第948話 「予感」
「イヒャヒャヒャヒャ! 遅すぎるぜトカゲ共!」
空気を裂く音が鳴る。聞こえた時にはもう躱せない。音のように速く乱れる鞭は、ドラゴンの鱗さえ容易く貫いた。
「こんな雑魚に遅れ取ってるようじゃ、ランクトプラス軍も案外ショボいな。なぁ? ノーラ!」
サジェッタは振り向き、ノーラに語りかける。後方で身を隠しつつ戦闘データを取得していたノーラは、「油断しないように」と短く答えた。
ランクトプラスの地はドラゴンに襲われていた。軍人だけでなく、民間人もドラゴンの獲物だ。それも当然だろう。ドラゴンの目に「軍人」と「民間人」の区別は見えない。見えたとしても、民間人を襲わない理由が無い。ドラゴンにとってこの戦いは「戦争」ではなく「蹂躙」。肉食動物が獲物を食らう、ただそれだけの原始的な行動だからだ。
ランクトプラスに滞在していたサジェッタ達も、ドラゴンにとっては標的だった。サジェッタから見ても、ドラゴンは標的なのだが。
「ボスがトカゲ共を皆殺しにするのも時間の問題だな。こんな雑魚が何匹いても、ボスの敵じゃねー」
サジェッタに課せられた命令は、「我が輩が戻ってくるまでノーラを守れ」だった。オーディンが戦場から帰ってくるまでの護衛。その任務は難無くこなせるだろう。大地を闊歩するドラゴンは、サジェッタの間合いに入った瞬間に脳天を穿たれる。彼女の鞭捌きは古の支配者達にも通用した。
「オーディン様なら、必ず勝ちます。しかし……」
ノーラも夫の勝利を信じていた。それは間違いない。だが、ノーラはとある不安を抱えていた。
「何だよ」
「これが母さんの……ルナロードの刺客だとしたら、少し生温い気がするんです」
世界中で同時にドラゴン達は襲来した。そんな大事件が偶然であるとは思えない。何者かの作為を感じる。だとしたら、その「何者か」はきっとルナロードだ。ルナロードならやりかねないと、娘であるノーラは理解していた。
その仮定で推理を進めると、違和感が一つ生まれた。ルナロードが予想外の未来を見るために人類へ試練を与えたのなら、もっと絶望的な難易度であるはずだ。かつて人類を滅亡させかけた『はじまりの日』と同等、あるいはそれ以上の困難が迫ってもおかしくないのに。シアノ熱の感染力は50年前より弱く、ドラゴンの群れも倒せないとは言いきれない。
「きっと、向こうにはまだ切り札があります。量産型のドラゴンとは別の、規格外の生物兵器が」
ルナロードも生物兵器開発者の一人なら、その性能にはこだわっても不思議ではない。ドラゴンという生物兵器を、より高性能に。そんな欲求があるはずだ。そして、ルナロード程の天才が手掛けた『作品』ならば、それはもう常識では測れない。
ルナロードは切り札を温存していたのだ。だから今は生温い。だが、易しい時間はそろそろ終わりだ。切り札を解禁した瞬間、戦況は変わる。
「……不安そうな顔すんな。ボスが負けると思ってんのか?」
「いいえ。オーディン様は誰よりも強いです。しかし……しかし……」
勝てるとしても、無事だとは限らない。どんな大怪我をして帰ってくるか分からない。そんな当たり前の事を、ノーラはわざわざ口にしなかった。
ノーラの不安は正鵠を得ていた。現在起こっている、人智を超えた殺し合いを見たら、不安にならないはずがない。人と竜の頂上決戦は、大地を襲う天災に等しかった。
大陸の果て、誰もいない荒野でオーディンは立つ。強大な敵、ルナロードの切り札を前にして。




