第969話 「殺さず、生かすために」
ナナ・ティーパは命に触れていた。息も絶え絶えで、今にも消えそうな命だ。病室のベッドで眠る老人は、家族に看取られる事無く死に近付いている。シアノ熱の症状が末期になれば、助かる確率はほぼ皆無に等しかった。
すぐに奪おうと思えば奪える命だろう。ナナにはそれだけの力がある。元『執念の手』の一員であり竜人でもある彼女には、子供ながらに大人を圧倒する力を与えられている。それでもナナは、己の力を振るわなかった。
「だいじょうぶだよ! あたちが、ぜったいたすけるから! げんきだして、おじいちゃん!」
老人を看病するのはナナ一人だった。この老人以外にも、ラトニアの街でシアノ熱に感染した人達の看病をナナが手伝っている。ラトニアの医師や看護師は人手が不足しており、ナナの手助けは多いに感謝された。
「ありがとう」と言われる度、ナナの胸に暖かいものが巡る。それは、『殺人』以外で初めて感じた、ナナの生きがいだった。
「お嬢ちゃん……ありがとうな」
老人は体を震わせつつナナを見た。視界は霞んでいるが、優しい少女が手を取ってくれている事はハッキリと分かった。
ナナの手は柔らかで、それでいて力強い手だった。ナナは聡い子供で、シアノ熱の症状の恐ろしさは理解していた。楽観的ではいられない。だけど、ナナは明るい顔を崩さない。少しでも元気を見せて、患者にも元気を分けてあげたかったから。
絶対に助ける。その決意に嘘は無い。老人の顔を見ていると、ナナはマジマジを思い出した。マジマジの優しい笑顔が脳裏に浮かんで……この弱々しい命を奪おうなんて、思えなくなった。
ナナ本人も不思議だった。彼女にとって『殺人』とは日常であり、常識だった。人を殺す行為と、呼吸や食事などの行為は同等だ。そういう環境で育ってきた。だが今は、殺す事より生かす事の方が自然に思える。
クロム隊に来てから明らかに変わった。殺意の衝動は段々収まり、代わりに「アイズらしく生きたい」と強く願うようになった。クロムのように。クロムに褒められるように。
ラトニアの街にも病魔の波は押し寄せてきた。健康な人は一人一人と減っていき、病院の人口密度は増える一方だ。こういう時こそアイズの力が必要なのだが、クロム隊の皆はランクトプラスにいる。留守番を頼まれたナナだけが、人助けの職務を全う出来た。
ナナはクロムの元へ預けられて以来、誰も殺していない。「良い子にしてなさい」というマジマジとの約束を忘れてないからだ。マジマジの言う「良い子」とは、クロムの言う事を聞いて誰も殺さない子だ。だからナナはクロムの話をしっかり聞いて、「良い子」であろうとした。そうすればいつかマジマジに再開出来ると約束したから。
まだマジマジには会えていない。今頃、自分と同じようにシアノ熱患者の看病をしながら世界を旅しているのだろう。……ナナはそう信じていた。
生きる事は愛する事だと、ユリーナから教わった。そうかもしれないと、ナナは考えた。殺す事ばかり考えてきた人生だったが、育ての親であるマジマジへの愛を忘れて日も無い。もしかしたら『殺す事』より『愛する事』の方が人生の意義だったのではと、ナナは感じつつあった。むしろ殺人行為にこそ意義を感じにくくなってきた。今まで『常識』として君臨していた行動は、一体何だったのだろう。何故疑いもなく、普通の行為として人を殺せたのだろう。
仮に今、命を奪うかどうかの状況に陥ったとして。
どの選択肢が『普通』なのだろう。
「きゃあああああああ!」
病院の一階から悲鳴が聞こえた。騒めく人の声と、一緒に聞こえるのは……ドラゴンの咆哮。
ドラゴンの軍勢はラトニアの街にも目を付けたのだ。突然の襲来に、街の人々は状況を理解出来ずにいた。理解したのはナナくらいだ。
「いまの……」
ドラゴン使いのマジマジとずっと暮らしてきたナナは、ドラゴンに造詣が深かった。鳴き声を聞けばどのドラゴンなのか分かる上、どんな生態なのかもすぐに連想出来る。病院を襲撃したのは、最速の竜『ファストグシーガ』。地上を風のように駆け狩りを行う、獰猛なドラゴンだ。鈍足な人間など、食われるだけの獲物に過ぎない。
「おじいちゃんは、そこにかくれてて!」
咄嗟にナナは病室を飛び出した。放っておけばあっという間に病院が血で染まる。あの咆哮は、途轍もない殺意に満ちていたから。
「お嬢ちゃん……何を」
老人は、一階へ降りていくナナを見ている事しか出来なかった。危険な雰囲気は明白だった。子供が行ってはならないと言いたかった。しかし、もう大声を出す力も残っていないのだ。
「ころすのはダメだって、クロムおねえちゃんがいってたもん!」
ナナは全力で廊下を走った。悲鳴の元へ向かうまでは一瞬だった。人ならざる力を存分に振るい、少女は戦いの場へ辿り着く。その意味は分かっていた。ナナは久しぶりに、『殺す事』を思い出そうとしている。
「キシャアアアアアア!」
ファストグシーガはナナを見つけ、新たな標的に定めた。小さな女の子は、簡単に狩れる獲物に映ったのだろう。食事を中断してファストグシーガは次の餌を狙う。
「……かんごしの、おねえちゃん」
自分にお礼を言ってくれた看護師の女性が、腹を食われていた。首に刻まれた深い傷と、虚ろに天井を見つめる彼女の目が、既に命の灯火が消えた事実を表していた。
食物連鎖の上に立つ生物が、下に立つ生物を食らう。生きるために殺す。見慣れた光景だった。ナナの育ってきた世界での常識だった。今更驚く内容でもない。
なのに、どうしても胸の鼓動が止まない。大切なものが消えた感覚だ。センが死んだと聞いた時と、同じ感情。
あぁ、そうだ。悲しいんだ。だったらどうする? 感情の表現って、どうするんだっけ?
「……ゆるさない。ころします!」
楽しいから、殺す。怒ったから、殺す。つまんないから、殺す。悲しいから、殺す。
ナナの感情表現手段は『殺害』だった。それしか知らないのだから。
「ううん。違うでしょ? 今のナナちゃんは別の言葉を知ってるはずですよー」
気の抜けた声。しかし落ち着く声だった。
ナナはふと、我に返る。先程まで膨れ上がっていた感情が、一気に安らいでいた。
「ロマノ……おねえちゃん」
ナナは振り向いた。優しい笑顔を向けて、ロマノがナナの頭を撫でていた。




