再会(5)
*
見張りを終えたノーマンに蹴り起こされ、ニコルは思わず呻いた。
眠い。眠い。とても眠い。そして体が痛くて熱を持っているようだ。べちべちべちと顔を叩いて目を覚まそうとしていると、姫が言った。
「おはよう。あれ、……昨日よりましみたいだね?」
「あ……おあよーごあいまうー」
ニコルはとりあえず挨拶をして、伸びをして、しばらくぼーっとして、それから諦めて、寝袋からはい出して畳んだ。辺りはまだ暗い。姫も起きたばかりらしく、まだ横たわって寝袋に入って毛布にくるまっていた。寒いのかもしれない。アルガスの寝袋は空だった。顔を洗いに行っているのだろう。
ニコルはそして、ようやく、昨日の朝より体が軽いのに気づいた。あれ、と思った。三日目が一番きついぞ、と、グリスタが言っていたのに。
「昨日の技が効いたのかな……」
「技?」
と訊ねた姫の声には眠気はもう感じられない。寝起きのいい人だなあ、と思う。ニコルはぐっすり眠っているらしきフェリスタとグリスタを起こさないように囁いた。
「フェリスタにかけられたんですけど。寝る前に」
八つ当たりにかこつけて手助けしてくれたのだろうか。思わず笑ってしまった。もうちょっとやりようがあるだろうに。姫は不思議そうにふうん、と言って、微笑んだ。
「よかった」
そして寝袋を出た。毛布を外して、伸びをした。手際よく寝袋と毛布を畳んで、ニコルに言った。
「顔洗いに行きたいんだけど、いいかな?」
「あ、はい、じゃあ一緒に」
一緒に行っても何の役にも立ちそうもないのだが、今はアルガスも行っているはずだから大丈夫だろうと、我ながら情けないことを考えた。
「早起きなんですね」
並んで歩きだしながら、言ってみた。辺りを見回しても、まだ夜明けの光さえ見えない時刻だ。そうかな、と姫は首をかしげた。
「早くから寝てるしね」
「そうですかね」
「バーサの話、聞いてもいい? 元気かな」
姫に見上げられて、ニコルは、一気に眠気が吹っ飛ぶのを感じた。そうだ、彼女は、バーサを知っているのだ。一晩だけとはいえ同室だった。バーサも言っていた。話しやすくていい子で協力的で、同室になれて嬉しかったと。
「はい、元気です。いつもきりきり舞いして働いてるのに、全然愚痴も言わないし、働き者で『まだら牛』の看板娘です」
「そうだろうね。【アスタ】でも新参の方って話だったけど、ビアンカがすごく頼りにしてるみたいだったし、保存食作る班長の役も立派に務めてて、偉いなあって思ってたよ」
「でしょう? バーサは本当に偉い子なんですよ。雪が降った日、バーサも朝から晩まで働いて大変だったのに、おやっさんを先に休ませて自分で火の番とかしちゃうしね。酔っぱらいがいると危なっかしくて俺は嫌なんですけど、かといって他のお客さんと同じ部屋の簡易寝台に寝かせるのも嫌だしなあ」
言いながらフライパンを握り締めるバーサを思い出した。雪が止んで、往来が再開したから、バーサが寝る場所をなくして火の番をするなんてことも今はないはずだ。でも、ああいうことが頻繁にではないにせよ年に何度かはあるらしいことは確かだった。自分が雇われていれば酔客を撃退してあげられるのに。
――いや本当は雇われるのではなく、
「……なかなかうまくいかないもんです」
そろそろ近所のおせっかいな女たちから、縁談が持ち込まれ始めているのは知っていた。おやっさんはまだ早いと一笑に付しているらしい、少なくとも前回のは握り潰してバーサに知らせもしていなかった。でも、バーサももうすぐ十八になる。適齢期の始まりだ。母は十八で父に嫁いだ。グリスタに言われるまでもなくよく分かっていた、バーサは気立ても器量もいい、宿の看板娘だ。バーサが戻ってから客も二割は増えた。彼女と一緒に宿の跡を継ぎたい人間なんて、あの小さなリヴェルにも大勢いるはずだ。よくよく考えてみれば、本当にグリスタの言ったとおり、流れ者なんかを選んでくれるなんてありえなさそうだ。今回の仕事をちゃんとやり終えて、戸籍をもらえるように頼み込んだとして、それが成功したとしても、戻ってみたら手遅れだったなんてことになりかねない。心配になってきた。
「あああ……もっとちゃんと申し込んでおくべきだったんでしょうか……」
呻くと姫は、さすがに言いたいことをちゃんと悟ったようだった。
「そっか。申し込んでこなかったんだ」
「いや自分じゃ申し込んだつもりだったんですけどね? でもグリスタに遠回しすぎて伝わってないって言われて、今思えば自分でもそうかなあと」
川まで来た。川べりにアルガスが座り込んでいた。何をしてるんだろうと思った矢先、姫が言った。
「いた。おはよう、ガス」
「……」
アルガスは顔をあげた。
「……」
無言だった。姫はアルガスの隣にしゃがみこんだ。
「風邪引くよ」
「……寝てない」
珍しく芒洋とした声に、姫は笑った。
「知ってるよ。でも風邪引くよ? ノーマンとジェスは日の出まで寝るって」
その情報がアルガスの目を覚まさせたようだった。ああ、と呻くようにして、アルガスはようやくその体勢をほどいて川の水で顔を洗った。もしかして、今までここで寝てたのだろうか。なんだそりゃ、とニコルは思った。思わず口元がほころんでしまった。
顔を洗い終えて三人でたき火のそばへ戻った。アルガスの足取りはややふらついていた。ニコルは更に頬をゆるめた。口数が少なく表情も変わらない割に、結構隙のある人だ。
「バーサに、」と姫が話を戻した。「じゃあ、手紙を書いたら? 便せん、無地のも何枚か持ってるから一枚あげるよ。次の集落でリヴェルに出せるんじゃないかな。明日の夜は宿に泊まるそうだし、手紙出すくらいの時間はあるよ」
「あー、……うー」
強い誘惑を感じた。グリスタの指摘のとおり、バーサはニコルの気持ちすら知らない段階だ。待っててくれと言って、否定の返事は聞こえなかったが、本当にただ待ってるだけかも知れない。準備を整えて会いに行っても、夫と一緒に待っていられたりしたら取り返しがつかない。想像するだけで青ざめてしまう。
でも手紙なんて。何を書けばいいだろう? まだ迷っているうちに、姫はたき火のそばへ歩みよって、背嚢を取り出して中を探った。背に当たる部分から薄い板を二枚重ねて留めたものを取り出した。板の間から薄い、上等な便せんを出して、一枚を選び出した。
「はい、どうぞ。この板の上で書くといいよ」
「……いただきます」
ニコルは覚悟を決めて便箋を受け取った。薄い、とても高級そうな紙だった。恐らくエスメラルダの職人が丹精込めてすいたものだろう。その職人も、まさか流れ者が宿娘へむけて書く文に使われるとは夢にも思わなかっただろう。姫は続けて筆記具も貸してくれた。炭筆を巻いた革はよれよれで使い込まれていた。【最後の娘】がさまざまな重要な手紙を書くのに使った筆なのだと思うと、自分の境遇がすごく不思議だった。彼女はこう見えても雲上人だ。存在することは知っていても実在するなんてあまり思ったこともなかった。それが今、そんな人の隣に座り込んで筆記具と便せんを借りるようになるとは。戸籍を焼いて最下層の身分になった、今になって。
お借りしますと言って緊張しつつその筆を握り、紙をにらんだ。
しばらく沈黙が落ちた。
姫は便せんを背嚢に一時的に戻して、寝袋を背嚢に詰め込んだ。それから毛布を体に巻き付けてたき火に指先をかざし、やかんを覗いた。湯はたっぷり入っていたらしく、茶を入れ始めている。その間ニコルは便せんを睨み続けて、ついに呻いた。
「何を書けばいいんでしょうか」
「……さあ」
「俺手紙なんて書くの初めてなんです。普通どういうことを書くものなんですかね」
「さあ、恋文なんて書いたことももらったこともないからなあ」
「こ、恋文」
その単語にいたたまれなさを感じたが、そうだった。恋文なのだ、自分の書こうとしているものは。
「……本日はお日柄もよく、とか?」
言ってみると姫は目を丸くした。
そして顔を歪めた。多大な努力をして笑いを押し殺したのが分かった。そして彼女は呻くような声で言った。
「ふ……普通の言葉でいいんじゃないかな?」
「普通の言葉って?」
「うーん……こんにちは、元気ですか、とか、そんな感じの」
彼女の手元にある急須から、茶のいい匂いがし始めている。ニコルは再び便箋をにらんだ。
沈黙の間に姫がアルガスと、ニコルに、熱い茶の入った器を差し出してくれた。礼を言って手にしたアルガスは、今は少し目が覚めたようだ。ニコルは呻いた。
「……流れ者はどういう手紙を書くんですか」
「人それぞれだ」
あっさり返されて更に呻いた。姫がまた顔を歪めたのが目の隅に見えた。面白いのだろう。ニコルはため息をつく。他人事だと思って。いや実際他人事なわけだが。
ニコルだって姫とアルガスとフェリスタの関係に興味津々なのだ。気持ちは分かる。
「……恋敵ってまではいかないけど、でも俺が知ってるだけでも、雑貨屋の跡取りとか通信舎の見習いとか、相手はいくらでもいるんですよバーサには」
「うん、人気あるだろうなってあたしも思うよ。美人で優しくて働き者で」
「ですよね……可愛いし面倒見も気立てもいいし、俺包丁もろくに使えないし、特技もないし、うわああ」
頭を抱えた。おまけに定職も財産も、戸籍すらない。先行き真っ暗という気がする。
姫は咳払いをして言った。
「……特技、ないの?」
「ないんですよ。ひとつも」
ニコルはため息をついた。バーサに申し込むにはやはり、宿の主人になるのに役に立つ特技、それこそ母の丸め焼きを完璧に作れるとか、そういう特技が必要なのではないだろうか。
「でも特技なんて別にいらないんじゃないの?」
「いりますよ……俺ね、本当に役立たずだったんです、『まだら牛』で。できることと言えば床磨くのと荷物持ちくらいのもんで。雪降った時は雪かきできましたけど、雪なんてほとんど降らないしな……あ、すみません、愚痴言ったりして。うーんうーんうーん」
真っ白な便せんを睨んでしばらく考えた。沈黙が落ちた。ぱちぱちと薪のはぜる音がしている。紙は白い。あくまでも白く白く、その白さに気圧されるようで、書くことなど何も浮かんでこない。ひとかけらも。
姫は便せんを取り出して、もう一枚の板の上に乗せて、予備らしい炭筆を取り出した。それを手巾でくるりと巻いて、さらさらと手紙を書き始めた。そういえば昨日も書いていた。それも、何通も。いろいろなところへ向けて書いているようだ。
書かなければという焦りからの逃避なのか、どうしてもそちらが気になってしまう。姫は瞬く間に一通の手紙を書き上げた。悔しくなるほど、あっさりと。そしてニコルの視線に気づいた。
「まだ出さないけど、時間のあるうちに書いておかないとね。王妃を迎えることに成功したと想定して。書いておけばすぐに出せるから」
「ああ、そうか……すみません」
そうだった。ニコルの悩みなど小さなものだ。今この人は王を交代させるために奔走している最中なのだ。それなのに自分はその貴重な便せんと炭筆を借りて恋文などを書こうとし、その上、書けないなどと悩んでいるわけで。情けなくなってきた。姫がなんで? と聞いてきたが、ごまかした。なんと言っていいか分からない。
「いえ……随分たくさん書くんですね」
「うん、アンヌ王妃はイェルディアの出身だから、イェルディアの代表と、王妃の母上様と、代表に書くのなら船長にも書かないわけにはいかないし。すねるから」
すねるのか。船長が?
「あとエルヴェントラとエルギンにも。ニーナにももうすぐ帰るよって書きたいし。十日で帰るって言ったのに、遅くなっちゃったしね」
「大変ですね……王子様か」
それも雲上人だ。興味がわいた。
「エルギン王太子殿下って、どんな方ですか」
「どんな? ってどんな?」
「いえ、えっと、いい方なんですよね?」
「ああ、うん。もちろん。父親とは全然違うよ。だいぶ前からお忍びでいろんな場所へ行ってた。マスタードラとイーシャットだけつれて、漁村とか辺境の島とか、他にももっとこう……なんていうのかな、後ろ暗い場所にまで。国の状況を肌で知りたいからって。今はさすがにもう自分では出かけてないみたいだけど、イーシャットや兵達に頼んで、アナカルシス全土の状況を調べてる。即位したら一番初めに手をかけなければならないのはどこかって、一覧作ってるんだって。大変だなって思うよ。エルギンは、即位してからが本番なんだもんね」
それは、自分の仕事は王が交代するまでだと言ってるように聞こえた。そして更に興味がわいた。自分でも下世話だと思ったが、エルギン王子はまだ独身のはずだ。【最初の娘】は確か、独身である必要があるそうだが、【最後の娘】にはそんな制約はなかったはずだし。まっとうに考えれば、姫の相手としては、流れ者よりも王位継承者の方が似つかわしいのではないだろうか。
「エルギン王子はご結婚なさらないんですかね?」
聞いてみると姫は首をかしげた。
「さあ。なんでもずっと昔から心に決めた人がいてね、王位を継いだら申し込むんだって、噂は聞いたけど」
「はあ、そうなんですか」
あまり興味がないようだ、とニコルは思った。まあそんなものかもしれない。王子様と王女様だからといって、必ず恋に落ちなければならないというものでもないだろう。
「どこにいらっしゃるんですかね、その令嬢って」
「知らない。アナカルディアにいるのかなって思っていたけど、でもよく考えたら、すっごく寂れてたんだよね……王位継承者に申し込まれるようなちゃんとした令嬢なら、あんな場所に住んでないで、とっくにどこかに避難してそうだよね。アリエディアにでもいるのかな?」
「ああ、アリエディアにならいらっしゃいそうですね。貴族の方々はもうだいぶ前から、お子様や奥方様がたをアリエディアに避難させていたそうですし。でもラインディア家の領地ですよね、エルギン王子の思い人がいてはいろいろ差し障りがあるんじゃ?」
「そっか。じゃあイェルディアかな? どうなんだろう。エスメラルダについたら会うだろうから、本人に聞いてみれば?」
「本人に!」あっさり言うなあと思った。「話しかけたら叱られそうな気がするんですけど。控えおろう! とかって」
「エルギンに? スヴェンなら言うかもしれないけど、エルギンは別に怒らないと思うよ。王子っていっても、普通の人とそんな変わらないよ? 言葉も通じるし、ご飯も一緒に食べられる」
アルガスがわずかに頬を緩めたのが目の隅に見えた。前にも聞いた言葉なのかなあ、とニコルは思った。
「それに昔は結構……悪がき、だった、らしいよ。あたしが会ったころにはもう落ち着いてたけど、でも一度探検につれてってもらったことがあるな、そういえば。ああ、エスメラルダに匿われてすぐの春だった。だからあたしが、十二歳の時だ。巡幸の準備してる真っ最中だったの。ニーナは病が治まったばっかりで、準備で忙しくて、あたしは暇だった。そしたらエルギンが来て、いいところに連れていってあげるからちょっとおいで、って言われて、ついていってみたらそれがもうものすごい道だった。沼を渡って崖を降りてまたよじ登って野原と森をえんえん歩いて、洞窟に入ったところで日が暮れちゃって。でも道に迷ったわけじゃなくて。初めから三日の予定だったってあっさり言われた。大丈夫、巡幸の出発には間に合うからって」
「そりゃまた豪快ですね……」
「食料もたっぷり持ってたんだよ。マーシャには六人分だって嘘をついたんだって。それにもう春だったから、山菜とかも採れたしね。その後山をひたすらよじ登ってね、春だけどまだ雪が裾野の方まで残っていて、遭難するかと思った。でもね、目的地は雪山の中腹で、そこだけ雪がなくて、花が咲いててすごく綺麗だった。見晴らしが良くて、エスメラルダ中を見まわすことが出来て、気持ちよかったな。確かにすっごくいいところだったよ。でも……また一日半かけて戻ってみたら、エスメラルダ中大騒ぎで」
「そりゃそうでしょうねえ」
「ニーナは半泣きだった。無事に戻って安心したら……すごかったな。エルギンを散々蹴飛ばして」
「王子様をね」
「ニーナも王女だもの」
そういう問題か。
「それで、巡幸終わって帰ったらたっぷり仕返しするから半年恐れおののいてるといいわ、って脅してた。その半年の間、マスタードラがエルギンの素振りを一日二百回に増やして、学問所の教育係が朝から晩までみっちりしごいて、スヴェンの授業もそれまでの倍に増えたとか。その上ニーナは半年して戻ってから、本当にいろいろと仕返しをしたみたいだよ。有言実行の人だからね、ニーナは。何をしたかまでは聞いてないけど。……あたしには何のお咎めもなかったのに、ちょっと申し訳なかったな」
「イーシャットは?」
と久しぶりにアルガスが訊ね、姫は笑った。
「イーシャットは子どもの頃のエルギンに悪事の限りを教え込んだ張本人だもの。エルギンが何か悪さをするたびに『お前の英才教育のせいだ』って責められてたらしいよ。その半年の間もエルギンと一緒にスヴェンにきんきん声で嫌みを言われ続けたらしいから、エルギンを責めたりはしなかったんじゃないかな」
イーシャット、という人物に対して、姫は並々ならぬ好意を持っているようだった。口調と表情の端々にその好意が滲むようで、ニコルはつられて、まだ見ぬイーシャットという人物に好意を抱いた。小さな男の子は誰でも、探検だの悪戯だのをして育たねばならない、と、自らの子ども時代を思い出して考える。だからエルギン王子にも、そのような子ども時代があって良かったと思う。
「それにしても良くそんな道を踏破しましたね、十二歳の女の子が。根性あるなあ」
「うん、なんだかもう後に引けなくなっちゃってね。でもあれから行ってないんだ。何年か経って、一度ひとりで行ってみようと思ったんだけど、三日分のお弁当を頼んだらマーシャがすぐ気づいちゃって。ニーナが大騒ぎしてエルギンを呼びにいったらしくて、駆けつけてきたエルギンに半泣きで頼まれた。僕が悪かったからどうかひとりで行かないでくれって」
泣くなよ、とニコルは思った。
それは少し大げさすぎるのではないだろうか。自分で連れて行ったくせに。
「危険……だから、ですかね?」
姫は苦笑した。
「ニーナにもマーシャにも、金輪際そんな物騒な考えは起こさないでくれって涙ながらに止められて、その後しばらくは見張られてるみたいな気がしたな……」
「……そんなに?」
「道は覚えてるんだけどな。何となく」
「やめた方がいい」
とアルガスが言った。とても真面目な口調だった。
「絶対にやめた方がいい」
「……うん、あたしもそう思うよ」
姫は更に苦笑した。いったいどうしてなんだろうとニコルは思う。
「だからあれ以来行ってないんだ。もう一度行きたいな」
何だかよく分からないが、とにかく、彼女が『ひとりで』行くのが問題なわけだ。
確かにすっごくいいところだった、と言った時の姫が、かすかに目を細めて何か思い出すような、懐かしそうな顔をしていたから、ニコルは考えた。それなら誰かにつれていってもらえばいいのだ。王が交代して、姫に余裕ができたら――
「王が交代したら、その、新王は忙しいでしょうから、イーシャットという人につれて行ってもらったらいいんじゃないですか? 弁当もって」
姫は一瞬、虚をつかれた顔をした。
すっと血の気が引いたような、痛いところに触れられたというような、そんな表情で、ニコルはとっさに、イーシャットという人物はもう死んでいるのではないかと思ってしまった。けれどすぐに思い返した。さっきの話の感じではそんな風じゃなかった。
アルガスも少し不思議そうに姫を見、彼女は、すぐに表情を取りつくろった。
「そ……か。その手があったね」
そして彼女は見事ににっこりした。
「そうか。イーシャットなら知ってるはずだよね。ニーナも行きたがるかな。ビアンカも……ミネアはまだ無理かな? でもみんなで行ったら、楽しそうだよね」
「いいですねえ」
ニコルは何事もなかったかのように微笑んで見せた。姫が一瞬見せた動揺には、全く気づかなかったふりをした。
でも考えた。自分の触れてしまったものは何だったのだろうかと。自分は何を言っただろう。
『王が交代したら』
――自分の仕事は王が交代するまでだ、と言ってるような気がした。
「王が交代したら」声が勝手に口からこぼれた。「いろいろ変わるでしょうね。生活も楽になりそうだし、理不尽なことなんかも、もう起こらないでしょうし、いい方に全部向かうだろうな」
「うん。そうだろうね」
他人事みたいな返事だ。
「姫は今忙しいですよね。でももう少しで、この忙しいのも、終わ――」
これだ、と、姫の目を見てニコルは思った。きっとこれだ。
王が代わったら、自分がどうするのか、聞かれるのが怖いみたいだ。
不自然な沈黙が落ちそうになり、ニコルは必死で頭を働かせた。
「……ったらうちのおふくろに会いませんか」
口に出してから更に考えた。考えがまとまる前に、言葉が自然に渦を巻くようにして口から滑り出た。
「うちのお袋の丸め焼き、食べに来ませんか。モリーの丸め焼きって、ウルクディア周辺ではちょっとした評判なんです。息子の俺が言うのも何ですけど、うまいんですよー。やわらかくって口の中でじゅわっとして、薯のつぶしたのと一緒に食べるともう」
姫はニコルを見て、感謝したように微笑んだ。
「そうなんだ」
「ではモリーという人がウルクディアの料理長で間違いないな。ウルクディアで振る舞われた。あれもとても美味かった」
アルガスが言い、ニコルは身を乗り出した。
「食べたんですか? 焼きたてを?」
思い出すだけで口に唾が湧く。アルガスはいや、と言った。
「焼きたてではなかったが、それでも美味かったな」
「じゃあ是非焼きたてを食べて欲しいです。本当に。冷めると美味しさが半減以下なんですよ。なんで冷めたのなんかふるまったりしたんだろう」
「いや、申し訳ないと謝罪されたが」
「……よっぽど美味しいんだね。食べたいなあ」
「ぜひぜひ。俺が小さいころからずっと事あるごとに研究を積み重ねてようやく完成させた幻の料理なんです。作れんのは今んとこお袋だけなんじゃないかな。あれが評判になって、ウルクディアの都市代表がぜひにってね、代表つきの料理長に抜擢されたんですよ」
「そうなんだ」姫はにっこりした。「それまでは?」
「それまでは普通の召使いでした。まあ、今も位としては召使いです。賓館の切り盛りしてる侍女の人がね、すっごく怖い人で、抜擢されたってだけで母を目の敵にしたようなんで、それ以上の位にするのはさすがに波風が立ち過ぎると思われたんじゃないですかね」
話がうまく変わったことにほっとした。それは姫も同様のようだった。他人の母親になど用はないだろうに、身を乗り出して話を聞きたがってくれた。
「侍女って、コリーンのことかな」
「そうそう。お袋はめったに人の悪口なんか言わないんですけど、コリーン様のことは……内緒ですよ? 俺と親父の前でだけ、さんざん罵ってました。ああ、アイオリーナ姫の侍女が仕返ししてくださるんですよね」
「そうなんだって。それにアイオリーナもコリーンのこと、散々痛め付けてた。すごかったよ。もううっとりしちゃうくらい。それにあたしも、二度と顔を見せるなって命じてきちゃった」
「母が喜ぶと思います。たぶん丸め焼きくらい喜んで出すんじゃないかな――」
ニコルはそれからしばらく、姫に聞かれるままに、母やバーサや、ウルクディアやリヴェルについて、思いつく限りしゃべりまくった。姫はびっくりするほどの聞き上手で、ニコルの普段からよく回る口はここぞとばかりによく働いた。話しながら、しかしニコルは、頭のどこかで考えていた。どうして、王が交代した後のことについて、聞かれるのが嫌なのだろう。嫌というか、怖い、というか。でもどうして怖いのだろう。どうして。
ニコルならば戸籍を取り戻した後の楽しみはいくつでも数え上げることが出来るし、それをいろんな人に聞いてほしいと思う。それはバーサに会いに行くという重要なことから、母の丸め焼きを食べるという些細なことまで、本当にたくさんのことをいろいろと思い浮かべて、それを糧にして、この強行軍にも何とかついてきているのに。
王が代わるなんてもうすぐだ。
本当にもうすぐ、なのに。




