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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第一章 黒髪の娘
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黒髪の娘(1)

 ――いっそ鴉に生まれたかった。


 空腹というものがこうまで暴力的なものだったなんて、今まで全然知らなかった。


 胃が悲鳴を上げ続けていた。なんて憎たらしい体。浅ましい生き物は、きっと胃袋まで浅ましいのだ。食え、食え、食え、と胃袋が叫ぶ。今さら綺麗ごとを言うつもりか? あんな目に遭って、あんな辱めを受けて、それでも生きたいと叫んだあのときに、おまえの本質は知れていたではないか。


 美しい少女だ、将来が楽しみだと誉めそやされ、蝶よ花よとかしずかれ、毎日磨き上げられていた――それでも一皮むけば、どんなことをしてでも生き延びたいと足掻く、醜い生き物に過ぎなかったのだと、思い知ったばかりではないか。


 でも――


 彼女は本能の声にあらがおうとする。

 私は心までけだものになったわけではない。


 そうか? と嘲笑う声が答える。

 見ろ、目の前にある鼠の死骸を。腐って崩れかけ、蛆の涌いた、じくじくと汁の滲む死体を。肉の隙間から、頭蓋骨と、落ち窪んでよどんだ眼窩が覗いている。


 こんなもの食べるくらいなら――

 抗う声はか細く、小さい。代わりに嘲る声が大きく居丈高に響く。


 このうらぶれた汚い町角で、誰にも認められずに死ぬつもりか。死んでただ腐るつもりなのか。お前の身を包む汚らわしい黒い羽の隙間から、腐った肉とじくじく染み出る肉汁と、ちっぽけな頭蓋骨を惨めに覗かせて――挙げ句お前と同じ、でもお前より賢い生き物が、鼠と一緒に貪るだろう。それで終わり。惨めなものだ。今さらこんな惨めな死に方をするくらいなら、あのとき、せめて人の姿のままで、死んでおけばよかったのに。

 いつまで人間でいるつもりだ。食え。食え。食いたくてたまらないくせに。


 こんなもの……食べたくなんか……


 目を閉じてみろ。――甘いだろう。


 彼女は嗚咽する。そう。そうなのだ。この腐れ果てた汚い死骸は、今まで嗅いだどんな食べ物の香より甘く、芳醇な、美味しそうな匂いを放っている。

 浅ましい生き物は、嗅覚まで浅ましくできている。

 それこそが、お前が既にけだものに成り下がった証しだろう。


「……ぅああ……」


 ひどい、と言ったつもりだったのに。

 喉から絞り出て来たのは、やはり、どうしても、しわがれた醜い鴉のうめき声に過ぎない。


 汚く崩れた鼠の死骸が、一際甘い芳香を放った。ああ、と彼女は呻いた。ああ、もうこれ以上、この誘惑に耐えられない。誘惑というよりは暴力的なまでの引力だった。物理的に嘴が引き寄せられるようだった。いっそそうならいいのにと彼女は思った。誰かにむりやり、抗うことなんかできないくらいの力で、食べさせられるのだったらまだいいのに。




 ふと、足音がした。

 鼠の死骸の引力が薄れて、彼女は頭を上げた。長身の人影がひとつ、こちらへ向かって来ていた。瞬きをすると靄が薄れた。見覚えのある顔が、つい三日前の宴で顔を合わせたばかりの男が、ゆっくりと歩いてくる。


 ――どうしてこんなところに。


 まさかこんなところにいるはずがない。まさかそんな偶然が起こるはずがない。まさか、これは夢に違いない。期待して裏切られるのが怖いばかりに、なんとか否定しようとしてみるが、何度瞬きをしてもその人は、クレイン=アルベルトその人だ。


 三日前、まだシルヴィアが人間の娘で、王に殺されてもいなかった時に、熱っぽい口調で囁いた彼の美貌がよみがえる。


『シルヴィア姫――』


 あまりに真摯な口調に驚いた。彼のことはよく知らなかった、ただ、身分の低い平民の出で、その割に王の信任厚く、国中を飛び回る重職にある三十代手前の男だと、そして頭がよく才能が有りおまけに美貌だと、女官たちがする黄色い噂を耳に挟んでいただけだ。


『まさかここであなたにお会いできるとは』


 彼は喧噪から逃れて、厚い緞子の陰で一息いれていたシルヴィアの前で、恭しく、崇めるように、腰を屈めた。


『あなたに――私はずっと、お会いしたいと思っていたのです――』


 その後に続いたのは、シルヴィアが今まで聞いたことがないほどに、情熱的な言葉だった。

 いえ、と鴉のシルヴィアは首を傾げる。実際に彼の口から出たのは、それほど情熱的な単語ではなかった。噂以上に美しいとか、黒髪が本物の黒真珠のように輝いているとか、そういったありふれた美辞麗句だ。


 ――でも、目が。


 シルヴィアは頬を赤らめる。目があまりにも雄弁で、その整った容姿も手伝って、ありふれた麗句が炎のようにきらめいた。


 しかし、シルヴィアは彼に応えたわけではない。

 シルヴィアは美しい少女だった。あまりの美貌に、宝石を身につけてはならぬと言われたほどだ。シルヴィアの美貌をさらに引き立てられるほどの輝きを持つ宝石はほとんどなかったし、著名な職人が丹精した希少な宝石など身につけようものなら、周りの貴族の子女たちも花も、贅をこらしたシャンデリアさえかすんでしまう。だからアルベルトも、大勢の求婚者のうちの、単なる一人に過ぎなかった。胸に秘めた叶わぬ恋を忘れさせてくれるほどの、魅力を感じたわけではなかったのだ。


 それでも。

 まさかその二日後に、殺されるとは思わなかったので――




 鴉のシルヴィアは、薄汚れた裏町の道端で、腐れた鼠の死骸の前で、近づいてくるアルベルトを見つめた。彼には私がわかるだろうかと、ぼんやり思った。あのときの彼の口調はあまりに熱を帯びていて、彼の思いを率直にシルヴィアに伝えた。思いに応えられないことを、本当に苦しく思ったほどだ。


 吟遊詩人が語るような、真実の愛、というものが彼にあるなら、

 もしかしたら私のことがわかるのじゃないかしら?


 鴉となったのはたった昨日のことだ。人間に戻りたくてたまらなかった。もう自分の体は死んだのだと――あんなことになって生きているはずがない――わかっていても、諦めることなんてできない。誰かと話がしたかった。自分はここにいるのだと、親しい人に知らせたかった。汚い腐った鼠などより、もっと美味しいものが食べたかった。おじ様、とシルヴィアは鴉となってからもう何度目かの悲鳴を上げた。おじ様、おじ様、愛しい愛しいヒルヴェリンおじ様、


 あなたは、私を、

 ――悼んでくださっているでしょうか。



 シルヴィアは羽ばたいた。

 昨日の赤い記憶はまだ生々しい。考えると壮絶な絶望と痛みの記憶が押し寄せてくる。記憶から逃れようと彼女は気力を振り絞って身を起こした。アルベルトの美貌はあの出来事の後ではあまりに美しく、幸せだった頃の象徴のようで、彼女はそこへ逃げ込もうとした。もしかしたら、もしかしたら、アルベルトはシルヴィアだとわかってくれるかも――ここにいる理由だってもしかしたら、シルヴィアがウルクディアの離宮へつれ去られたと知って、それで――


 飛ぶことはできなかったが、よろめきながらもクレインの足元に駆け寄ることはできた。アルベルトがこちらを見た。目があった。優しい青灰の瞳がシルヴィアを見て、

 秀麗な眉が、


「鴉か」


 ひそめられた。


「これは汚らわしい。寄るな」


 あまりの冷たい声に息が詰まった。抱き着くように広げた翼の先がぶれた。何を言われたのか分からずに、アルベルトの顔を見上げた。不興げにしかめられた顔は、あの夜と確かに同じ顔なのに。

 当たり前だ、頭の中でさっきの声が言った。おまえは鴉だ。黒い羽、黒い翼、残飯を漁り死肉を食らう、汚らわしいただの害鳥だ。


 ――いや、


 どんな男か知らないが、鴉をお前と分かるような奇跡が起こると、本当に信じたのか。ばかめ。


 ――いや、


 あまり近寄ると蹴られるぞ。


 ――嘘、


 避けろ。


『アルベルト様――ッ』


 蹴られた。アルベルトの容赦のない、鋭い蹴りを、シルヴィアは避けられなかった。小さな黒い体がぼろ切れのように宙を舞った。悲鳴は上げたが、それも、「かあ――」という、しわがれた鴉の悲鳴に過ぎなかった。

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