間話9-2 ムーサ(2)
「大丈夫ですか」
「……大丈夫に、見えますか」
「……」カーディスは何とかその声を聞き取った。「全然見えません。今にも死にそうですね。言い残すことはありますか。聞いてあげませんけど」
「え、いや、聞いてくださいよ……」
「言いたいことがあるなら生き延びてから言ってください。というか、あなたは誰ですか? エスメラルダの人ですね? 見覚えがあるような……」
「コルネリウスって野郎が王に……【最後の娘】が王妃を迎えに行くかも知れないと、伝えに……」
「コルネリウス?」王子はかすかに首を傾げた。「――さっき出て行った男かな。なんか、聞き覚えのある名前だな……追うようにお願いしたんですが、たぶん捕まえられないと思います」
あっさり言われて思わず顔を歪めた。
「何とか捕まえてもらえませんかね……」
「出来る限りのことはしますが、期待はしないでください。まだおおっぴらに動くわけにはいかないので……でも姫が? デボラからも聞きましたけど、本当に母を迎えに行くんでしょうか?」
「――殿下?」
ムーサが呻いた。杖を握り締めている。まさか王子に殴りかかったりはしないだろうとは思うが――と、さっきデボラと痴話喧嘩をしていた男らしき人物が視界に割り込んだ。王子の向こうに立って、ムーサに剣を突き付けた。
風体を見ると、どうやら流れ者らしい。腕が立つといいのだが。
「しっかりおしよ、今衛生兵がくるからね」
デボラの声が頭の方で聞こえる。口調と態度とは裏腹な優しい手つきで額に冷たい指が触れて、少しだけ気分がよくなった。
カーディス王子が言った。
「杖を渡してもらえますか、ムーサ」
「こ、これはいったいどういうことじゃ」
とムーサが言い、流れ者が、空いた方の手で杖を奪い取った。ムーサは驚くと言うよりも、呆気に取られているようだった――カーディス王子は流れ者から杖を受け取ると、重いですね、と言った。
「こんなもので人を殴れるなんて、ムーサ、僕は生涯、あなたのようになれるとは思えない。なりたいとも思いませんけど。アイオリーナは無事に救出されたそうです。デボラが知らせてくれまして。ムーサ、あなたの話と違いますね」
「でんか、」
「【最後の娘】が助け出してくれたんだそうです。僕の宝石を。……アイオリーナをさらったのは魔物だそうです、あなたは、それに一枚噛んでいましたか、ムーサ」
カーディスは杖を床におき、それから、ムーサに歩み寄った。デボラはイーシャットの背後に回って、腕の戒めを解いてくれていた。
「僕は」
カーディスは既にムーサよりも背が高かった。頭ひとつ分ほど。身をかがめて、ムーサを覗き込んで、彼は言った。
「怒ってるんですよ。……良くも良くも、僕の宝石に怖い思いをさせてくれやがりましたね」
「殿下」
「あなたに恨みを持つ人間は多いようです。僕があなたにまず会わせたいのは、長年僕の目と耳を勤めてくれた友人です。知っているでしょう、アルガス=グウェリン。ヴィード=グウェリンの養子ですよ」
「……な、」
「掌握は済みましたよ。残っているのはあなたの子飼いの兵だけです、それも、今頃は全員囚われているはずですけどね。あなたがここでうきうきと人をぶちのめしている間に。そちらの方、わめいてくださって助かりましたよ。まさかこんなところで誰かを殺しかけているところだとは夢にも思いませんでしたから、間に合わなかったかも知れませんからね。ねえムーサ、良識あるマーセラ神官兵はみんな、王とあなたにうんざりしていたようですよ。ティファ・ルダが呼んでくれれば、それはもうみんな大喜びで兄上に従うそうです。長いこと嘘をついていて、申し訳ありませんでしたね。悪いと思ってないですけど」
ムーサの表情はかすんで見えなかった。それが何とも惜しい。と、ぺちんと額を冷たい手がたたいて視界が晴れた。
「寝るんじゃないよ、この根性なし」
うわあ、とイーシャットは思った。天の助けだ。
ムーサは呆然としていた。状況がさっぱり分からないのだろう。目の前にいる王子は本当にあの王子だろうかと思っているに違いない。
「あなたの言う真実は、僕にとっての真実じゃなかった」
カーディスは静かに宣言した。
「もうずっと前から、わかっていたんです」
「ざまあみろ」
声に出して言うとデボラが笑った。
「あたしもそう思うよ。……ちょいと、寝るんじゃないって言ってるだろう」
カーディスが振り返った。
「寝たら二度と起きなさそうな感じがしますよね。寝る前に全部吐いた方がいいですよ。お名前は?」
「……」イーシャットは呼吸を整えた。「イーシャットと申します。……ご無沙汰してます、殿下」
「……イーシャット……って、え!? 兄上の腹心じゃないですか! いったい何でこんなところでムーサにめった打ちにされる羽目になったんです? ああ、理由は何となくわかりました。十年前の恨みを晴らされてたんですね。駄目じゃないですか捕まったりしちゃ。ムーサがどんなに執念深いか知らないわけじゃないでしょう」
「いや、捕まりたくて、捕まった、わけじゃ、ないんで……」
「そりゃそうでしょうね。母を迎えに行ってくださる途中だったんでしょうか。ねえイーシャット殿、では、あなたは姫をよく知っていますね? 姫が一番喜ぶことはなんですか? 僕は生涯かけて彼女に、償いだけでなく恩返しもしなければなりません」
王子の問いとともにデボラが耳を引っ張って、遠のきかけていた意識が引き戻された。イーシャットはいつしか閉じていた目を再び無理やり開けた。王子はじっとこちらを見ていた。答えさせる気かと、少し恨めしく思った。こんな状態で答えさせられたら、嘘や軽口を考える余裕などない。
仕方なく、イーシャットは呻いた。
「王が交代して……誰も理不尽に死なないで済むようになることです」
「それなら」カーディスは哀しげに笑った。「僕もお役に立てるようですね。少しは」
ムーサは抵抗しなかった。茫然自失の体だった。神官兵が数人入って来てムーサを取り囲んだ時にも、一言も言葉を発しなかった。しかしカーディスは、ムーサが天幕を出る寸前に、そうだ、と言った。
「聞きたいことがあったんです。半年近く前に、あなたに靴を頼んだの、覚えていますか。外歩きをしたいから、頑丈で防水の靴を誂えてくれと言ったでしょう」
「……はあ」
ムーサのぼんやりとした返答が聞こえる。これは一体なんの話だろう。イーシャットもぼんやりと考えた。意識が途絶えそうになるたびにデボラが耳をつねったり額をたたいたり髪をひっぱったりして戻してくれるので、自分で意識を保つ努力をしないでいいのはありがたかった。
「あの靴、本当に良かったみたいですよ。大きさが合って幸いでした。ガスが大喜びだったんです。あのガスが、こんな顔して笑ったんですよ、すごいでしょう。これからも贔屓にしたいので、職人の名を教えてもらえませんか」
「……ガス、とは、」
「あなたの見立てだと口を滑らしたらちょっと嫌そうな顔をしましたが、あまりこだわらない性格で助かりました。ああ、後でいいですよ。死ぬ前に教えてもらえれば」
「……はあ」
ムーサは不思議そうな、吐息のような返事を残して天幕の外へ出た。カーディスが低く呟くのが聞こえた。
「……まあ僕はあなたのことが、もう、嫌いじゃなくなってたんですけどね」
そしてこちらを向き直った。いつしか燭台が増やされており、かすむ視界の中に、アンヌ王妃とそっくりな、若い男の顔があった。こちらは王に似ず、本当に幸いだったとイーシャットは思う。
「カーディス=イェーラ・アナカルシス王子殿下。お陰で、助かりました。ありがとう、ございます」
カーディスは身を屈め、微笑んで見せた。
「いえ……どう、いたしまして。遅くなったことをお詫びします。もう少し早く掌握していれば……」
それから、低い声で訊ねた。
「エスメラルダに行けば」ひどく、静かな声だった。「フェルドに……会えますか?」
「……あいつは帰りました」
「はい、そう聞いていました。でも、その後……」
「会って、ません。一度も」
「……そうですか」
カーディスは唇を噛んだ。そうだろうとイーシャットは思った。ああ、あの三人は、イーシャットとマスタードラ、エルギン王子、それからニーナ、様々な人間の胸に、深い傷跡を残していった。カーディス王子もその傷を共有する者のひとりなのだ。
彼らはきっと、残された者たちがこんなにも、十年経っても尚、この傷に苦しめられているなどと、考えてみてもいないだろう。だって彼らは異邦人だったから――言葉は悪いが、旅行者だったから。行きずりの、来訪者だったから。ああ、十年の内に、彼らの内心を想像できるようになっていた。イーシャットもこの十年の内に、アナカルシス全土を飛び回る内に、何度も何度も、暴君に苦しめられていた人や子供に、自分のできる限りの施しをしたからだ。薬を分けたり、水を分けたり、食べ物を分けたり。目の前に倒れている人を見つけたら、王子の身内としてできる限りのことはしたい。その感情は自然なものだ。――だがその人々にどんなに感謝されても、自分の地位や主や相棒や家族を捨てて、そこに留まりたいとは思わなかった。もう顔も覚えていない者がほとんどだ。
感謝はしている。もちろんのことだ。彼らが来なければ今はどうなっていただろう。エルギン王子は死に、ニーナの身柄はもちろんのこと、エスメラルダもマーセラのものになり、ルファルファを信奉する住民たちは全て虐殺されていただろう。同盟なんて夢のまた夢で、王の暴虐を止める手立てなどないままだった。カーディス王子が今のようにマーセラ神官兵を掌握して王へ反旗を翻す、そんなことも起こりえなかった。
だからこそ。
彼らの残した傷跡の深さに、イーシャットは戦慄する。十年経っても一向に癒えない生傷は、ことあるごとに新たな血を噴き出し存在を主張する。彼らは優れた能力を持っていて、それを困っている者のために役立てようという心根も持ち合わせていた。
姫を見る度に、彼らのことを思い出す。
ルファルファの加護を持つ者――暴君を排斥し人々の平和と安寧のために働く心根のある娘が、何か大きなことを、成し遂げる度に。
彼女との別れもまた、近いのではないか――。それを、考えずにはいられない。
「しっかりしてください。死なれたら困るんですよ。姫に恩返ししなきゃならないのに、あなたに死なれたら台無しだ」
カーディスがイーシャットの肩を揺すり、まどろみ始めていたイーシャットは、また現実に引き戻された。
「……死にそうに見えますかね」
「少なくとも声は小さくてか細くて消え入りそうですね。聞き取るのが大変です。顔は土気色で血の気がなくて無精髭がうっすら生えて血も付いて目が落ちくぼんで、それはもう無惨な有様です」
カーディスは情け容赦なく事細かに描写した。イーシャットは苦笑して、大きくなったなあ、と今さら思った。大きくなった。本当に。
十年前、フェルドが残した功績の内、一番大きなものは、この王子に、ムーサ以外の世界の存在を、教えたことだったのかも知れない。
――カーディス=イェーラ・アナカルシス、王子殿下。
意識が遠のくのを感じながら考えていた。
――今もやっぱり、色んなことを……知りたがってんの、かなあ。
「だから寝るなってんですよ」
ぺちぺちと頬を叩かれた。目を開けても視界がかすんで王子の顔はぼんやりとしか見えない。
「兄上とは明後日の昼にはお会いできます。せめてそれまでは生きててください、いいですか、命令ですよ? 王子の命令が聞けませんか、そうですか。いい度胸ですね。僕が本当に兄上に味方すると、そう簡単に信じて安心しちゃっていいんですか? 僕は自慢じゃないけど猫被るのは得意ですからね、兄上を裏切って自分が王位を継ぐなんて、宣言するかも知れませんよ」
「……そりゃ大変だ……」
「見届けるまで死ねませんよ。大体なんでこんな場所でムーサなんかにたたきのめされるはめになったんです。母を迎えに行ってくださる途中だったんですね? コルネリウスって男に襲われてケガをして捕まったんですね? ほら、姫の話を聞かせてください。彼女はウルクディアを出た後、やはり母を迎えに行くんですね? あなたは合流するはずだったんですか? どういう段取りになってたのか、白状しなさい。早く!」
したいのは山々だったが、ムーサという脅威が去り、安心してしまった今では、喉から声を絞り出すのも難しかった。デボラがイーシャットの頭を持ち上げて膝の上に乗せてくれた。と、流れ者が言った。
「……俺の目の前で妻にひざ枕されるとはいい度胸だなああんた」
「誰があんたの妻かい!」
「覚えてろよ兄さん、俺もまだ触ってねえデボラの膝枕をよくも……そのままそこで死んでみろ、あんたの死に様を地下街や世間にたっぷり情けないおひれをつけて言い触らしてやる」
「うわあ大変だ。そりゃ死ねませんね」
カーディスが大袈裟な声をあげる。イーシャットは苦笑した。それは確かに死ねない。
その時やっと衛生兵が駆け込んで来た。イーシャットを見るなり、彼らも「うわ」、と言ったので、自分で思うより死にかけて見えるのかもしれない。王子がやっとイーシャットのそばを離れ、ふたりの衛生兵が代わりに屈み込んでくる。暖かな、ツンとくる匂いとひどい味の液体を口に流し込まれてむせたが、その液体が喉を通ってしばらくすると少し、温かくなった。そしてその時、初めて、自分の体が冷えきっているのに気づいた。全身が麻痺していて、氷のように冷たくて、ひどく眠い。王子とデボラと流れ者が必死で目を覚まさせておいてくれたのは、やはりそういうことなのだろうか。
「姫が」イーシャットは何とか声を絞り出した。「行くかどうかは、はっきりとは、ただ、ビアンカ姫が起つことを知れば、行くんです、あの子は、そういうバカなんで」
「ビアンカ姫が……ウルクディアでアイオリーナが引きずり出すつもりだと書いてよこしました。つまりもう、知ってるはずですよ。ウルクディアにビアンカ=クロウディアが生きてると知らせたら、それはもう起ったも同然ですからね」
カーディスは静かに言葉を重ねた。
「行くと、思いますか?」
「行きます。早く、」
「――わかりました。すぐに軍を返します」
カーディスの決断は素早かった。が、それは流れ者が止めた。
「待てよ。あんたが今の段階で兵を動かしちゃまずいだろう」
「そうです、ですが放ってはおけません。断じて」
「そうか。なら俺を雇え。俺ぁあの娘に庇護を宣言したから安くて済む。いいか、あの娘にゃグウェリンとフェリスタと、フェリスタの選んだ八人の流れ者がついてて、草原の民の長も、あの娘が王妃宮に行くかもしれねえってことまでは知ってる。草原の民の庇護は今あの娘にあんだってな? だから必要なら地下街から草原の民が大挙して押し寄せる。その上評判のいい流れ者ばっかり十人もの庇護を受けた娘だ。グウェリンとフェリスタの名にはかなりの価値があるんだぜ。その上【アスタ】のデリクと用心棒も宣言したってグウェリンが言ってたし、そこまで来ればな、あの娘が要請すれば元締めも動くかもしれねえ。そしたら全ての流れ者が彼女に与するも同然だ、一個連隊くらいの戦力にはなる。必要なのは、だから、兵より警告だ。あんたが兵を動かしたらな、コルなんとかって男が知らせなくても、王は王妃を捕まえようとすんじゃねえか。余計に危険が増すだけだ、そうだろう?」
カーディスは唇を噛んだ。
「……そうですね」
「幸い草原の馬がある。さっき出た男にも追いつける。奴に追いついて警告をやめさせ、その後王宮に向かって【最後の娘】に警告する。必要そうなら地下街に行って元締めを引きずり出す。あんたが兵を動かすよりよっぽどいい。な? 俺は今懐があったけえから、玉五個にしといてやるぜ」
「それなら」イーシャットは口を挟んだ。「恥を忍んで、頼む。グウェリンに、警告してくれ。エスメラルダの、中に、姫の行く先を、探り回ってる、謎の人物が、いるって」
「なんだそりゃ……わかったよ」
流れ者は呆れたようだが、頷いてくれて、イーシャットはホッとした。エスメラルダ内に裏切り者がいるなどと、外部の人間に出来るならば知られたくはなかったが、もはや仕方がない。でもこれで肩の荷が下りた。息を吐くとすかさずデボラが額をぺちんと叩いてくれた。
「寝るんじゃない。頑張るんだよ。姫様がご無事で戻っても、あんたが死んでたら台無しだろ」
カーディスはずっと思案していたが、流れ者の案に乗ることにしたようだった。
「ではそれで、お願いします。ぜひ。でも明後日の昼にはどちらにせよ、兄上と合流しますから、猫を被っていられるのもそれまでですよ」
「そんだけありゃ充分だろう? 鳩を禁じてくれ。そうすりゃあんたが寝返ったという情報が届くまでに四日はかかる。俺がコルネリウスを捕まえてアナカルディアについて、そうだな、二日経っても、あの娘が王妃宮につかなかったら、取っ捕まえて何としてでも諦めさせる。それでいいんだろな」
「……会ったら絶対諦めさせてほしいんですけどね」
「そりゃ無理だと思う」
流れ者はあっさり言った。イーシャットはデボラに耳をつねられながら、同感だ、と思っていた。
「魔物の前に出て行くのをな、グウェリンがすげえ形相で止めてたが、頑として引かなかった。あれを諦めさせるには、それこそぶん殴って縛りつけでもしねえと無理だっただろう。草原の民の庇護ってのは厄介なもんでな、絶対死ぬってわかってるんでもねえ限り、対象の意思を尊重するってのが、奴らのやり方なんだ。護衛と違って、『敬意を払う』ってのが主眼だからよ」
「あのガスが止められなかったんですか……ガスより強情ってどんなんだろう……わかりました。コルネリウスを排除して、僕が寝返ったと知られる前なら、入るのは問題ないと思うんですよ。問題は出る時です。姫にはガスがついてます、彼が王妃宮を出る時に使いそうな裏道はふたつ、どちらも王に知られているとは思えません。来てください、見取り図を書きます」
ふたりが出て行く音がして、イーシャットはため息をついた。眠ってしまいたかったが、眠ってしまってはもう目が覚めないかもしれないと思うと、まだしがみついていなければならないのだろう。それにデボラが許してくれるとは思えない。いい女だとあの流れ者は言ったが、確かにいい女のようだ。ラシェルダには負けるけど。
そして少しだけ安堵した。死にかけている時には、普通、妻や子どもの顔が浮かんだりするものだろう。けれど今は全然浮かばなかった。多分近々また会うからだ。そう思うことにして、ため息をつくと、デボラが耳を引っ張った。
「……寝るなって言ってんだろう? あたしの言い付けに背くとはいい度胸だね、あんた」
「じゃあなんか、喋ってて、くれよ」
「甘ったれるんじゃないよ」
毒づいたが、デボラは矢継ぎ早に喋り始めた。
「あたしゃデボラってのさ。さっき王子が呼んでたけど、あんたはなんて名前なんだい? いー、とか聞こえたけど」
聞こえてなかったはずがない、
「返事はどうしたんだい!」
「……イーシャット」
うめくとデボラはああそうかいと言った。
「変な名前だね。あたしゃアンヌ様の召使いでね、王子に手紙を届けにきたんだ。さっきいた流れ者、ルードってんだけど、ルードがつれて来てくれてね。手紙を託したのはアイオリーナ姫だけど、そもそもは、あんたがたの【最後の娘】がウルクディアで雇ったんだってさ。しかしあの【最後の娘】ってお方はいったいどうなってるんだい? ――寝るんじゃないよってば!」
べちんと額を叩かれてイーシャットは苦笑した。至れり尽くせりだ。
「近況を知りたいだろうねえ? アイオリーナ姫がラインディアのご自宅から魔物に拐かされてさ、どうやってかわからないんだけど、気が付いたらウルクディアだったんだってさ。それでちょうど将軍を訪ねてきてた【最後の娘】とアルガス=グウェリンと草原の民が、そのままウルクディアに追っかけてったんだって。不思議なもんで、一瞬でラインディアからウルクディアまで移動したらしいんだよ。それで【最後の娘】がウルクディア兵を要請して、その上十人からの流れ者を雇って、ご自分も乗り込んで、アイオリーナ姫を救出したって、顛末らしいよ。お怪我をなすったとかで、伏せっておられたそうだけど、ルードが出るときには起きられるだろうって話だったそうだから心配は要らないよ。ねえ、大丈夫だよ、ルードは変な奴だけど腕は確かだ。コルなんとかって男もきっと捕まえてくれるから。あいつね、あたしを抱え上げて兵を数人蹴倒して逃げたんだよ。そんなすごい奴なんだ、だから大丈夫――」
「おおう、褒められてるとは思わなかったぜ。光栄だなデボラ、結婚する気になったか?」
唐突にルードの声が再び響いた。デボラが息を吸った。
そして怒鳴った。
「そこで何やってんだいこのろくでなし、とっとと行きな!」
「行く前に妻に挨拶するくらいいいじゃねえか」
「誰が妻だよこの能天気野郎が! とっとと行っといで、ちゃんと働かなきゃ承知しないからね!」
「働いたら承知してくれるのか? いいこと聞いたな。あんたら今の聞いたな? 俺も聞いた。そこのケガ人も聞いたな? よしよし、やる気も出るってもんだ」
「誰が! いつ! そんな話をしたんだいこのボケが!」
イーシャットは顔を歪めた。この状態で笑わせないでほしいものだ。
話すうちに衛生兵が、腹の傷を縫い終えていた、ようだった。感覚が既になく、痛みは全く感じないが、薬をたっぷりしみ込まされた布をあてがわれ、包帯できっちり巻かれると、少し暖かくなった気がした。再び喉に薬を流し込まれて、更に暖かくなった。足の傷も縫われて、添え木をあてられ、しっかりと固定されていた。薬によってだろうか、それとも限界が来たのだろうか、意識が遠のくのを感じた。デボラがすかさず耳を引っ張ろうとしたが、衛生兵が止めた。
「よくやってくれた。だがもうこれ以上起こしておいても仕方がない。やるべきことはやった。後は本人の――」
デボラがわななく息を吐いたのが感じられた。いい女だけど、とイーシャットは思った。妻以外の女の膝の上で死ぬわけにはいかないではないか。ラシェルダに殺される。
だから大丈夫、と、思った。死んだりしない。少し寝るだけだ。
――ほんの、少しだけ。




