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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第九章 再会
128/251

間話8-3 王妃の召使い(3)

※残酷な表現があります

 正面玄関の扉を、かりかりひっかく音が聞こえている。


 シンディは自分がみそっかすだということを良くわきまえていたから、自分の判断で扉を開ける勇気はもてなかった。けれどその音があまりにせっぱつまっているようで、昔世話していた犬のことが思い出されていても立ってもいられなかった。犬。そう、犬だ。犬が必死で前足で扉を引っ掻いている音とそっくりなのだ。シンディの世話していた犬は牧羊犬で、愛玩動物というわけではなかったが、病気になって死ぬ直前、苦しいことを訴えるためにか、シンディの部屋の戸をあんな音をさせて引っ掻いた。


 父の部屋を引っ掻いても無意味だと、よく知っていたのだ。頼れるのはシンディしかいない。シンディにも、家族と呼びたい存在は、あの犬だけだった。


 だから近くの窓からそっと外を覗いた。正面玄関の露台に、大きな銀色の毛皮がうずくまっている。

 犬にはありえない大きさだった。毛はふさふさとして触り心地が良さそうだったが、べったりと血に濡れ、汚れていない部分も色がくすんでいるようだった。狼だ、とシンディは思った。――違う。


 銀狼だ。たぶん。

 うわあ、初めて見た。


 伝承では世界最強の生き物だということだった。一個連隊だって一頭の銀狼の前に壊滅すると言われるほどだ。巨人にだって、もし諍いが起こればだが、勝てるというほどの、気高く、畏怖と崇拝の対象だ。それがどうしてあんなに弱って、王妃宮の入り口で死にかけているのだろう。


 と、若草色の瞳が覗いてシンディを見た。言葉は発しなかった。銀狼も意志疎通はできるらしいのに。けれどその瞳を見ては、もう抗えなかった。あんなすがるような瞳で見つめられては。


 ヴェガスタに怒られるだろう、そう思いながらも、シンディは玄関へ駆け戻って、扉をそっと開けた。シンディより大きいような狼は、今はぐったりとうずくまっている。


「どうしたの。ケガをしたのね? どうぞ、入って。動ける?」


 狼は答えなかった。けれどゆっくりと、にじるように中へ入った。動くと右前足の付け根辺りから真っ赤な血がどっと吹き出して、シンディは青ざめた。大変だ。


「待ってて。あたしじゃ無理だわ。今、力の強い人を呼んでくる」


 銀狼はやはり答えない。でも異存はないのか、ゆっくりと前進を続けている。一体どうしてこんな高貴な獣が、とまた思いながら、シンディは大慌てでアンヌ王妃の執務室へ走った。





 ヴェガスタはシンディを叱らなかった。慌てたように階段を駆け降りて行く。シンディは周囲の部屋から敷布を集めて持って行った。玄関へたどり着くと王妃もいた。ふたりは力を合わせて銀狼を引きずり込み、王妃が戸を閉めようとした。と、銀狼が唸った。


「どうしたの? 閉めてはいけないの? でも閉めなければ、」

「ううう」


 と銀狼が唸る。王妃は困ったように狼の隣にしゃがみこんだ。


「どうして話さないの? 銀狼は話せると聞いたことがあるわ。もしかして、話せないの?」


 銀狼はうなずいた。王妃はシンディと顔を見合わせた。


「……わかったわ。では。ええ、この扉を閉めてはいけないのね?」


 うなずく。王妃もうなずいた。


「ずっと開けたままでなければならないの?」


 銀狼は首を振る。王妃はまたうなずいた。


「仲間がくるの? 違うのね、では、」

「アンヌ様。血が」


 シンディは露台を指した。銀狼が頷いた。銀狼がどいたそこには、べったりと血がついている。血ばかりでなく、何かどす黒いものも混じっている。あれが、魔物の毒だろうか。

 王妃は銀狼を振り返った。


「血がついたままだから――? このままにしてはいけない、ということ? 追われてるのね?」


 銀狼が安心したように頷く。シンディは近くの給湯室へ水を汲みに走った。外掃除用のブラシとモップを取ってきて、王妃とふたりで露台をていねいに洗った。敷布を畳んで水気をふき取りながら、デボラがいたら、王妃になんて事をさせるのかと罵倒されただろうなと思う。


 露台を綺麗にし終え、王妃とふたりで中へ戻ると、ヴェガスタは敷布を裂いて銀狼のケガを縛り上げていた。銀狼ははあはあと息をしながら、おとなしくされるままになっている。王妃が扉を閉めても、今度は唸らなかった。


「大陸最強の気高い獣が、なんてざまだ。ええ?」


 ヴェガスタが揶揄するように言った。


「人前に姿を見せたがらねえって聞いてもいたがな。つうか王宮内に魔物がいるって知ってんだろうがよ。いまさら退治しにきて返り討ちにあったってのか――」


 ヴェガスタはただいつもの軽口を言っているだけだと思ったのに、銀狼は頷いた。ヴェガスタは逆に驚いたようだった。


「え、ああ? ほんとにそうなのかよ?」


 うなずく。


「なにやってんだよ今更よ。クレイン=アルベルトが来たのは十五年も昔だって話だぜ」


 銀狼は相変わらず無言だ。王妃がつぶやいた。


「どうして喋らないのかしら……」

「し、と。これで血止めはいいはずだ。ここじゃ冷てえだろう、動けるんならその辺の部屋にでも……三階まではさすがにきついだろうからよ……」


 料理長が出てこないな、と、シンディは思った。銀狼に何か、温かなスープでも作ってもらえないだろうか。


「あたし、何かあったかいもの頼んで来ますね」


 言って、厨房へ向かった。厨房はすぐそばだ。扉に手をかけた時、だが、唐突に聞き馴れない声が怒鳴った。


『開けるな!』

「え、」


 でも、開けてしまっていた。

 かちりと掛け金が鳴って細く開いた厨房の中から、血の匂いがさっと吹き付けた。シンディは、壊された窓とめちゃくちゃになった厨房の中で、床にうずくまっている巨大な、漆黒の生き物を見た。獣は顔をあげた。銀狼よりもまだ大きかった。顔中が血に塗れていて、あれは誰の血なのだろうと思う。


 ――料理長が出てこない。

 ――厨房にいるはずなのに。


「シンディ!」


 ヴェガスタが駆け寄ってくる。漆黒の獣が跳躍した。ヴェガスタの手が届く一瞬前に、獣の振り下ろした爪がシンディの胸を浅く裂いた。痛みはなかった。ただ衝撃でよろめいた。獣がシンディを中へ引きずり込もうと顎を開いた寸前に、ヴェガスタがシンディを抱き寄せた。


 若草色の光が辺りに満ちた。シンディにはすべてが良く見えていた。背後にいた銀狼が、血に染まった白銀の毛皮に若草色の蔦のような模様を浮かび上がらせて、それを魔物へ向けて解き放った。魔物がひるんだ。咆哮をあげたが、光に押し戻されるように後ずさる。さっきヴェガスタが縛り上げたばかりの銀狼のケガからじわりと鮮血がにじんでいる、それを見たときには、シンディはすでに王妃の腕の中にいた。ヴェガスタは剣を抜いて銀狼の隣に立ち、中を睨んでいた。魔物は窓から出て行ったらしい、ややして、ヴェガスタが扉を閉める。


 料理長が、と呻くのが聞こえた。


「シンディ、シンディ、シンディ、」


 王妃の悲痛な声が聞こえる。どうしたのだろうとシンディは思う。

 どうしてこんなに泣きそうな声であたしの名を呼んでくださるのだろう。

 ケガはしたようだが、全然痛くない。大したことはなさそうなのに。



     *



 アンヌは細いシンディの体を抱き締めていた。住み慣れた王妃宮が、今はなぜかよそよそしく感じられた。自分たちは、特にシンディは、ここにいるべきではない、という気持ちがまとわりついて離れない。自分で望んで、ヴェガスタもシンディも巻き込んで、それでも自分で選んだ末路であるはずなのに。


 手近な使用人の個室に入り込んで、粗末な絨毯の上に座り込んで、シンディの表情から少しずつ生気が失われていくのを見つめていた。手の施しようがないとわかっていた。毒抜きの方法など知らないし、今更抜いても手遅れだと、もうとっくにわかっていた。傷は深く、血はほとんど出ていないが、毒は既に心臓に届いていた。


 ――罰を受けるべきはわたくしなのに。


 シンディの体を抱き締めて、


 ――どうしてこの子が身代わりに。


 生気がこぼれ落ちるのを少しでも止められないかと思いながら、


 ―― 一番効果的な罰だという事なのかしら。


 無力だとわかっていた。痛いほど。


「……なんで喋らなかった」


 開いた戸の向こうに座り込んでいるヴェガスタが低い声で言った。銀狼は唸り声で答えた。


『俺たちは言葉を話せない。人間や人魚との意志疎通には魔力を使う。魔物が近くにいることは分かっていた。話したら、それがささやき声でも、ここに俺がいると大声でわめいているようなものだ』

「……ああそうかよ。銀狼ってのは最強の獣じゃねえのか。魔物一匹相手になんてざまだ」

『あのくそいまいましい封じがなければ十五年前にとっくに始末してた』


 銀狼の声は呪うようだった。


『くそいまいましい人魚どもが、俺たちを締め出すために人間をそそのかして封じを作らせた。あれのそばでは俺たちの力はないに等しい。だがあの魔物はもはや放っておけない。既に執着を抱き、加速度的に狂っている。いつ崩壊を呼び込むかわかったものじゃない』

「……封じってのは?」

『お前たちの知ったことじゃない』


 銀狼はつんと横を向いた。ヴェガスタの顔はここからは見えないが、額に青筋が立ったのが目に見えるようだった。


「いい度胸だなこのくそ犬めが」

『……犬じゃない』

「いいから全部話しやがれ。俺は気が立ってるんだ」

「……アンヌ、様……?」


 シンディがかすれた声で言った。アンヌはその口元に耳を寄せた。


「なあに、シンディ?」

「ヴェグは何を……怒って、るん、です……? ヴェグが……怒る、なんて……珍しい、ですね……」

「怒っているわけじゃないわ。大丈夫よ」

「あたしの、せい、で、しょうか……またなにか……失敗……」

「そうじゃないわ。あなたは何にも悪くないわ。あなたみたいに可愛い子をヴェグが怒るわけないじゃないの。大丈夫よ、心配しないで、大丈夫よ、シンディ」

『……あの巨大な岩でできた建物、そのものが、俺たちを封じる』


 銀狼が静かに言った。シンディの声が、銀狼の気持ちを変えたようだった。


『だから今まで近寄らなかった。今ここにいるのも不可抗力だ。外にいた魔物を皆で追い立てていたんだが、もう少しのところで封じの効力内に逃げ込まれ、俺は深追いし過ぎた。入れてもらえてありがたい。建物の中にいれば、封じの威力も少しは弱まる』

「お前のその傷、魔物にやられたんだろう」

『そう。毒はなんとか抜いたが傷そのものの治癒には今しばらくかかる。……申し訳ない。他の生き物の体から毒を抜くのは銀狼には無理だ。人魚か、水に愛された左巻きのマヌエルでなければ』


 ――マヌエル?


 疑問が湧いた。聞き馴れない言葉だ。


 けれどヴェガスタは、そんな知らない単語に構ってはいなかった。全く、ヴェガスタはいつもヴェガスタだ。絶望ということを未だに知らない。


「人魚か。……人魚がお前らを締め出すために王宮を建てさせたと言ったな? 王宮の中には人魚がいんのか?」

『地下だ』

「案内しやがれ。……お。そっか、封じられてんのか。じゃあ俺がシンディ担いで行くから、その間ここでその女を守ってろ。それくらいいいだろうな?」


 銀狼は答えた。悲しげに。


『人間は、鍵を持つ者でなければ、人魚の場所までたどり着けない。鍵がなければ同じ場所をぐるぐる回るだけだ』


 ヴェガスタは舌打ちをした。でも諦めない。


「鍵ってのはどこに?」

『この世にひとつしかない。今は剣の形を取っている。エスティエルティナ、と俺たちは呼んでいる』

「エスティエルティナだと……!?」

「【最後の娘】が……いらしたんですか……?」


 シンディが口を挟んだ。唇からは血の気が失せて、最期の、時が、近づいているのは明らかだった。たとえ今、【最後の娘】がたどり着いたとして、シンディを担いで王宮地下へもぐることに、同意してもらえたとして。すべてが巧くいったとしても、もはや間に合わないと、アンヌには分かった。シンディの声は既にか細く、消え入りそうだった。アンヌはしっかりとその手を握った。


 シンディはずっと、主張し続けていたそうだ。【最後の娘】が迎えにくると。


 来るはずがない。来てはいけない。あの時彼女の手を拒んだことで、今日この事態が起こるのは、既に決まっていたのだ。デボラと一緒にシンディを追い出しておけばよかったと、何万回もした後悔を今また感じた。わたくしの巻き添えに、どうしてこの可愛いけなげな娘を、引きずり込んでしまったのだろう。


 けれど。


 アンヌは、シンディの手を握り締めた。終わりが近いと、わかっていた。ヴェガスタが入って来た。銀狼が呼んだのかもしれない。ヴェガスタが目の前にかがみこんで来る、その腕の届く場所はアンヌにとって世界で一番安全な場所だ。アンヌは、涙を振り払って、声を整えて、囁いた。


「……いらしたわ、シンディ」


 咳払いをして、その手をそっと撫でた。


「今。今いらしたばかりよ。そこにいらっしゃるわ。ねえ、しっかりして? ご挨拶しないといけないでしょう? あなたを迎えに来てくださったの、あなたのお陰よ、シンディ。安全な場所へ行けるわ。ありがとう。わたくしたち全員を、エスメラルダへお連れくださるって」

「遅くなって悪かったとさ、シンディ。お前との約束を忘れたり、してなかったよ」


 ヴェガスタも言った。ヴェガスタがこんなに静かに、優しく話すのを、アンヌは今までほとんど聞いたことがなかった。シンディの血の気の失せた頬に微笑みが浮かんだ。目を開いたが、その瞳は、もう、何も見てはいなかった。


「ああ、よかった……お待ち、して、ました。【最後の……娘】」


 手がそっと動いて、アンヌの手を逃れ、誰かの手を探すように動いた。


「エスメラルダに、行きた、かった。アンヌ様と、ヴェグと、みんなで……覚えていて……くださいましたね……」


 と、その手を、細い華奢な手が握った。

 アンヌは驚かなかった。銀狼が、その前足だけを人間の手に変えて、シンディの手をしっかり握っている、その異様な光景を見ても、驚きなど湧き上がってはこなかった。銀狼は右手でシンディの手を包み、左手で撫でていた。表情は狼のものだが、その内心の悲しみが、若草色の瞳からこぼれ出ているようだった。


「ああ……いらっしゃいましたね……本当は、不安、でした……あたし、なんかと……約束……もう、お忘れ……だって……思って……ごめ……」

「忘れてなんかいなかったわ、シンディ。みんなで行きましょうね。エスメラルダへ行けば、もう何も怖いことなんかないから。大丈夫よ。大丈夫よ。大丈夫よ、シンディ……」


 手から力が抜けた。シンディは微笑んでいた。本当に安心してくれただろうかと、まだ囁き続けながら、考えた。


 ――最期の最期に、騙されたふりを、してくれたのではないだろうか。



 わたくしは罪深い。

 もはや声も尽き果てて、それでもシンディの体を抱き続けながら、アンヌは考えた。


 ――本当に、罪深い。

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