第962話 「奥の手」
「痛ぁーっ!? なにゆえ!?」
腕が三倍なら痛みも三倍。人間なら味わう事のない激痛を得て、クルエルは阿鼻叫喚の様を呈した。転げ回るクルエルの前で、オーディンも『贖罪の一振』のフィードバックを受けて跪いていた。
「倒れてやるものか。この程度で……。貴様も立て! どうせ傷は癒えるのであろう」
オーディンは顔をしかめつつも立ち上がる。腕を斬った程度で竜人が死なないのは分かっている。クルエルの肉体はまた再生する。だから斬るべきは体ではなく心だ。クルエルの心を打ち砕いてこそオーディンは真に勝利する。まだ、クルエルの業を斬れたとは言えない。
『正義』という名の罪を贖え。正義の概念を生み出して苦しむ、人間の業を断て。
剣がそう訴えているような気がした。声が聞こえたのだ。オーディンにも。
「アナタ……本当に邪魔! どうしてそう迷惑ばかりかけるのです!」
「信じられぬだろうがな、我が輩は人類を救いたかったのだ。それだけだ」
人類を抹殺しようとするクルエルと、人類を救済しようとするオーディン。お互い、見ている目標が大きすぎる。だからクルエルの『正義』もオーディンの『悪行』も、巨大な理想論なのだ。分かっていても、やはり理想を追わずにはいられない。
「悪の味方は悪、ですねぇやはり!」
「そして悪の敵も悪だった。お互い、嫌われたものだな」
自称『正義の味方』は、誰の味方でもなかった。自称『悪の味方』も、誰の味方もしない。極端なまでに平等だった。
「正義を嫌う方が間違ってるんですよ! えぇ、全く、悲しくなんてないですとも! そうですとも!」
クルエルは注射器を取り出した。その針を凶器にするつもりではない。むしろ中身の液体の方が強力な武器だった。
「ワタクシには、力がありますからねぇ!」
クルエルは注射器を頭に刺した。中身の液体がクルエルの血管に流れ込み、循環していく。これこそが彼の奥の手。溢れんばかりの力がクルエルの全身に漲った。
「何を企んでいるのだ。まだ我が輩に勝てる気でいるとは、その闘志は認めよう」
「負ける気でいる訳ないでしょう! 未来は約束されている。正義にのみ明るい未来が約束されている! 決定事項なのですよぉ! 知ってますか? これは『竜人暴走薬』。ルナロードがワタクシに合わせて調合した最終兵器です! さぁ、圧倒的な正義の力にひれ伏しなさい!」
竜人の能力を最大限発揮する、最後の切り札。この戦いを予期して、クルエルはルナロードから竜人暴走薬を受け取っていたのだ。勝利のため、正義のためなら、クルエルは暴走すら厭わない。
「……何だ、その姿は」
オーディンは形容する言葉を失った。クルエルの姿があまりにも想像を絶していたからだ。
竜人暴走薬の効能で過度な細胞分裂を繰り返したクルエル。肉体の暴走は増長し、最早「再生」の枠を超える。クルエルの能力は『腕を構成するものを生やす能力』。そこに本来、『肩から』という制限は無い。腕を扱うのに、肩から手が生えていた方が便利だからそうしただけだ。その気になれば、体のどこからでも手は生える。
故にこの形態になるのは自然な成り行きだった。クルエルは、無数の腕で覆われた化け物になったのだ。




