第937話 「変わり行く世界と、少女は」
「クロムさん……クロムさん起きて下さい!」
異様に元気な声がガンガン響く。その喧しさに寝ぼけ眼を開かざるを得ない。もう少し寝ていたいと思うと同時に、俺は自分が眠ってしまっていた事に気付いた。
「俺はいつから寝てたんだ? ユリーナ」
俺は布団から起き上がり、目の前のユリーナに尋ねた。「夜の10時くらいでした!」とニコニコ顔でユリーナは答える。
「クロムさんったら急に寝ちゃったからびっくりしましたよ。お疲れだったんですね。私としてはクロムさんの寝顔を見れてハッピーでしたけどね! これからもどんどん疲れちゃって下さい!」
「……善処する」
ユリーナの滅茶苦茶な要求にツッコミを入れる気力も無かった。それくらいに俺は疲れているのだろう。情けない話だが、状況が状況故に当然の結果かもしれない。
ユリーナとミミを助けに行き、俺達は戦いの末帰還した。……いや、まるで救出出来たみたいな言い方は現実逃避に過ぎない。俺はミミを助けられなかった。ミミの命を奪った竜人ププロも、狂乱の末に死を選んだ。『解決』と呼べる結果は何も得られなかった。ユリーナを無事に救えた事だけが、せめてもの希望か。
「今、何時だ」
「朝の9時です! みんなとっくに起きてますよ!」
朝の日差しのように明るく、ユリーナは答えた。そんなに長い間夢の中にいたのかと、少し驚いてしまった。
窓の外を見れば、人々が忙しなく歩き回っている。看病のために皆必死だ。戦うために用意されたレジスタンス基地は、瞬く間に医療施設に変わっていった。俺も病人を救うために、朝から晩まで奮闘していたはずだ。なのに疲労の挙句倒れて俺が布団に運ばれる立場になるとは、少々恥ずかしい。
「すまない。すぐに準備する」
「焦らなくても大丈夫ですよ。クロム隊のみんなで、少しずつ頑張っていきましょう!」
ユリーナは溌剌として言う。本当は、ユリーナだって疲れているはずだ。特に、心が。
ユリーナは立ち直れない程の絶望を味わったのだ。その上、俺達を追い詰めるかのように世界は残酷に牙を剝く。困難に次ぐ困難を前にして、俺でさえ滅入りそうだった。
それでもユリーナは顔を曇らせない。自分が暗くなれば周りまで暗くしてしまうと自覚しているのだ。せめて笑顔だけは絶やすまいと、彼女は元気でいてくれる。ユリーナのその強さに、俺は感謝したい。
「……そうか。ありがとうな、ユリーナ」
目を覚まさねばならない。今がまさにアイズの、そしてクロム隊の出番だ。
数日前から、シアノ熱の症状を訴える者が大勢現れた。唐突な感染爆発に『はじまりの日』を連想したのは俺だけじゃないはずだ。感染は無差別に広がったが、高齢者や持病持ち、怪我人などの身体が弱っている人が特に病状が重かった。症状の出ていない者は看病に回り、使える限りの施設を使って治療に努めた。レジスタンスアジトが病院代わりになるまでに時間は要さなかった。
「どうやら他の地域でもシアノ熱が流行り始めたようだね」と、ウォレットは教えてくれた。世界中にいる彼の部下が、シアノ熱の流行具合を調査してウォレットに伝達してくれたらしい。既にミカウツ家の企業は、財と労を費やして治療援助に取り組んでいた。
50年前人類を滅ぼしかけた災害と、同じ現象。昔の俺だったら、運命の無慈悲さに怯えていたかもしれない。だが今なら分かる。これは天災ではなく人災なのだと。
ルナロード・ジニアスが間違いなく絡んでいる。シアノ熱の研究者だった彼女ならば、再び『はじまりの日』を起こすのも可能だろう。人類の可能性を見るために、大殺戮だって躊躇しない。ルナロードはそういう女だ。
ウォレットの情報網は、もう一つの危機をも捉えていた。ドラゴンの襲来だ。まるで軍隊のように集い、人々の住む地域を襲って回っているらしい。不幸中の幸いにも、ここにはまだドラゴンが来ていなかった。だが人口密度の高い地域で暴れ尽くした後は、この拠点のように人の少ない場所にも来るだろう。世界中で起きている危機を、他人事だとは言えなかった。
とにかく余裕が無い。俺個人としても、人類全体としてもだ。今は一人でも多くの人がいて欲しい時期だ。シアノ熱とドラゴンに打ち勝つためには、皆が一丸となる必要がある。
「ヴィルカートスは、どこに行ったんだろうな」
服を着替えながら、ふと呟いた。答えが分かるはずもないが、疑問を口にせざるを得ない。
いや、本心では予想出来ている。ルナロードに殺されたのだと、状況が告げていた。しかし『遺体が見つからない』という一点で、俺はまだヴィルカートスの生存を信じようとしているのだ。泡沫の夢でもいい。何か縋れる望みが欲しかった。
「大丈夫ですよ! カインズさんのお父さんなんですから! きっと帰ってきてくれます」
俺を肯定するがごとく、ユリーナは断言した。彼女の自信満々の表情が、今は心地良かった。
朝の支度を整え、部屋の外へ出る。ランクトプラス軍を倒せ倒せと活気付いていたこの土地は、今はベッドが足りないだの水を取り替えてくれだので大騒ぎだ。軍人ではなく人間ですらない新たな『敵』の登場に、人々は目的を切り替えて奮闘していた。寝泊まりする場所を借りている立場で、俺達が指を咥えて待ってはいられない。そもそも俺達はアイズなのだ。病気で苦しんでいる人がいるならば、助けない選択肢は無い。何か手伝える事があるはずだ。
「行くぞ、ユリーナ」
「はい! 一緒に行きましょう!」
ユリーナは俺の手を繋ぎ、皆の元へ進んだ。
「クロムさんって、最近ぐっすり寝れるようになりましたよね」
脈絡も無く、そんな話題を振るユリーナ。彼女の意図が掴めず、俺は「ん?」と雑な返事しか出来なかった。
「会って間も無い頃は、私が近付いただけでも起きてましたよ。夜這い出来なくて残念……じゃなくて、クロムさんが安眠出来てないんじゃないかって心配でした!」
「俺、安眠してたか? 最近でも割と浅い眠りしかしてない気がするが」
安眠出来ない、というかしないのだ。修行の一環として『警戒』を継続してきた俺は、たとえ寝床だろうと油断はしない。そういう癖が体に馴染んでいた。だから少しの刺激で起きるような睡眠しかしていない。昨晩みたいに疲労が限界を迎えたならば、そんな余裕は無いのだが。
「そうですか? 私が見てる時のクロムさん、いっつも安らかな顔して寝てますよ。私が呼んでもなかなか起きませんし。子供みたいで可愛い寝顔のクロムさんも、見てて飽きないです!」
意外だった。ユリーナに指摘されなければ、俺は気付かないままだったろう。
「……そう、だったのか」
一人で寝る時は『安心』とは無縁の睡眠だったのに。誰かが隣にいてくれると、気兼ねなく意識を委ねられる。かつての俺なら、あり得なかった。たとえアイズの仲間が側にいても、警戒を解かなかったはずだ。
「変わったのかもな。俺は」
それは良い兆候か、それとも悪い兆候か。少なくとも俺は、自分の変化に一抹の不安を感じていた。心地良い安堵に身を委ねるのは、幸福であると同時に脅威だ。警戒を失ってしまったら、俺は弱くなってしまう。盤石だと信じていたものが、崩壊しそうな気がした。
「不安ですか? クロムさん」
ユリーナは俺の顔を窺って言った。そして彼女は微笑む。
「大丈夫ですよ! 安心して寝ちゃって下さい! そして身も心も、私を受け入れちゃって下さい!」
「それが不安なんだが……」
一体何をする気なのやら。鼻息を荒くするユリーナに、俺は嫌な予感を覚える。もしかして不安の正体はユリーナか? と軽いジョークを考えている間に、ユリーナは口元を緩めて言った。
「とか言って、クロムさんは私を信じてくれてますもんね! 知ってますよー」
ユリーナは繋いだ手を掲げた。力強く握られている訳でもないのに、温かみがよく伝わってきた。
「……だから。これからも隣で歩きましょう、クロムさん」
ユリーナが繋いだ手を、俺は離そうとしない。その意味は言葉にせずとも伝わっていたようだ。
「あぁ。こっちこそ、よろしく頼む」
拒もうとしない俺は、弱くなったのかもしれない。一人で生きていくための力が失いつつあるのかもしれない。
それでもいい。信頼出来る仲間の方が、よっぽどいい。ユリーナは頼れる仲間だと、確信を持って言えた。
二人で歩いた今日、俺は朝日の眩さを思い出した。




