間話7-2 ケヴィン(2)
朝まだきである。
夜中歩いてたどり着いてみると、ウルクディアは包囲されていた。一昨夜、いや夜半過ぎだからもう昨日だ、初めの騎士が着いたと思うと、それからはもうあっという間だったとドーリッシュは語った。もともとウルクディアに罪を着せるつもりではあったが、まさか包囲までするとは思わなかったので、ケヴィンは呆気に取られた。しかも兵の数は続々と増え、こんなに大勢の兵で包囲しては、カーディス王子が万一危機に陥って救援を求めても間に合わないのではないだろうか。救援などする気はないのだろうかと思ってぞっとした。第一将軍はついに王を見限るのだろうか。
アイオリーナ姫の拉致に失敗したのは、返す返すも痛い。
「しかし良く逃げ出したな」
逃げ足の速さを褒めるとドーリッシュはため息をついた。
「危ないところだったよ」
全くだ、とケヴィンは思う。本当に危ないところだった。
アイオリーナ姫の拉致に、使える兵の半数近くを割いていた。逃げ出せたのはそのうち、ほんのわずかだった。元々数の少ないところへ来て、ティファ・ルダの名を持つドーリッシュがここで足止めを食らっては、計画に大きな齟齬が生じるところだった。
「とにかく計画どおり、エスメラルダへ向かうんだ」
ケヴィンは懐を探りながらドーリッシュに言った。
「マーセラの大神官を迎え撃つため、エスメラルダの警備は甘くなる。おまけに俺たちの顔を知る者はまだ外にいる。戻る前に潜んでおく必要がある」
「わかってる」
ドーリッシュは言い、ウルクディアを包囲するきらめく甲冑の群れを眺めた。そして指さした。
「今は外にいるぞ。あの天幕の中だ。ほら、あの、深紅の豪奢な天幕だ。アイオリーナ姫と一緒だ」
「わかった」
「手紙はまだ出してないようだ」
「リヴェルで出した。大丈夫、鳩は捕らえた。手紙は焼いた。ヘスタの正体に気づきやがった。どうなってんだ、全く――ああ、やっとあった。ほら、これ。バーサって娘がビアンカ=クロウディアに宛てて出した手紙だ。これは焼かずに持ってきたんだ、たぶんお前の方が先につくだろう。エスメラルダに行ったら渡してくれ」
「おいおい」
ドーリッシュは呆れたようだ。ケヴィンは笑って見せた。
「【アスタ】の事後処理をしていた人物が、来る途中で預かってきたとヘスタに言わせればいいだろう? この手紙のおかげで助かったんだよ、これまで焼いたら哀しむだろう」
「おいおいおい」
ドーリッシュはケヴィンの手の手紙を見て、やれやれ、と首を振った。
「全く酔狂な男だよ、お前は」
「頼むな」
「自分で渡しゃいいだろう」
「ヘスタに嫌みを言われる」
「俺も言うぞ」
だろうな、と言うと、ドーリッシュはため息をついて、
「しょうがないな……」
手紙を懐にしまった。一度受け取った手紙だ、気が変わって捨てたりはしないだろうと安堵して、ケヴィンは足踏みをした。さくさくと雪が音を立てる。
「アルガス=グウェリンが離れてる。合流前に何とか出来るといいんだが」
「エスメラルダに戻られたら厄介だからな。お前の顔も見られたんだろう?」
「七年前だが……覚えてるだろうな」
こちらだって忘れていない。向こうは絶対忘れないだろう。幼かったからと甘く見るのは禁物だ。ケヴィンは地図を広げてドーリッシュに見せた。
「お前はアリエディア経由で戻れ。俺はアナカルディア経由で戻る。あの娘がどちらを通るかわからなかったからな。毒は持ったか?」
「ああ」
「護衛と合流する直前に必ず隙が出来る。いいか、し損じても逃げろよ。エスメラルダに戻る前に機会はまたあるはずだ、狙撃は有利だからな、あの毒はかすっただけでも効果はあるんだ」
「ああ」
「それからもうひとつ――」
ケヴィンは早口で、鳩を仕留めたときに出会った猫に似た魔物との邂逅について語った。エスメラルダに着いたら噂を蒔くように、ヘスタや他の仲間たちにもくれぐれも、と念を押した。そして、先に着くのがドーリッシュであってくれればいい、と心底思った。あの“猫”の言うなりになって手足のように動く役回りは、できれば他の人間にお願いしたい、と。
ドーリッシュが頷いた。ドーリッシュは、ケヴィンが“猫”に対し抱いている反感には気づかなかったようだった。ふたりは頷きあい、それ以上は何も言わずに踵を返した。
ドーリッシュは右へ向かった。森づたいにウルクディアを迂回してアリエディアへ向かう。ケヴィンは左へ行った。彼も森づたいにウルクディアをぐるりと大回りして、南へ。急がなければと早足になった。もうあの娘はウルクディアを出た。今日の早い時間の内に出かけるだろう。どちらへ行くかはわからないが。
“猫”の力や策などに頼らずとも、絶対にあの娘を仕留めてみせる。そう思うと自然に早足になった。
リヴェルにいたアルガス=グウェリンはこれからどうするのだろうと、歩きながらケヴィンは思った。
合流するなら戻ってくるだろう。もうすぐ後ろまで来ているかも知れない。ヴィード=グウェリンの養子だ、ティファ・ルダのディオノスの養女を、護衛しないわけがない。しかしいったいなぜリヴェルなどへ行ったのだろうと再び疑問が兆した。仲間はいないようだった。いったいなぜ、護衛の対象を放り出してまで、なぜ、ひとりで。
たぶん何か個人的な用があったのだろうと思おうとした。そのついでにあの娘に手紙を出すのを頼まれたのだろう。そうでなければウルクディアで出さない意味がないではないだろうか。そう思おうとしたが、不安は澱となって胸に残った。
*
アナカルディア経由が正解だったと知ったのはその日の昼過ぎだった。
ケヴィンはウルクディアからしばらく南下した街道沿いの、森の始まる辺りの、木の上でまどろんでいた。そして遠いざわめきに気づいてはっとした。しまった、少し寝てしまった。こんな時だというのに。
待ち伏せには最適の場所だ。あちらの姿は丸見えで、こちらは森の中。万一見つかっても森の中を逃げられる。ケヴィンは周囲を見回した。少し離れた辺りに、男がひとり、木を背にして座り込んでいた。草原の民だとケヴィンは思った。それも純血か、それに近いらしく、もじゃもじゃの髪に凶悪な顔立ちをしている。まだ若そうだが、草原の民の年齢はすぐには解りづらい――
あちらもうたた寝をしているようだった。ざわめきにも顔を上げる様子もない。
遠くから馬車の音が近づいてきていた。ゆったりと進む馬車の回りを、ラインディアの兵たちが取り囲んでいる。男がそれでも起きなかったので、ケヴィンは意識を馬車に向けた。そしてひそやかに動いて弓を用意した。毒の入った壷に矢の先を浸して、息を吹きかけて少し乾かす。
馬車が少し離れた場所で停まった。
黒髪の娘がひとり、降りてきた。
兵が取り囲んだ。ケヴィンは七年ぶりに、【魔物の娘】の姿を眺めた。大きくなってはいたが、それでも華奢で小さく、若かった。顔立ちの美醜は問題ではなかった、ただ、アナカルシス周辺の民とは似ても似つかない顔をしていることは、七年前と変わらなかった。彼女は馬車の中の人物に挨拶をして、それから、馬車と兵たちが向きを変えるのを見守った。絶好の機会だとケヴィンは奮い立った。彼女のそばに残る兵はほんのわずかだ。きっとここで、アルガス=グウェリンを待つのだろう。
七年前から左手はほとんど言うことを聞かない。
木の上に座り込んで、右足で弓を抑え、右手に矢をもって番える。体を後ろに引きざまきりきりと弦を引いた。そして兵の間から彼女が姿を見せるのを待った。
弓は得意だった。七年間の鍛練で、左手がなくても同じように標的を射ることができるようになった。それでもこの姿勢になるといつも悔しさが胸に渦を巻く。こんな姿勢を取らなければ、得意の弓も使えない。
その恨みを今晴らせるのだと思うとぞくぞくする。
遠いが、外すとは思えなかった。呼吸を整えて、意識を集中した。黒髪が動いて、一瞬、ケヴィンの前に、その無防備な背を晒した。
ケヴィンは矢を放った。
瞬間、娘が振り返った。鋭い視線がケヴィンのいる辺りをかすめた。胸元に手を上げた。剣が現れた。これは弾かれるかと思って次の矢に手を伸ばした時、
空中で、矢が弾けたように見えた。
娘のところへ届く前に、横から飛来した何かがその矢を弾いた。ケヴィンは呆気に取られたが、すぐに第二弾が、過たず自分のいるすぐそばへ突き立って、驚いて木から転げ落ちた。先程眠っていたはずの草原の民が、いつの間にか弓を番えていた。まさか矢で、空中を飛ぶ矢を弾いたのか。驚愕に身が震えた。まさか、まさか、そんな。
――俺にだってそんな芸当は無理だ、
その木だと、野太い声が怒鳴った。ラインディア兵、何をしてやがる、刺客が落ちたぞ!
声と共に、続けざまに矢が飛んでくる。
背嚢は背負ったままだったので助かった。だがあの毒の壷は落ちた拍子にひっくり返ってどこかへ行ってしまった。臍を噛みながらケヴィンは走った。悔しさが湧き起こるが、ここで止まっても目的を遂げられるとも思えず、どころかティファ・ルダの名をもつ自分が捕まっては大変なことになる。
でも悔しかった。悔しくてならなかった。七年の恨みを晴らせる機会だったのにと、まだ思いながらケヴィンは逃げた。自分よりも優れた弓の腕をもつ男が存在することも許せなかった。あちらには左腕があるからだと、自分に言い聞かせた。自分だってあれくらいできる。左腕さえあれば。あの娘に奪われてさえいなければ。
アルガス=グウェリンに加えて、飛んでいる矢を撃ち落とすことができる草原の民。さらには第一将軍、つまりラインディア兵までもが彼女の陣営に加わった。“猫”が蒔けと言った噂ではないが、本当に、まるでルファルファの加護が彼女にあるかのようではないか。ふつふつと腑が煮える。七年前に見た、あの涙と憎悪の表情がじくじくと胸を灼いた。第一将軍もラインディア兵も、あの娘の本質に気づいていない。あれは憎悪と呪いの権化だ。あれを野に解き放った責任は王、そしてケヴィンを初めとするアナカルディア兵にある。その責任を全うするために、ケヴィンは流れ者のような生活を送り身をやつして働いているのに、何もかもがうまく行かない。誤解され、貶められ、虐げられ。毒に蝕まれ神経が死んだ左腕の中には、彼女への憎しみと怒りが詰まっている。
殺してやる。何としてでも。
あの“猫”などに、この恨みを横取りされて――たまるものか。




