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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第二章 アスタ
11/251

アスタ(2)

   *


 新入りをようやく見つけた時には、既に昼食の時間になっていた。


 エルティナという名だという彼女は、小川のほとりに生えた木に背を預けて、鴉に餌をあげていた。ロギオンから出された昼食をそのまま鴉と分け合っているらしい。贅沢な鴉だわ、とビアンカは思った。鴉なんて、残飯で充分なのに。


 少し離れたところでとっくりと彼女を眺める。小柄だ、と思った。平均的な背丈のビアンカの、鼻の辺りにようやく頭が届くかどうかというほどの身長しかない。細身で華奢に見え、こんな子がどうして独り旅をしているのだろう、と疑問が湧く。


 見つめる視線に気づいたのか、エルティナが顔を上げた。


「こんにちは」


 ビアンカは微笑んで、持参した昼食の包みを持ち上げて見せた。


「ここあたしのお気に入りの場所なの。近くで食べても構わないわよね」

「こんにちは。――もちろん。お気に入りの場所とは知らず、失礼しました」


 微笑んだエルティナの声は意外に落ち着いていた。低くはないが、深みのある声、と言うか。この声が黄色い悲鳴を上げるところなんて想像できない。ビアンカはエルティナの印象を改めた。ひとつふたつ年下に思ったけど、もしかしたら年上かも。


「そんなことないのよ。あたしビアンカ=クロウン。あなたはエルティナよね」

「そう。先ほどはどうも」


 村長の小屋が開いたとき、目があったのを覚えていたのだろう。ビアンカは笑った。


「こちらこそ、先ほどはどうも。大騒ぎで驚いたでしょ。あなた運が悪かったのよ。よりによってアルガスにつれられてくることないでしょうに」


 エルティナの目の前に無遠慮に座り込み、昼食の包みを解きながら、エルティナが膝に乗せた鴉をまじまじと見つめてみせる。もちろんエルティナにわかるようにだ。エルティナは、


「どうして?」


 訊ねてきた。そう来たか。ビアンカはまだ鴉に目を向けたまま、次の手を打つ。


「アルガスはこの【アスタ】では人気者のひとりなの。【アスタ】に出入りする男性陣の中ではまあ、二番目か三番目ってところかな。あそこに集まってたのはだいたい彼のファンね。あたしは違うけど」

「違うんですか」

「うん、違う。友達は寡黙なところがいいって言うけど、あたしは好きじゃない。何考えてるかわからないし、一緒にいると緊張しそう。こっちを楽しませようとしてくれない相手には、親切にしてあげたくなくなるのよ。それが例え男じゃなくてもね」

「――この鴉はあたしの友達です。絶対に悪いことはしないから、追い出さないでもらえると嬉しいのだけど」


 エルティナの返答に、ビアンカは鴉からエルティナに視線を戻して、にんまりした。血の巡りは悪くない。


「あたしは敬語が嫌いなの。言っとくけど周りの子たちにも敬語はいらないわ。みんな同じ境遇なんだから、仲良くしましょ」

「は――うん」

「で、どうして鴉と友達なの?」

「で、アルガスさんについて聞きたいんだけど?」


 ビアンカはエルティナを見た。エルティナもビアンカを見た。視線が交錯し、双方一歩も譲らなかった。やや後、ビアンカは再びにんまりした。


「いいわ、そっちが先ね。どうしてアルガスについて聞きたいの?」

「【アスタ】の『用心棒』って言っていたでしょ。『用心棒』って何? どんな仕事するの?」

「理由はそれだけ?」

「え……と」

「違うでしょ。どうしてアルガスのことが知りたいの? 興味があるんだ? あなたもアルガスが好きなの?」

「えー……やだな。そんなんじゃないのに」


 エルティナは頬を赤らめた。

 それは言外に『そうなの実は』と告白したも同然の声音としぐさだった。聞き手がビアンカじゃなかったら、多分騙されてしまっただろう。ぱくぱく食べ続けていた鴉が驚いたように顔を上げた。まるで話がわかるような動きだ。ビアンカは鴉を見つめ、それからエルティナを見て、


「……なあんだ、違うんだ」

「え。何が?」

「好きなわけじゃないんだ。そう言っとけばあたしが話すと思った? 迫真の演技だったけど、おあいにく様。このビアンカ様を騙そうったってそうはいかないわよ」


 エルティナは苦笑した。


「手強いな」

「同じことやってるからね。さてと。アルガスのことだけど、悪いけど、話してあげられることはあんまりないのよね」

「え、でも教えてくれるんだ……」

「あたし人の意表をつくのが趣味なの。アルガスはね、デクターと同じで、時々訪れるお客に過ぎないわ。【アスタ】にとどまっても長くて一晩、せいぜい半日ね」

「デクター……」


 つぶやきに、ビアンカは眉を上げた。


「知ってるの?」

「名前だけ」

「デクター=カーン。彼も謎だわね。アルガスよりは話しやすいけど、あんまりうち解けてくれないし。いつも服をびっちり着込んでるから、【契約の民】ってことは間違いないと思うんだけど。普通【アスタ】に来たらみんな開放的になって紋章出すのが普通よ。でもデクターは絶対見せないわ。だから【三ツ葉】なのかなって思うけど。見たわけじゃないからはっきり言えない」


 毎日贔屓にしてるせいか、どうしてもデクターへの比重が高くなる。でも気にしないことにした。エルティナはどうも、アルガスと同じくらいデクターについても聞きたがっているみたいだ。勘だけど、ビアンカの勘はよく当たる。


「アルガスもデクターも流れ者みたいよ。そこも変なのよデクターって、ここでならのんびり暮らせるのに、一員に加わろうとはしないのよね。デクターはどうも、いろいろなところの地図を描いているみたい。【アスタ】ではその地図を買ってるのかな。来るようになったのは最近よ。一年くらい前からかな。

 で……アルガスは本当に謎。普段何してるのかわからない。ただ腕がすごく立つらしいので、【アスタ】は用心棒に彼を雇ったって噂」

「用心棒ね」

「あ、もちろん軍勢が攻めて来ることに備えてじゃないわよ。ロギオンは様々な街に案内人を派遣してる。さっきガルテと一緒だったわよね。彼みたいな仕事をしてる人が、この辺の街には結構いるのね。その案内人を街から逃がさなければならないときや、案内人から鍵を受け取った人を【アスタ】へつれてくる、って仕事をしてる。もちろんアルガス一人でやってるわけじゃないけれど」

「ふうん」

「アルガスみたいな客人は結構いるのよ。【アスタ】は彼らに宿や食事や薬、それから伝言板を提供する代わり、彼らから様々なものを手に入れる。デクターの地図、アルガスみたいな人たちの腕や情報」

「そう……」


 エルティナは沈黙した。どうやら頭の中だけで、なにやら考えているらしい。ビアンカは待った。エルティナが思い出してくれるまで。

 ややしてエルティナは顔を上げた。


「あ……この子とはウルクディアで出会ったばっかりなの。飢え死にしかけてたから食べ物をあげて、同行することになった。この子はあたしについてくれば美味しいものが食べられる。だから一緒にいる」

「それじゃあなたの理由は?」

「この子は人間なの」


 ビアンカは瞬きをした。冗談だともちろん思ったが、エルティナは真面目だった。


「体は鴉だけど、心は人間なの。名前は――ルヴィ」

「ルヴィ?」

「あたしよりちょっと年下くらいの女の子。可愛い子なんだよ。あたしたちの会話も全部わかって聞いてるから、喋る内容には気をつけて」

「うん、わかった」

「……って」


 エルティナは首を傾げた。


「信じたの?」

「うん。……うーん。信じたとは言えないけど、あたし人を見る目には自信があるのよ。あなたが悪い子じゃなさそうってことはわかったし、嘘ついてないってことはわかる。それがわかれば、鴉の中に本当に人間が入ってるかどうかなんてあたしにはどうでもいいの。あなたが嘘をついてないってことは、その鴉に人間が入っているってあなたは信じている、ってことよね。あたしもそう信じるかどうかは、また別の話よ」

「なるほど。潔いな」

「だてに苦労してないからね」


 言ってしまってからビアンカは驚いた。

 何を言い出してるんだろうあたし。

 案の定エルティナが首を傾ける。


「苦労」

「そう。……あれーもう、何で言っちゃったのかな。ええと……」

「話したくないなら聞かないけど」

「ううん。話したくないわけじゃないと思うんだ。でも今までこんなことまで言っちゃったことなかったからな」


 口を滑らせたことに動揺して、ビアンカは少々焦っていた。どうしたんだろうあたし。思い返せば本当に不思議だ、何をこんなにぺらぺら喋ってるんだろう。アルガスのことも、デクターのことも、こんなに親切に事細かに話す必要なんかなかったのに。


 何より不幸自慢は嫌いだった。今まで、人の話はたくさん聞いたけど、自分のことを話したことはほとんどなかった。少なくとも【アスタ】に住む友人たちの中で、ビアンカの過去を知っている子は一人もいない。言う必要がなかったからだ。


 それなのにどうして、この子には言ってしまったんだろう。出会ったばっかりなのに。言う必要だってもちろんないのに。


 そしてどうして、続けて喋ってしまいたいと、思っているんだろう。


「あたしの父はこの辺りの領主だったの」


 口は勝手に動いていた。エルティナは黙って頷いた。このせいだ、と感じながら、ビアンカの口は止まらなかった。


 ――何だこの信じられない聞き上手。


 気をつけないと、お腹の底の底までひっくり返して喋ってしまいそうだ。

 話す必要なんかない。話さなくていいのだ。そう理性は囁き続けたが、ビアンカの口は止まらなかった。今さら『何でもない』で済ませたら、ビアンカの一番嫌いな『もったいぶり屋』になってしまうし、作り話を考える暇なんてない。


 エルティナが一瞬でも退屈したそぶりを見せたらすぐにやめること、と、自分を戒めながらビアンカは話し続ける。


「結構裕福でね、有力な貴族だったの。あたしの正式な名前はビアンカ=クロウディア。クロウディア家と言えばまだ畏まる人は大勢いるらしいのよ。結構善政布いてたらしいし。

 でもあたしの父さんって人がもう底抜けのお人よしで」

「優しい人だったんだ」

「そうね……優しかったわ。でも間抜けだった。十年前、この地方に大きな飢饉があったの、覚えてる? あの時にアナカルディアの高利貸からお金を借りてね、食糧をどっさり買い込んで、領民に配ったの」

「すごいな」

「すごいでしょ。領主の鑑よね。ところがその高利貸が血も涙もない奴だった。お……とーさんは次の年の収穫で返済するって約束していたの。幸い領民が頑張ってくれて、お天気にも恵まれて、収穫はそこそこあって、利子分も含めてすっかり返せるはずだった。でも高利貸は利子を操作した」

「操作?」

「本当にしたかどうかはわからない。……お父様がきっとちゃんと確認しなかったんだとあたしは思ってる。でもあんな契約になってるなんて普通は思わないわ。返済は次の年だった。でもお父様の計算した利子は借りた年、つまり返済の前年のものだった。一年で利率があんなに上がるなんて」

「契約書にはちゃんと書いてあった?」

「残念ながら。ものすごく小さい字で、分かりにくい文章でね」

「最初からクロウディア家の土地を狙ってたのかな」

「……わからない。とにかく土地も屋敷も全部取られてお父様は亡くなった。びっくりし過ぎたのよたぶん」


 ビアンカは笑ったが、エルティナは笑わなかった。


「貴族だったんでしょう。王家や、他の貴族に、助けを求められなかったのかな」

「それもわからない。今となっては全然。本当よね、どうしてかしら。……で、お母様は借金を少しでも返そうと、高利貸の斡旋した『お仕事』を頑張った。この辺りじゃお母様を買う人なんていないから、アナカルディアでね、もちろん」

「……うん」

「でも貴族の令嬢だったんだもの、疲れ果てて一年で亡くなったわ。あたしは当時七歳。守ってくれてたお母様もいなくなって、ついにあたしの番が来た。ご覧の通り類い稀なる美少女ですから、あは。七歳でも買う人がいるってことには驚きだけど」

「……あたしも驚きだ」

「でも逃げ出した。絶対嫌だと思ったの。事情は当時はまだよく分かってなかったけど、迎えに来た人の顔を見て、この人についていったら絶対だめだと思ったの。それで逃げ出して、二年くらいアナカルディアの路上で暮らしたわ。物乞いだってしたし、人ん家のゴミを漁って食べられるもの探した。あたしも貴族の子女だったのに、たくましいでしょ」

「辛かったね」


 ぽつりと言われた言葉は、とても重かった。

 同情と言うよりももっと深い、共感のようなものが感じられて、ビアンカは一瞬言葉に詰まった。なんだこの信じられない聞き上手、ともう一度思った。エルティナの呟きには万感の思いが込められているように思われた、そんなことあるはずないのに、エルティナも路上で物乞いしたことがあるのではとさえ思った。一体自分はどうしてしまったんだろうとも、もう一度思ったが、ここまで来たら全部吐き出してしまわなければ止まれないことは既に分かっていた。たぶん、あたしはずっと、誰かに話したかったのだ。今さらその事実を悟りながら、ビアンカは息を吸った。声が震えていませんようにと祈って。


「ロギオンに会ったのは九歳の時。【アスタ】ができたばっかりの時。ロギオンはあたしを拾って、人間らしい生活をさせてくれた。ご飯をくれてお風呂に入れてくれて、屋根と壁のある居心地のいい家と寝台をくれたわ。だからあたしは恩返しをしているの――少なくとも、そうしたいと願っているの。

 【アスタ】はあたしの楽園なのよ。ここでみんなが居心地よく暮らして、ロギオンに余計な面倒をかけないように、できるだけ協力――したいの」


 言いながら、だからアルガスが気に入らないのかもしれないと、初めて気づいた。

 アルガスを初めとする用心棒たちは、その腕でロギオンの役に立つことができる。さまざまな外敵から【アスタ】を守ることができる。誰よりもそれを望んでいるのは、他ならぬこのあたしなのに。

 あたしには【アスタ】の内側を何とかまとめる手伝いをすることしかできない――


「だからあたしは貴族の令嬢が嫌い。大嫌い」


 ここまできたら全部言ってしまおうと、熱に浮かされたように話し続けながらビアンカは思った。


「ここにも来たの、まだ一人目だけどね。王は貴族の人達にも手を出し始めているのかしら? それとも出される前にと親たちが先手を打っているのかしらね? 迷惑な話だわ、あの人はあたしたちを同じ人間だと思ってない。【アスタ】に匿われている身でありながら、下々の者と同じ家になど住めない、なんて平気で言うの。あたしはそんなの絶対許さない。ロギオンが許してもあたしは許さないわ。同じ人間なのよ、あの人だって。お腹がすいたら何でも食べるし、眠くなったら路上でだって眠るわ。毎日お風呂に入らなくたって死なない。薔薇の香水なんて必要ない。ここに来たら既に貴族じゃない、【アスタ】の住人になったからには、【アスタ】に協力してもらうわ、絶対に」


 そのために何をしているか、まで、話しそうになってさすがに思い止どまった。そんなことまで話す必要があるわけない。それに何も特別なことをしているわけではないのだ。【アスタ】を構成する人々、特に娘たちを、そそのかしたりおだてたり、なだめたりすかしたりするだけだ。


 沈黙が落ちた。

 不思議な熱はまだビアンカの中に渦を巻いていて、奇妙な快さが全身を満たしていた。ああ喋っちゃった、と後悔するような、気持ち良かったと堪能したような、もっと喋りたいような、喋ったことを全部もとに戻してなかったことにできたら、と願うような。

 急に恥ずかしくなって、下を向く。


「……ごめん、つまんない話しちゃった」

「ぜんぜん。すごいなって思った」

「本当? 軽蔑したりしてない?」

「まさか。感心した」


 エルティナはにっこりした。


「村長さんの言ったとおりだ」

「へ? ろ、ロギオンが!? なんて!?」


 思わず勢い込んでしまう。デクターの話をするときよりももっと胸が高鳴る。エルティナはさらに笑みを深めた。


「【アスタ】で居心地よく過ごそうと思うならビアンカを頼りなさい、って言われた。すごい褒め言葉だなって思ったけど、確かにそのとおりだ」

「……………………っ、やだ、もおー!」


 顔が沸騰するかと思った。

 思わず立ち上がって、そして座り込んで、意味もなくエルティナの肩を叩いた。また立ち上がって上を向いて衝動に耐え、また座り込んで下を向いて頬に手を沿えて、


「やだもー……ロギオン最高」

「いい人なんだね」

「いい人なんてもんじゃないわ。お人よしなのに腹黒いなんて最高よ。アンヌ様が彼を選ばれた理由が分かるわ」


 エルティナが、硬直した。ついでに言うなら鴉もだ。ふたりは奇妙に同じ表情をしていた。信じられない事を聞いた、本当に意外なことを聞いた、と言う、顔。

 今までにない反応に、暴れだしたくなるほどの嬉しさを一瞬忘れてビアンカは瞬きをした。なんだろうこの反応は。そんなに変なこと言っただろうか?

 エルティナが言った。自分の耳を疑うように。


「……アンヌ、様?」

「そうよ。ああ、知らなかったのね。【アスタ】を作ったのはアンヌ様なの。有力な貴族が背後にいるってことはまさか知ってるわよね? ……どうしてそんなに驚くの?」

「や……だって、王妃なのに?」

「ああ。王に抵抗する組織を指揮しているのが王妃だなんて、って思うわけか。アンヌ王妃は本当の淑女よ。完璧なお方。お優しくて気高くて、美しくてとてもお強い方よ。もちろん王妃だもの、王を支えるのが役目だわ。だから【アスタ】を作ったの。

 それはもう、王をお諌めしても聞き入れられるような状況じゃないってことだわ。それに王妃が王を表立って糾弾したら国が乱れる元だわよね? だから、迫害されている人達を少しでも救済しようと、王の迫害を逃れる場所を用意なさったのよ」


 そのうちに。

 ビアンカは切望するように心の内だけで呟いた。

 そのうちに。アンヌ王妃は必ずきっと、王を止めてくださる。それがどんな手段であれ。【アスタ】を訪れるたびに増える住人を見て、アンヌ王妃がどれほど心を痛めているか、ビアンカは良く知っている。

 そんなビアンカの頬の赤みを見て、エルティナは呟いた。


「……そっか……アンヌ王妃ってそういう人……なんだ」

「なにその言い方。意外だったの?」

「うん。あたしの……故郷の方では、ほら。エルギン王子が人気があるの。だから王太子が子供の頃に、アンヌ王妃に殺されそうになったとか、聞いていたから」


 ビアンカはうなずいた。確かに、あれは、アンヌ王妃の唯一の汚点だ。まだ幼かったエルギン王子と、その母レスティス妃は、アンヌ王妃に殺されそうになったことがあったのだと聞く。本当かどうかはわからないが、アンヌ王妃はその噂を否定しない。その後レスティス妃は本当に、若くして命を落としている。こちらも証拠はないが、アンヌ王妃に毒を盛られたのだという噂は根強い。


「確かにそんなこともあったわ。レスティス妃はおかわいそうな方だったわ。でもあれはもう昔の話よ。レスティス妃が亡くなって、エルギン王子がルファ・ルダ……じゃない、ええと」

「エスメラルダ」

「そうそこ。そこに引っ込んでから、アンヌ王妃は変わられたのよ。というか、もとに戻られたのよ。……って、ごめんね、これ全部ロギオンの受け売り」

「そっか」

「でもアンヌ王妃が素敵なお方だってことは本当よ。お会いするたびに、ああ、いつかこういう人になりたいなあって思うわ」

「……何度も会ってるんだ?」

「ええ。明日にはエルティナも会えるわよ」

「そうなの?」

「今夜にはいらっしゃるはずよ。【アスタ】に日没後に出入りすることができる唯一のお方。【アスタ】の中では身分の差は忘れることになっている。アンヌ様はあたしたちにも、親しく声をかけてくださるわ。――あれ、なんか、嬉しそうね」

「え?」


 エルティナは驚いたように頬に手を当てた。


「そう?」

「そうよ。なんだかほっとしたみたいな顔してる」


 一体この子は何なのだろうと、本日何度目かの疑問が兆した。

 信じられないほどの聞き上手で、気がつけばビアンカは今まで心に秘めてきた諸々を洗いざらい喋る羽目になっていた。引き換えにビアンカが手に入れたエルティナの情報は、ウルクディアで飢え死にしかけていた鴉を――人間の意識が宿っている――つれて歩いていると言うことだけだ。他には何もわからない。どうやらエスメラルダ方面から来たらしいと言うことと、どうやら【アスタ】を作った貴族がアンヌ王妃その人だという事実が心底嬉しいらしい、ということ以外は。


 ビアンカはエルティナをじっと見て、遅まきながらもどうにかエルティナの情報をさらに引き出せないかと隙を探った。でもどう水を向ければよいかもわからなかった。エルティナは知らん顔をして鴉の羽を撫でている。地面に落ちたふたりの影は奇妙に伸びて、ひとつの不思議な生き物のような形をしている。――と、


「あー!」


 ビアンカは叫んだ。エルティナも鴉もびくっとしたが、ビアンカは振り仰いで空を、いや太陽を睨んだ。どうしてあんなに傾いているのだ、お昼休みは半刻しかないというのに!


「やっばー! ねねエルティナ、ロギオンから、ここの仕組みについて聞いた!?」

「え、うん。食事が済んだら、世話役のイルジットさんに会いに行けって言われた。そこで仕事を割り当てられるって」

「そかそか、イルジットは親切な人よ。案内してあげる。一緒に行きましょ」


 食べ散らした昼食の後をさっさと片づけてエルティナをせき立てた。午後には旅人たちに出す夕餉の当番が入っているのに、すっかり話し込んでしまって遅刻気味だ。というかたぶん、立派に遅刻だ。エルティナと一緒に行けば、新入りを案内していたということで、遅刻を咎められないかもしれない、という思惑のことは、黙っておいた。もちろん。


「遅刻には厳しい人なんだ?」


 ビアンカにせき立てられながらエルティナが言う。ビアンカは肩をすくめた。そのとおり、イルジットは親切な人だが、遅刻や怠惰にはとても厳しい。少々慌てていたから、鴉がついて来ようとせず、エルティナが気掛かりそうに鴉を見たのに気づいても、連れて来るよう促すことはしなかった。と言うよりむしろ好都合だと思ったのだ。今から向かうのは厨房だ。鴉が入り込んだらきっとイルジットも他の人達も厭がるだろう。


 さらさらと流れる小川のほとりで、水面を見つめてぽつんとたたずむ鴉が、何だかひどく哀しそうに見えたけれど、それについても、深く考えている暇はなかった。

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