第963話 「腕の怪物」
「あウゥ……セイギ……セイギ……セイギセイギセイ……ギ! を! みんな望んでいル!」
声を狂わせつつ、クルエルは腕を這わせて前へ進む。腕で包まれた体では、前も周りも見えない。それでも、人を殺める決意だけは盲目に全身するのだ。
「正義が勝ツ結末しカ……認め……ナい! 認めラれなイ! 故に!」
無数の手を蠢かせ、ムカデのようにクルエルは進んだ。オーディンは距離を取りつつクルエルの手を斬り落とす。だが手の数が多すぎて焼き石に水だ。暴走薬の効能で再生能力も上がっているので、オーディンの与えた傷はすぐに癒えた。オーディンは防戦一方を強いられていた。
「逃さナい!」
クルエルはどんどんオーディンに接近し、ついにオーディンの左腕を掴んだ。
クルエルの肘から生えた腕が。肩から生えた腕が。頭から生えた腕が。首から生えた腕が。脇から生えた腕が。同時にオーディンを掴んで離さない。
クルエルは勝利を確信した。捕まえてしまえば、後は致命的な一撃を与えるだけで勝負は決まる。攻撃力や攻撃の手数ではクルエルが勝っている。刃が躱されないのであればこれで終わりだ。
だが、一つ誤算があった。捕まってしまえば終わりだと分かっていたのはオーディンも同じだった。だからオーディンの判断は早かった。
オーディンは『贖罪の一振』で左腕を切断した。激痛が大暴れしたのは、『贖罪の一振』の能力のせいだけではない。肩から先を失った左腕が、ドロドロと血を零した。
「……い?」
クルエルは腕と腕の隙間に目を通し、自分が掴んでいるものを視認した。オーディンの太い腕だけが動かずにそこにある。いくつもの腕から伝わる軽さが、現状を説明していた。
「な、何を……!?」
理屈としては正しいのだろう。腕を掴まれたまま殺されるよりは、腕を捨てて逃げた方がいい。それは間違いないのだが、実際に行動に移せる者が何人いるだろう。生き延びるためなら躊躇なく己の腕を斬れる者が。
あまりにも冷静すぎる。戦いにおける判断の早さは、偏にオーディンの戦闘経験の豊富さ故だった。一方クルエルは戸惑い立ち止まっている。今すぐ殺せると思ったのに、その確信が裏切られたからだ。
そこがクルエルの隙だった。一瞬だけ生まれたチャンスを、オーディンは見逃さない。すぐさま距離を詰め、腕の壁ごとクルエルの胴体を斬った。
竜人暴走薬を飲んで以来攻め続けてきたクルエルに、予想外の反撃。だがクルエルを殺すには至らなかった。増殖した腕の盾は分厚く、急所を強固に守る。戦闘技術においては圧倒的に優れていたオーディンだったが、肉体の性能で言えば暴走竜人相手では分が悪い。折角の反撃のチャンスだったが、殺しきれなかった。
「踏み込みが甘かったか」
痛みと、片腕を失った事によるバランスの崩壊が、足の踏み込みを弱くしてしまった。それでは剣の勢いも弱まってしまう。次斬る時はその点も考慮しつつ調整しようと、オーディンは留意した。
「……お、のれ!」
クルエルの腕からさらに腕が伸びる。クルエルはますます肥大化し、人間の形を失っていった。
「殺ス……! アナタは特に、入念にぶっ殺す!」
クルエルの全身が白骨の刃を伸ばす。肉塊は外へ外へと飛び出し、血塗れの指がうねうねと揺れていた。
「哀れな怪物め」
オーディンは片手で『贖罪の一振』を構え、呟く。腕に覆われて前も見えないクルエルは、最早殺す事しか見えていない。死ぬまで暴走する殺意の怪物だ。
それでもオーディンは、逃げ出す気など微塵も無い。
「貴様に見せてやろう。正義が敗北し、悪が勝つ物語を」




