振り向かないではいられない。今回も舞は振り返り、ここがティファ・ルダではなくローラの姿もどこにもないことを、また思い知った。


 ――言って良かったのよ、マイ。二つの月が怖いのは、あなたが異端だからじゃないわ。

 ――そんなことでこのあたしが、あなたを嫌いになるとでも思ったの?


 あの人はもういない。もう二度と会えない。そう、わかっている。

 声は聞こえても、実際に聞こえているわけじゃない。姿を見ることも出来ない。幽霊になって出てきてくれるなら本当に嬉しいのに、そんなことが起こった試しもない。


 今はもう怖くはないけれど、でもやっぱり月夜は苦手だ。

 舞の恐怖を受け入れて溶かしてくれたあの人の喪失を、もう二度と会えないのだと言うことを、何度も何度も思い知るから。




 粗末な小屋の建ち並ぶくねくねした細い道を下っていく内に、いつしか、【アスタ】のはずれまでやってきていたようだった。


 人の話し声が聞こえてきて、舞は足を速めた。ここには起きている人の気配が満ちていた。前方に人が幾人か集まっているのが感じられた。低い声で囁き交わされているのは全て男の声だ。舞は耳を澄まして、やはり聞こえたあの声の方へ歩を進めた。たぶんここに集まっているのは今【アスタ】にいる用心棒たちなのだろう。程なくアルガスの背中が見えてくる。


 彼らは並んで下を見下ろしているようだった。


 【アスタ】は山の斜面にある集落だ。ここは【アスタ】のはずれ、麓からの入り口に当たる部分だ。何を見下ろしているのだろう。麓から誰かが上ってくるのだろうか、

 と。

 舞は麓の方から吹き上げる人の気配を感じ取った。

 まだ遠い。でも大勢だ。着実に山を登ってくる。

 アルガスが振り返った。


「気づいたか」

「あれは何?」


 訊ねるとアルガスと、隣にいた男が隙間を空けてくれた。二人の間から覗き込むと、山の斜面を覆う森の隙間からちらちらと橙色の光が漏れていた。舞は瞬きをした。松明の明かりだ。


「ずいぶん多いね」


 呟くとアルガスが頷いた。


「二百はいるな」

「グウェリン、【アスタ】へ来るときに気づかなかったか」


 舞の隣の男が言った。しわがれた声で、かなり年上らしい。酒の香りがかすかにしたが、声はしっかりしている。アルガスは首を振って、


「リヴェルを通らないで来たので。気づかなかった」

「そうか。通ってたら足止めされてたかもな」


 リヴェルは【アスタ】に一番近い麓の村だ。舞は隣の男を見上げた。


「アンヌ王妃は?」

「もう着いた。……そうだな。王妃がリヴェルを通らずに来るはずないな」

「わざと通した?」

「かもな。やばい感じがするぜ」

「リヴェルにあいつらが潜んでいたなら、ヴェガスタが見逃すはずがない」


 と言ったのはアルガスだ。隣の男は首を振った。


「今回のお供はヴェグじゃなかったんだよ。ヴェグもフィグも急用で出払ってるとかで、護衛は新米らしかったからな、リヴェルに潜んでたあいつらを見落とした可能性はある」


 ――ヴェガスタと……フィガスタ。


 舞は黙ってその名を繰り返した。アンヌ王妃にいつも影のように付き従う、草原の民出身の護衛の名前だ。ヴェガスタは大柄な粗野な男で、フィガスタは細身の優男だと聞いている。

 でも舞にはもっと詳しい知識があった。実際に会ったことはないが、その風貌を思い浮かべられるくらいには知っている。


「お嬢ちゃん、名は」


 隣の男に訊ねられて、舞は一瞬迷った。


「――エルティナ」

「そうかエルティナ。俺はデリクだ。奴らがここに来る前に、【アスタ】中の人間を起こす必要がある。娘たちの方を頼めるか」

「わかりました」

「奴らが来ても、刃を交えたりするな。これは絶対だ、頼むぜ。【アスタ】の何百人って人間を無事に逃がすのが先だ。ビアンカとイルジットをまず起こして事情を話し、娘たちの先導を頼め。あの二人はどうすりゃいいかよく知ってるからな」

「はい」

「待て。一騎だけ来た」


 アルガスが言い、再び斜面に視線を向けると、確かに松明がひとつ群れを離れて、速度を増して動き始めていた。木々の間を縫うように駆け上がってくる馬蹄の響きもかすかに聞こえる。


「ありがてえ。話をする気は一応あるようだ。エルティナ、さっきのは一時撤回だ。状況がわかってからにしよう」

「はい」


 デリクが動いた。どうやらここの用心棒のまとめ役らしい。夜露に濡れた下生えを踏みしめて進み、【アスタ】の入り口に出て、上がって来る一騎を待ち受ける。


 来たときにも思ったのだが、【アスタ】という場所は、王に対抗する組織でありながら、驚くほどに無防備なところだ。今松明を掲げた一騎がやってくる道は、デリクの立つ【アスタ】の入り口に続いているのだが、そこには門と呼べるようなものはない。通り道を照らす篝火が両脇に備えられているだけだ。


 舞とアルガスは篝火の明かりから外れた場所でデリクを見守った。さっき別の場所にいた人たちも集まってきている。一騎が来るまでまだ間がある。舞はアルガスに訊ねた。


「ここには……兵は?」

「いない。戦えるのは俺たち用心棒、それから【契約の民】だけだ。用心棒で今滞在してるのは、デリクと俺とあと二人。【契約の民】で風や火と契約してるのは……二十人足らずというところか」

「今は十八人だ」デリクが受けた。「デクターが早いとこ着いてくれりゃいいんだがな。王は【契約の民】が危険だと吹聴するが、実際は水が圧倒的に多いんだ。確かに普通に生活しようとするなら、水が一番便利だしな」

「【アスタ】は自分を護る気がないんですか?」

「ねえんだそれが。【アスタ】はあくまで逃げてきた人に場所を提供するだけだ。今まではそれで問題なかった。何しろ後ろ盾が後ろ盾だからな。てか、逆に兵を集めたりするのは危険なんだ。柵や門がないのも同じ理由だが、アンヌ王妃が後ろ盾になっているのに、兵を集めちゃまずいだろう」

「……確かに」


 話す内に馬蹄の音はどんどん迫ってきていた。

 馬の鼻息も松明の爆ぜる音も、そして松明の明かりもすぐ傍にまで近づいてきている。デリクが声を上げた。朗々とした声だった。


「止まれ! このような夜更けに一体何の用があって村人の眠りを妨げるか!」


 馬蹄の響きがゆるんだ。でも止まらない。馬上の人物が怒鳴った。


「マーセラ神殿の使者だ! 道を空けろ!」

「マーセラ神殿だと……!?」


 思いも寄らない言葉にその場にいた全員が虚をつかれた。

 マーセラ神は現在では世界を創世した最高神として崇められている女神だ。エリオット王の庇護を受けてはいるが、国中に信仰を行き渡らせるにつれて、現在では以前のように盲目的に王を支持することはなくなっている。てっきり王の軍勢が来たのだと思いこんでいた全員が顔を見合わせる間に、使者はすぐ傍にまでやってきていた。速度はずいぶん緩み、馬蹄の響きは落ち着いている。

 デリクがやや口調を改めた。


「国民の信仰を普く集める女神の御手が、このような夜更けに一体何用があって来られたか」

「ロギオン=ジルベルトへ出頭命令が出ている」


 デリクの前で、馬が止まった。使者はマーセラ神の威光を盾に押し通るか、一瞬迷ったようだったが、結局はデリクが自分から道を空けるのを待つことにしたようだった。しかし馬から下りはしなかった。松明に照らされた使者は、ひどく尊大な顔つきをしていた。

 デリクが言う。


「ここがどこだかおわかりになっておられよう。今夜は貴人も滞在しておられる。出頭命令と言われるが、明日改めて」

「それでは遅い!」

「貴人が滞在しておられる」

「もう聞いた。くどい」

「どなたかおわかりになってのお言葉か!」


 デリクが一喝した。使者は一瞬だけ鼻白んだが、尊大な表情は消えなかった。


「今宵【アスタ】にはどんな貴婦人も滞在しておられないはずだ。そなたの思い違いであろう」

「何だと……?」

「大神官の補佐官を務められるアンティノス=ムーサ様が、恐れ多くも直々にロギオン=ジルベルトを取り調べるため、リヴェルにてお待ちだ。出てこぬと言うなら無理にでも引っ立てるが」


 舞はアルガスを振り返った。ムーサ、と言う名を聞いたとき、一瞬身じろぎをしたような気がした。しかしアルガスはこちらに視線を向けもしなかった。平静な面持ちで、デリクと使者の対峙を見守っている。


「何かの間違いではないのか……」


 デリクが呟いて、舞は視線をそちらに戻した。デリクの疑問はよくわかった。マーセラ神殿の最高位である大神官は、現在は弱冠十八歳の若者が勤めている。カーディス=イェーラ・アナカルシスという名のその人は、エリオット王の次男で、第二王位継承者で、アンヌ王妃の実の息子だ。

 カーディス王子が、なぜ、実母が後ろ盾となるこの【アスタ】に、多数の兵を差し向けなければならないのか。


「使者殿」


 デリクの声音がさらに変わった。おもねるように。


「詳しい事情をお聞かせいただけないか。我々にはなぜマーセラ神殿が我らが村長を連行せねばならぬのかさっぱりわからん。それに我らが村長をまるで罪人のように呼ばれる理由もわからん。理解していただきたいのだが、既に寝ている村長を起こすには、それ相応の理由が必要で」

「ならば先に言おう。かつてウルクディア、リヴェル、そしてここ【アスタ】も含むこの辺り一帯を治めていたクロウディア家のことは知っているか」

「……」一瞬間が開いた。「ああ」

「クロウディア家が没落した理由は?」

「……ああ」

「ロギオン=ジルベルトにはフランシス=クロウディア伯爵を罠にはめ、利子を不当に操作して伯爵に多額な借財を背負わせ、家財はもちろん広大な領地まで全て失わせた悪逆非道な高利貸しであったとの嫌疑がかけられている。心労で亡くなられた伯爵、すぐに後を追われた奥方、そして跡継ぎであられたビアンカ=クロウディア姫の無念はいかばかりか。ビアンカ姫はわずか七歳であられたのに。既に亡いかの姫の恨みを晴らすべく、マーセラ神殿が姫の代わりにロギオン=ジルベルトを」


 使者の口上をしまいまで聞かず、舞もアルガスも身を翻した。デリクが使者から目をそらさず、指先だけで合図を送ってきたからだ。二人は気配を殺して足音も消して暗い森の中を通り抜け、同時に月光に照らされた小径に飛び出した。背後の不穏な空気が遠ざかり、二人とも走り始める。


「アンヌ王妃は」


 訊ねるとすぐに答えが返ってきた。


「ロギオンの小屋の近くだ」

「じゃあそっちはお願い。あたしはビアンカに知らせる」

「しかし――」


 一瞬口ごもったようなので、舞は驚いてアルガスを見た。足は止めなかったが速度は落ちた。アルガスが振り返る。その表情を見て舞は思わず声を上げた。


「信憑性があるの!?」

「残念ながら。デリクは知っていたようだし、俺も違うところでだが、噂は聞いた。ビアンカ=クロウディア姫というのは、やはり、あのビアンカのことなのか」


 舞は答えず、唇を噛んだ。ロギオンに褒められたと知ったとき、ビアンカが見せた反応を思い返すと胸が痛んだ。ビアンカも黒髪だが、彼女がここへ来たのは、王が黒髪の娘を狩り始めるよりもずいぶん前だったようだ。それはロギオンの罪滅ぼしだったのだろうか。

 アルガスが言った。


「それでも今、知らせるのか」

「当たり前だ」


 再び足を速めながら舞は呻いた。


「こうなった以上遅かれ早かれわかることだもの。今ならまだ間に合う。ビアンカにはロギオンを問い質す権利がある」


 それに、あのビアンカのことだ。今夜の事態を、他の誰かから知らされるよりも、自らの目と耳で知りたいと思うに決まっている。どんなに傷ついても、そう思うはずだ。

 アルガスももう何も言わなかった。二人はそれから少しだけ、黙ったまま走り続けて、

 舞は言った。


「……あたしがいた小屋がどこか、知らないよね」

「知らない」

「……だよね」


 当たり前だ。知られていたらそっちの方が問題だ。


「もしかして」


 とアルガスが言う。舞は再び呻いた。


「言わないで」

「……いや。夜だしな。昨日来たばかりだし、仕方ないことだ」


 同情されてしまった……!

 心底情けなかった。周囲を見回すが、小道の両脇に立ち並ぶ小屋はどれも似た造りになっていて、認めたくはないが、多分昼でも迷うだろう。記憶を探る。さっき【アスタ】の外れまで行く間に、角を曲がった記憶はない。けれどいくつかの小道が合流していたのも確かだ。反対側から戻る際、違う小道に入り込んでしまう可能性は大いにある。いや自分のことだ、アルガスと別れたら、知らずに今来た道を逆走しかねない。


「ロギオンはこっちだが……」


 そういう道の一つを曲がりながらアルガスが言った。


「どうする?」

「……ビアンカを捜す」


 それでも舞は言った。ビアンカには借りがあるのだ。彼女の手助けがなかったら、同室の娘たちがシルヴィアをああも快く受け入れることはなかっただろう。放っておけるわけがない。


「大丈夫か」

「いざとなったらこの辺の小屋の人たたき起こして道を聞く」

「そうか。頑張れ」


 激励の言葉を残してアルガスが道を逸れて行く。

 一層落ち込みながら、舞は辺りを見回した。とにかく真っすぐ行こう。来る時には変に曲がったりしなかったはずなのだから。




 結論としてはその道は間違っていたのだが、今夜はついていた。しばらく進むと道は、さらに鬱蒼と暗い森に入り込んで行った。これは絶対違う道だと思った舞の目の前に、突然駆け出して来た人影がある。


 それは黒髪の娘だった。暗闇に慣れた目は、月光に照らされた、ぽっちゃりとした可愛らしい娘の姿を捉えた。長い黒髪はほどかれてうねうねとふくよかな体に垂れている。昼間にはきっと三つ編みにしていたのだろう。服は簡素な村娘のもので、首の鋲が外れて白い喉が、いや胸元までもが露になっていた。まろやかな胸のふくらみが露骨に目に飛び込んでくる。夜目にも白い肌が上気していて、舞は驚いた。道を探るのに夢中になっていて彼女の気配に気が付かなかったことに加え、彼女の目が潤んでいて、そして激しい憎悪の色を湛えて睨まれたからだ。


 誰かと喧嘩でもして、それで涙目なのだろうかと一瞬思った。

 でもすぐに違うと分かった。上気した肌、弾んだ呼吸、はだけた胸元、そしてこの憎悪の視線。相手の男の気配はもはや分からないが、きっとお邪魔をしたのだろう。


「このような夜更けに一体何事です」


 自分のことは棚に上げた叱責の声も、不思議な艶を残している。夕餉の時に見かけた記憶はないが、ビアンカが言っていた『大嫌いな貴族』とはこの人のことだろうか、と舞は思った。お楽しみの邪魔をしたことは悪いと思うが、何もこんな時に、とも思ったので、謝罪する気にはならなかった。舞はまだ彼女たちに気づいていなかったのに、慌てふためいて飛び出してきたことを思えば、申し訳ないような気もするが。


「道に迷って」

「あら、お間抜けだこと」


 それについては異論はなかった。挑発を受けてる場合でもない。


「すみませんがビアンカ=クロウンを捜している。火急の用です。小屋を教えていただけませんか」


 ビアンカ、と聞いて、彼女の目がさらにつり上がった。


「どうしてわたくしが?」

「本当に火急の用なんです。ここで会ったのが不運だったと諦めてください。それにあなたもご自分の寝台に戻った方がいいですよ。とにかく案内を願います」

「嫌ですわ」

「そうですか。じゃああたしは大声で泣きながら【アスタ】中を走り回ります」

「なんですの、その脅し……」

「お願いします」

「……」


 彼女はつくづくと舞を睨んだ。それはもう、上から下まで、視線の炎でまんべんなくこんがりと焼き目をつけるつもりかと思うような睨み方だ。それでも舞が引かなかったので、ついに諦めた。


「仕方ないわね。こちらよ」

「ありがとうございます」


 礼を言って彼女の後ろに従う。娘は腹立たしげな足取りでずかずかと道を歩いて行く。舞は背後に意識を集中した。でも、相手の男の気配はやはり感じられなかった。もう逃げたのだろうか。それにしても。


 ――貴族意識が強くて、下々の者と同じ家には住めない、と平気で言うような人が、ここにいるどんな男を相手にしているというのだろう。


 それに普通は男の方がごまかしに出てくるものじゃないだろうか。

 疑問はわいたが、すぐに忘れた。今はそれどころじゃない。

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