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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第九章 再会
119/251

再会(2)

     *


 街の南側には北より多くの兵がいた。

 少し離れた場所、森が始まる辺りには、さらに多くの兵がいた。人垣ができているのだ。黒髪の娘らしき人影はどこにも見えない、と、兵がこちらに気づいて二騎、やってきた。


 ある程度近づくや、アルガスが鞘に収めたままの剣を掲げて見せる。どうやら、その柄に描かれた紋章が、通行証代わりを果たすらしい。ラインディアの兵は頷いて、人数が違うな、と言った。


「リヴェルでひとり加えた」

「そうか。エ……かの方が刺客に襲われた。いや、ご無事だが、我々が追跡中のため、出立は少し待ってくれ」


 話すうちにも人垣がどんどん近づいてくる。と、その中央がちらりと見えた。覆いを取り払われた輿の上で所在無げに膝を抱えていた黒髪の若い女性が、こちらに気づいて、ぱっと顔をほころばせた。若い、とニコルは思った。自分より年下に見える。


「お疲れさま」


 第一声は思いがけないことにねぎらいの言葉だった。流れ者たちは少し離れた場所で馬を降り、彼女に近づいて行った。彼女も輿を降りてこちらに向き直る。その隣に、いつの間にか厳つい大柄な男が立っていて、その男は彼女のにこやかさとは裏腹に、厳しい表情を崩さなかった。

 と、


「何やってんだあ娘っ子……!」


 唐突にグリスタが叫んだ。娘っ子と呼ばれた女性がきょとんとするが、


「なんでそんな旅装なんだよおまえ、ふりふりはどうしたふりふりは!」

「は?」

「もうちっと考えてくれよ、せめてあの召使いの制服くらい着てくれたっていいじゃねえかよ! 明るいところで見られんの楽しみにしてたのに!」

「……は?」

「何言ってんだてめえはあ!」


 彼女の隣にいた厳つい男が正面から平手でグリスタの頭をはたき、グリスタが頭を押さえて抗議の声を上げた。


「何しやがるフェリスタ!」

「おめえの頭ん中はそれしかねえのか、ええ!? 脳みそ見せてみろふりふりが詰まってんだろふりふりが! そんなに好きなら自分で着ろ!」

「おいおい馬鹿なこと言うなよ、俺に似合うわけがねえだろう! 想像させんな、謝れ! ふりふりに!」

「ふりふりにかよ! お前とことんバカだな!」


 彼女は目を丸くしていたが、そこまで聞いて、口元に手を当てて――


 そして、笑い出した。こちらまでつられて笑いたくなるような、それは心底おかしそうな笑い声だった。周囲のラインディアの兵も、流れ者たちも口を押さえて笑いをこらえている。もちろんニコルもだ。グリスタとフェリスタは睨み合ったが、


「……そんでそっちの若えのはなんだ」


 とフェリスタが話を変えた。ニコルは即座に笑いをおさめてぴんと背筋を伸ばしたが、彼女は何とか笑いを抑え込もうとして、果たせず、しゃがみこんだ。ごめん、と、苦しげな声が聞こえる。


「ちょっと、ちょっとだけ、待って」


 ニコルは安堵を覚えていた。

 アイオリーナ姫の友人だというが、この笑い声を聞くと、なんだかあまり緊張しなくていいような気がしてきた。


「刺客に襲われたというのは?」


 アルガスが訊ねる。フェリスタと呼ばれた男は森の方を顎でしゃくった。


「あの木から撃ちやがった。毒矢だった。お前ならわかるんじゃねえかって娘っ子が言うが」


 兵がちょうど差し出した矢をフェリスタは注意深く持って、アルガスに差し出した。矢の先が黒く汚れている。


「……フェリスタのお陰で助かったんだ」ようやく笑いをおさめた彼女が、まだ少し苦しそうに言った。「すごかった。飛んでる矢を矢で弾くなんて初めて見たよ」

「ああしなくても間に合ってただろうがな」


 フェリスタは言って、アルガスを見た。


「どうだ、グウェリン?」

「魔物の毒で作られてるものだ。誰にでも手に入るものじゃない。まともに当たったら馬でも殺せる」


 アルガスは言って、彼女を見た。


「あの時と同じものだ」

「やっぱりそうなんだ。焼かないと捨てられないんだよね? 森の中に壷が落ちてたんだって、そこも焼いてもらえますか?」


 それはラインディアの兵に言った言葉だった。ラインディア兵がひとり、うなずいて離れて行く。


「大勢じゃなかった。多分ひとりだな。毒の壷も落としていったし、今後も警戒してりゃ手も出しにくいとは思うが」


 フェリスタはそう言って、彼女を見た。もう笑いの発作もおさまったようなのを確認して、ニコルに視線を移した。とても鋭い視線だった。見られただけで威嚇されている気分になる。


「んでそっちのはなんなんだ」

「リヴェルで会った」


 アルガスは言い、話す速度をゆるめた。もともとゆっくり話す人なので、そうすると噛んで含めるような口調になった。


「ウルクディアの出身で、街兵見習いをやっていた時に、黒髪の娘を捕らえるのを拒んで焼いたそうだ」

「……それって」

「名前はなんてんだ」


 フェリスタが睨む。ニコルは頭を下げた。


「ニコルと言います! どうか雇ってください!」

「……えっと」

「へえ、ニコルってのかあ」


 フェリスタの声に顔を上げると彼女と目があった。背が低い、とニコルは思った。バーサより低い。それにどこの出身だろう、あんまりこの辺りでは見かけない顔立ちだ。

 特に目を引くのは肌の色だ。たまごの黄身をたっぷり使って作ったクリームのような色合いで、びっくりするほどなめらかだ。


「【アスタ】でバーサという娘がいたのを覚えているか?」


 アルガスが訊ねる。彼女はうなずいた。


「ああ、バーサ。覚えてるよ。すごく親切な子だった。話しやすくて」

「彼女はリヴェルの出身で、『まだら牛』という宿の娘だ。ニコルはそこに雇われていた」

「お情けで」


 とニコルは付け加えた。腕のよさや有能さでは売り込めないのだから、ここはもう情に訴えるしかない。


「戸籍を焼いたはいいけど、右も左も分からなくて……かあさ、いや、お袋が、バーサのおやっさんと昔なじみだったんで、同情して雇ってくれました」


 彼女は頷いた。


「そうなんだ……大変だったんだね」

「いや全然、でも、いつまでもおやっさんの好意に甘えるわけにもいかなくて、それで、」

「ふうん」彼女は首を傾げた。「でもどうなのかな。危険だから……」

「いえその、危険なのはいいんです、このままじゃ行くところもなくてのたれ死ぬだけなんで!」

「そうなの? それならいいけど」

「………………い」ニコルは仰天した。「いいの!?」

「いいよ。報酬はえーと……ごめん、えーと、流れ者の報酬って、経験とかで差がついたりするものなのかな……?」

「まあそうだ。初仕事に近えんだろう、ニコル。そしたら大体、四分の一くれえにはなるな」


 フェリスタが言った。当然だとニコルは思う。自分の腕でアルガスたちと同じ金額をもらったらそれは詐欺だ。


「じゃ玉一個と板二枚と盤五枚だね」


 彼女は言って、輿の上に乗せてあった背嚢を引き寄せて中を覗き込んだ。フェリスタはひー、ふー、と言いながら指を折って、


「……本当だ。速えな」


 ニコルは慌てて言い添えた。


「既に板三枚もらってるんです」

「じゃ板九枚と盤五枚だ」

「……気持ち悪っ!」グリスタが言った。「あってんのかそれ、勘か?」

「気持ち悪がられたのは初めてだ……待ってる間に両替しておいてもらってよかった。ガス、あなたの荷物も預かってる。そこにあるよ」

「ありがとう」


 アルガスはホッとしたようにその大きな背嚢を取り戻した。そういえばリヴェルでも【アスタ】でも手ぶらに近かった。この季節に。いったいどうして背嚢を手放す羽目になったのだろうと思うが、それを聞く前に、彼女がニコルを招いた。


「じゃこれ、どうぞ。よろしくお願いします」

「こ、こちらこそっ」


 手のひらの上にぴかぴかする板が九枚と、つるつるすべすべする盤が五枚、載せられた。思わずしげしげと見つめてしまった。こんな大金を一度に手にしたのは初めてだ。その間にも彼女は他の流れ者たちに、ひとりずつ、報酬を手渡している。最後に彼女はアルガスを見上げた。


「……案内人の報酬、まだだったよね」

「覚えてたか」アルガスは顔をしかめた。「忘れていればいいと思ったんだが」

「忘れるわけない。本当にこんな値段でいいのかな……王妃宮まで連れて入ってもらうのに?」

「いいと言ってる。これ以上払うなら契約しない」

「それは困るんだ……ああもう……」


 彼女がアルガスの手に載せたのは、板が一枚だった。ニコルの価値観から言っても、安い。


「……ルファ・ルダで受け取った報酬ってのはいくらだったんだ」


 フェリスタも呆れたように訊ねる。アルガスは珍しく不本意そうな口調で言った。


「棒が三十本だ」

「さんじゅっ……!?」

「冗談だと思うだろう。俺もそう思いたい。何とか返そうとしてもニーナ姫はもう帳簿につけてしまったから受け取れない、要らないなら捨てろと言った。どういうつもりだ。嫌がらせなのか?」

「これでお金の精算は、あとは、先行してくれてる人たちの分だけでいいのかなー」


 彼女は知らん顔で記憶を探るように指を折っている。どうやら本当に嫌がらせのようだ。多額の金を払うことで嫌がらせをするなんて、やはりただ者ではないようだ。アルガスはため息をつき、懐を探った。


「預かってた金の残りだ。そうそう、事後承諾で申し訳ないんだが、バーサがビアンカに手紙を出したいと言ったので、鳩に便乗させてもらった」


 言いながら彼女にふくらんだ革袋を渡した。彼女は革袋を見て、アルガスを見上げた。


「バーサが? ああ……そうなんだ。それは良かった、ありがとう。ビアンカ、喜ぶだろうね」

「便箋代も出してくれたんです」


 ニコルが言い添えると、彼女は不思議そうな顔をした。アルガスが呻く。


「便箋というのは本来とても高いものだ。少なくとも町宿の娘が簡単に買えるものじゃない」

「ああ、そうなんだ……? そうしてくれたの? ありがとう。そっか、それは良かった。今頃読んでる頃かもね」

「なんだ、便箋代も知らねえのかよ」


 ノーマンがからかった。彼女は頷いた。


「買ったことないんです」

「ねえのかよ!」

「いつも山ほど持たされる。手紙を書かない【最後の娘】なんて、翼のない鳩のように役に立たないってエルヴェントラが……」


 ニコルは息を詰めた。

 【最後の娘】。

 エスティエルティナ。

 エスティ……エルティナ?


「ええええええええエスティエルティナあっ!?」


 唐突な大声に一同は驚いたようにニコルを見た。ニコルは口をぱくぱくさせた。【最後の娘】って、【最後の娘】って、ルファルファの愛娘の片割れではないか!


「……知らせずに連れてきたの?」

「何か問題があるか?」

「……それはあるんじゃ……あれ? ない? ないかな? あそっか、まだ雇う前だったから……」


 アルガスと【最後の娘】が話すのを聞きながら、ニコルは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。


「そんな人がなんで生魚!?」

「は?」

「何でさばけんの生魚! 触るの嫌がるくらいしましょうよ!」

「……え、何の話?」

「うるせえな、坊主。何か文句があるのかよ」


 フェリスタにすごまれ、ニコルはぴたりと口を閉じた。冷や汗が流れた。なんだかものすごく、ものすごく、威嚇されている気がする。


 フェリスタはそもそも顔の作りが凶悪だ。それがすごむと、それはもう、それだけで胃に穴があきそうなほどの圧力だった。


「娘っ子に何か文句でも? 令嬢らしくねえとかとか言いてえわけか? 生魚さばけんのがそんなに不思議か、ああ?」

「いいいいいいえ全然不思議じゃないです全然全然」

「そうだろう。今度令嬢らしくねえとかぬかしやがったらただじゃおかねえから覚えとけ」

「……どうした風の吹き回しかな」


 彼女は苦笑して、ニコルに向かって微笑んだ。


「あたしはエスティエルティナ=ラ・マイ=ルファ・ルダ。詳しい仕事の内容も聞いてない? アナカルディアでアンヌ王妃をお迎えして」

「アンヌ王妃!」

「エスメラルダまで警護をお願いします。仲間は全部で、あなたを入れて、十一人。六人は先行して、アナカルディアで、調査とか、根回しとか、馬車の用意とかをしてくれてるんだって」

「こここちらこそ……よろしくお願いします……」


 思っていたより大事だった。ニコルはごくりと唾を飲んだが、もはや後には引けない。それに引く気もなかった。成る程【最後の娘】とアンヌ王妃ならば、ニコルに戸籍くらいぽんと出してくれるに違いない。


 ラインディア兵の許可はまだ下りない。いつしかアルガスは地面に座り込んで、取り戻した背嚢の中身を確認し始めている。彼女のことはなんと呼ぶのが正式なのだろうとニコルは不安になった。エスティエルティナというのは役名だし、ルファ・ルダというのは確か地名だ。ではマイ、というのが名前なのだろうか。姫、というのが。姫。姫?


「姫、それで、ウルクディアでは大丈夫だったのか」


 アルガスが過たずその名を何でもないことのように呼んだ。呼ばれた方も気にするでもなく、自分も座り込んで(地べたに!)背嚢を覗き込みながら、うん、と頷いた。


「何ともなかった。お騒がせしました。もう二度と会わないし」

「二度と? 同盟などで……」

「大丈夫。もう会わない」

「……命じたのか。宝剣を抜いて?」


 アルガスが姫を見る。姫はちょっと首をすくめるようにした。


「何があった、娘っ子。ちゃんと話しな」


 フェリスタも座り込んで訊ねた。いつしかみんな座り込んでいた。ニコルも慌てて座り込んで、みんなに倣って、自分の背嚢の中身を確認した。バーサからもらった荷物もより分けて、整理して、きちんと詰め込む。母にはいつももうちっと部屋を整理したらどうなんだい! と叱られていたものだが、背嚢の中身はちゃんと整理しておかなければいざというときに困るだろう。


 姫はふたりの視線に負けたように、ため息をついた。


「夜中に忍んでこられたので」

「ほほう。忍んでこられたと」

「兵がふたりも一緒に入ってきたよ。そこまでされたら遠慮する義理なんかないでしょう。だから廊下に蹴り出して命じて来た」

「それは窓からにするべきだったな」


 とアルガスが言った。話の内容はさっぱりわからないが、どうやら不穏な事態らしい。けれど、と、ニコルは思う。どうして誰も、兵をふたりと男をひとり、廊下に蹴り出すことが出来たことについて、疑問を投げかけないのだろう。ニコルとしては一番そこを知りたいのだが。


「でも味方してくれた四人の兵の前で命じたから、もう大丈夫だよ。コリーンにも命じておいたし、それに……アイオリーナがレノアさん、ああ、ラインスターク家の侍女だよ」


 侍女にさんづけか。思わず呆れてしまった。本当に【最後の娘】なのだろうか。


「レノアさんに念を押してた。コリーンという侍女頭、許し難いわ、って言ったら、レノアさんが笑って『お任せください』って言ってたよ。何するんだろうね、ドキドキしちゃうな」


 暢気な人だ、とニコルは思った。でも、確かコリーンといえば、母がいつも、誰にも言うんじゃないよと釘を刺して、ニコルと父親の前でだけ、盛大に毒舌をまき散らしていた相手の名前だ。母は滅多に人の悪口など言わないので、コリーンという上司はよほどの人物なのだろうと思っていた。つまりラインディアのアイオリーナ姫をも敵に回すような侍女だったのだろう。【最後の娘】に命じられ、アイオリーナ姫の侍女に報復を誓われるとは、母は今頃快哉を叫んでいるかも知れない。


 アルガスが背嚢を調べ終え、ラインディア兵の方をちらりと見た。追跡はまだ続いているらしい。ニコルは上を見上げた。もう昼が近い。


「ええと……代表殿がお弁当をくれたよ。数日分はありそうなくらい。ええと、代表殿の料理長が、腕によりをかけてくれたんだって。ちょっと早いけど、食べちゃおっか。【アスタ】での調査も聞きたいし」


 姫がそう言ってくれたのでニコルはホッとした。朝が早かったので、とても腹が減っていた。それにしてもとニコルは思った。代表殿の料理長といえば。


「ウルクディアでは賓館に滞在してたんですか」


 訊ねてみると姫は頷いた。


「そうだよ」

「じゃあ食事、お気に召しましたか。うちのかあ……いやお袋も担当してんですけど」

「そうなの?」姫は一瞬の間をおいて、それからニコルを見上げてにっこりした。「そうなんだ。いつもすっ……ごく美味しくて感動したよ。お母さんてすごい人だね」

「なら良かったです。まあ首になってなければなんだけど」

「だ、大丈夫なんじゃないかな。うん。大丈夫だと思うな」


 言いながら彼女は輿の上に乗せてあった大きな布袋から包みを取り出してひとりひとりに配り始めた。ニコルは輿の下に火鉢とやかんが用意されているのを見て、引きずり出して火を熾した。彼女に食事を用意したのが母だったらいいなあと思った。そうだったなら、彼女はウルクディアに、少なくとも食べ物の不味い街だという印象だけは抱かなかったはずだ。


 湯を沸かして茶をいれて全員に配るとニコルは自分の分の包みを開いた。たっぷりした豪華な昼食が現れた。ニコルの好物である丸め焼きは入っていなかった、あれは焼きたてでないと美味しさの半分は損なわれるから当然ではある。けれどひき肉を一口大に丸めたものを甘辛いたれで煮込んだのが入っていて、ニコルは真っ先にそれを食べた。

 四ヶ月ぶりに、母の味が押し寄せてきた。


「お母さんの味だった?」


 姫に言われて、表情を変えずに頷いた。


「そっか」


 姫は微笑った。ニコルは無言で懐かしい味を口の中に詰め込んだ。

 もう家が恋しくなるような年齢ではない。だから別に、喉に何かが詰まったりもしないし、目尻に水がたまったりもしない。もう立派な大人なのだから。立派な流れ者になるのだから。


「【アスタ】では収穫はほとんど無かった。書類や手紙類の大半はもう処理された後のようだ。ただヒリエッタのいた小屋にこんなものが落ちていた」


 昼食を早々と食べ終えたアルガスが話し始めて、まだもぐもぐしている姫に、懐から取り出した小さな丸い石を見せた。親指の先くらい、半透明で、何だか干からびた印象の宝石だ。彼女は首を傾げ、それを受け取って、手の中で捻くり回した。


「……何だろうね、これ。デクターに聞いてみようか」

「それがいい」

「他にはなにか?」

「リヴェルでは少し収穫があった。バーサのお陰だ」


 アルガスはそしてヘスタの親戚がリヴェルにいたことと、ヘスタという人物が、どうもティファ・ルダと関わりがあるらしいということについて話した。ティファ・ルダだ、と、ニコルは少し緊張した。姫は眉をひそめた。


「ル・ジェンナ? ヘスタの奥さんが……ル・ジェンナ……ル・ジェンナ……」

「妻かどうかは。ごく親しい人、としか」

「ル・ジェンナ……ル・ジェンナ……なんか……聞き覚えがあるような……」


 彼女はしばらく息を詰めて脳を探ったようだった。

 しかし、そのうちため息をついた。


「だめだ、思い出せない。でも……なにがこんなに引っ掛かるんだろうな……」

「親戚の話を聞いてから、町中で噂を聞いて来た。ニコルのお陰でやり易かったぜ」


 とグリスタが言ってくれて、ニコルは嬉しくなった。いろんな人に話を聞き回るのはどうも自分に向いているらしい。少なくとも剣を握るよりは。

 ヘスタの親戚はリヴェルでは本当に評判が悪かった。バーサも嫌がっていたとアルガスは言った。リヴェルに来たのは【アスタ】が終わる半年ほど前で、引き払うつい最近まで、近所付き合いもろくにせず、町内の会合や掃除にも顔を見せず、昼から家に閉じこもっていて、夜になると人相や雰囲気の悪い人間が引っ切りなしに訪ねてくる。ジェインという老婆がその家を貸していたのだが、貸すんじゃなかったとまで言っていたとか。ヘスタの親戚じゃなきゃ早々に出て行ってもらっていた、とも。


「親戚か……何だか嫌な感じがするね。半年前からいたのなら兵も呼べる……」


 姫は聞き終えて、そう言った。それからみんなを見回して、にっこりして、頭を下げた。


「お手数かけました。どうもありがとう。雲をつかむような話だったから、大変だったでしょう」

「いや、ほとんど何も分からなかった」

「ううん、そんなことないよ。ル・ジェンナがすごく引っ掛かるんだ。うーん……」


 よほどに引っ掛かるらしく、彼女は、昼食の片付けを終えて、ラインディアの兵が追跡をあきらめたと言いに来るまで、黙ってしきりと考えていた。ニコルは流れ者たちの会話から、最近の状況を推察しようと目と耳を忙しく働かせながら、頭のどこかで考えていた。ヘスタのごく親しい人間である、ル・ジェンナという人物の名を、彼女がどうして知っているかもしれないと考えているのだろうかと。ル・ジェンナはティファ・ルダの住民だったという話で、ということは、つまり。


 ――【魔物の娘】についてどう思うか。


 アルガスの静かな質問が思い出された。


 ということは、つまり。

 やはり、そういうことなのだろうか。なんてことだ。

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