第946話 「彼女が涙を許せた日」
ずらりと並ぶベッドに、病人達が眠っている。スーニャ・チルもその一人だった。シアノ熱に感染した重病人が大半を占める中で、骨折患者のスーニャの治療は比較的簡単だ。だから早急に処置を終えて、医師は別の患者の元へ向かっている。だからスーニャは独りだった。
……否。俺を除けば、の話だが。
「気分はどうだ、スーニャ」
「そうだね……ここの鎮痛剤って結構上等だよね。あんまり痛くないし、死にそうな気がしないかな」
落ち着いた口調ではあったが、気を落としているようにも見えなかった。憎しみや失望に飲み込まれていたような雰囲気は、もうどこにも存在しない。底抜けの明るさは無くとも、彼女が元気なのは想像出来た。
「もしかして、今のテンションが本来のお前か?」
「さぁ。昔のあたしなんて忘れちゃったよ。ずっと笑い続けてたからさ」
喜び以外の感情を押し殺してきた人生。考えるだけでも正気じゃない。スーニャは無理矢理自分を笑顔にしたせいで、本当の笑顔を忘れてしまった。
今のスーニャは呆然とした顔で天井を眺めている。包帯でぐるぐる巻きになった手足では、活発な動きは許されない。俺の知っているスーニャと比べれば、今の彼女は異常に大人しく、不自由そうだ。
だけど。
「スーニャ。辛いか?」
「……別に。思ってたより、楽かも」
淀みなく、彼女は答えた。
レジスタンスアジトは本来の業務を止め、現在はシアノ熱治療用の医務施設に等しくなっている。世界中でシアノ熱の感染が広がり、戦争どころではなくなっているのも大きい。正式な停戦協定は未だ結ばれておらず、形式的には今も『戦時中』なのだが、実質的に世界中の軍は武器を下ろしていた。レジスタンスもまた、人間同士の争いに労力を費やしている場合ではなかったのだ。
そんな状況故に、ここの医師達は見知らぬスーニャも受け入れてくれた。病室を用意してくれた看護師は「ベッドを増やしておいて良かったです」と微笑んでいた。
「本当は隔離しとくべきなんだろうがな。感染症患者と同じ病室ってのは……。まぁ、シアノ熱のウィルスは既に全世界に蔓延してるんだ。今更部屋を分けたところで、意味は無いか」
「へぇ。隔離ね。ある意味、やった方がいいかもよ。あたしみたいな殺人鬼、一緒にしといたら危ないんじゃない?」
『隔離』という単語に曲がった解釈を加え、意地悪く頬を歪ませるスーニャ。脅しか、それとも皮肉のつもりか。どちらにせよ俺には無意味だ。
「残念だったな。俺に嘘は通用しない。お前に殺意が無い事くらいお見通しだ」
「ちぇっ。つまんないの」
スーニャは俺から視線を逸らし、再び天井を見つめた。
あの時スーニャは、爆弾の停止手段を教えてくれた。自分ごと皆殺しにしようとする覚悟を、捨ててまで。おかげで全員助かった訳だが、スーニャの心境の変化は気になった。
「なぁ、スーニャ。なんで俺達を助けてくれたんだ?」
「何言ってんの。変な奴。助けようとしたのはお前じゃん」
「そうだけど、そういう事じゃなくて」
「勘違いしないでよ。あたしは死にたくなかっただけ。お前を助けたんじゃない」
ハッキリと彼女は言った。死にたくなかった、と。
「殺すなら死ぬ覚悟を、とかさ。偉そうな事言ったけどやっぱり、あたし怖かったんだよね。……うん。やっぱ爆弾って怖いよ。忘れられないんだ。お父さんを殺しちゃった時の事」
死ぬのが怖かった。だから自爆をやめた。覚悟もクソも無くて、俗っぽくて、弱々しいスーニャの本音。でも、それで正しいと思う。自分の命を使い捨ての爆弾と同等に考えるより、ずっと人間らしい。
「……よかったら、教えてくれないか。お前に昔何があったのか」
前に聞けなかった、スーニャの気持ち。今度こそ向き合ってあげたい。だってスーニャはずっと訴えていた。本音を誰かに理解して欲しくて、だから叫んでいたはずだ。ならば聞き流したりはしない。俺は、スーニャの思いに耳を傾ける。
「いいよ。仮面を被っても、お前には通じないみたいだし。つまんない話だけど聞いてよ」
スーニャは己の過去を語った。昔、父親と一緒に鉱山で働いていた事。採掘の効率を上げるために爆弾を用いた事。父に爆弾のノウハウを教わるにつれ、爆薬に興味を抱いた事。興味本位で仕事用の爆薬を増量してしまった事。
そして、それが原因で父が爆発事故に巻き込まれ死んだ事を。
「あたしがお父さんを殺したんだ。あたしが変な好奇心を持たなかったら、お父さんは死なずに済んだ。信じてくれないだろうけどさ、こんな殺人鬼でも家族が死ぬと悲しいんだよ。そういう時期も、あるにはあったんだ」
自嘲するようにスーニャは言った。彼女の声は震えていた。自己批判の言葉の強烈さで、溢れ出る感情を押さえ込もうとしているようだった。何故分かるか? それは、俺も昔はそうだったから。
「信じるさ。人の命を奪うのは辛い。殺しながら笑ってる方が、どうかしてる」
スーニャは意外そうに俺を見た。丸く開いた目で、言葉以上の思いを訴える。
「びっくりした。『お前は悪くない』とか『殺したのはお前じゃない』とか言うと思ってた」
「そういう事言いそうに見えるか?」
「見える。めっちゃ見える」
「すまないな。命を奪う重みは、俺も知ってしまっているからな。お前の場合は事故と言えなくもないが……問題はそこじゃない。お前が自責の念に駆られたかどうかだ。お前が自分を否定したいのなら、俺はその気持ちを否定しない。ピアルタも言ってただろ? 素直になった方が楽だって」
「別に謝らなくていいよ。むしろ嬉しかった。薄っぺらな擁護をされなくてさ」
スーニャはまっすぐに俺を見た。俺の返答を求めるような、強い視線で。
「ねぇ、お父さんは苦しかったと思う?」
「かもな。爆死した経験は無いが、無くても分かる。死ぬほど痛そうだ」
俺は答えを偽らない。スーニャが欲する言葉とは違うかもしれないが、それでも正直に答えた。
「だよね。あたし悪い事したよね」
スーニャも案外素直だった。誤魔化したり、茶化したりしない。ブレない口調が、その証左だった。
「善悪はともかく、俺は殺人を肯定しない。誰が何と言おうと、死んでいい人間なんて一人もいないんだ」
どんな理由があっても、俺は人を殺さないし、殺させもしない。スーニャだって、『死んでいい人間』なんかじゃない。その気持ちだけは、曲げられなかった。
「そっか。ありがと」
スーニャは礼を言った。俺は一度も、スーニャを弁護する言葉を発していない。どちらかと言えば彼女の殺人を糾弾している。彼女の求める言葉ではなかったかもしれない。だけど、スーニャは礼を言った。
「あたしはあたしを否定したい……って訳でもなかったかな。むしろ徹底的に肯定して……何もかも楽しいって思いたくて……ずっと笑ってれば、それで幸せになれると信じてた。何だかバカみたい。お父さんの事、忘れていい訳ないのに」
スーニャの口から言葉が溢れる。ポロポロ、ポロポロと、隠れていた声が転がり出す。欺瞞で覆い隠していた本音は、逃げ場を見つけて一気に流れ込んだ。俺はそれを受け止める。やっと自分と向き合い始めたスーニャを、無視してなるものか。
「でも、怖かったんだよ。お父さんの死を受け入れたら……現実を見ちゃったら、心が壊れちゃう気がして。正気でいたら死んじゃいそうで。笑うしかなかったんだよ。お父さんを殺しても、笑顔でいたら誤魔化せるかなって。全然、そんな事なかったけど」
その笑顔が偽りだと、本人が一番理解していた。それでも彼女は現実逃避せざるを得なかったのだ。父の死に向き合える程、スーニャの心は強くなかった。俺だってそうだった。現実を現実として認めるには、長い時間を要する場合もある。
だからこそ、だ。俺はスーニャを擁護しない。彼女の現実逃避を、逃避故の殺人を、肯定しない。俺が俺の殺人を許さないのと同様に。ザックを殺してしまった過去を、俺は忘却しない。
「案外、素直になったら楽になるもんだね。バレバレの嘘で自分を騙し続けるよりも。ねぇ、クロムに分かる? お前みたいな強い人間に、逃げ出したあたしの気持ちが分かるの?」
「分かる、と言ったら信じてくれるか」
「へぇ。だったらあたしの殺人は正しかったって訳?」
「それは違う。お前の気持ちは理解出来るが、それはそれとして人を爆殺していい理由にはならない」
「ほら、やっぱりそうじゃん。結局あたしの味方にはなってくれないんだ」
「そうか? 間違ってる事は間違ってると言えてこその『味方』だと思うがな」
「ふーん。調子いい事言うんだね」
「味方だろうが間違ってる時もあるし、敵だろうが正しい事もある。そういう考えは嫌いか?」
「……不思議な奴。あたしの邪魔はするくせに、あたしを助けようとするし。憎んでるって訳じゃなさそうなのに、あたしを否定するし。どっちつかず?」
「是か非かだけで語れないのが人間関係だと、俺は思うぞ。俺がお前の殺人を止めるのと、お前を助けたい気持ちは両立出来る。俺はそう信じてる」
敵だとか味方だとか、善だとか悪だとか、そんな二元論だけで人は生きていない。スーニャがどれだけの罪を背負っていようと、それとは無関係に俺はスーニャを助けたい。
俺はスーニャの心を肯定し、行動を否定する。それは、果たして矛盾しているのだろうか?
「そっか。やっぱ人って難しいね」
「だろうな。自分の心ですら、制御出来ないくらいだからな」
「でも今は、落ち着いてる。優しいのはクロムの方だったんだね」
スーニャは俺から目を離し、天井を見た。俺と視線を合わせないまま、語りかけるように彼女は言った。
「話、聞いてくれてありがと。でも何だか……泣きそうになってきちゃった」
「泣けばいい。泣きたいんならな」
「いいのかな? 涙で心がバラバラになったりしない?」
「逆じゃないか? そうならないために、人は泣くんだ」
現実を受け入れるのは、辛いかもしれない。でも、そこから逃げて『辛くない道』を選んだ方がむしろ辛い場合もある。だからいっその事、素直に泣いてしまえばいい。涙は毒じゃないんだ。スーニャは、それに気付くのが少し遅れてしまった。
「……馬鹿。泣かせようとしないでよ」
そう言いながら、スーニャは泣き始めていた。一度解放された涙は、もう止まらない。彼女はいつから泣いてなかったのだろう。溜まりに溜まった感情は、爆発的に広がった。笑顔の裏にある、彼女の心。それは偽りの笑顔より遥かに遥かに輝いていた。
「ごめんね。ごめんね。お父さん。あたし、ずっと謝りたかった……!」
精一杯泣きじゃくる。人目も気にせず涙を零す。スーニャの感情は自由を得た。それでいい。今は、思いっきり泣け。
「お父さん。あのね。あたし、やっと泣けたよ」
スーニャは俺の方を見ない。だけど、泣きながら前を向いていた。




