第929話 「私として生きる」
「君の最期を見れて良かった。私が知らないうちにいつの間にか死んでしまうより、ずっといい」
ルナロードはヂールの死体にそっと触れた。最後にはルナロードを裏切って処分しようとしたヂールだが、それでもルナロードは彼を気に入っていた。優秀な人間を、どうしても嫌いにはなれない。そもそも、観察対象である人類を嫌いになる事自体まず起こり得ないのだが。
「ルナロード様。ご無事ですか」
胸に穴の空いたルナロードを心配し、ジェノールは尋ねた。ルナロードは「平気だよ」と本当に平気そうに答える。
「もう治ってる」
ルナロードは白衣を剥がして胸元を見せた。血で汚れてこそいるが、確かに傷口は塞がっていた。竜人の再生能力がある以上、一発の銃弾など脅威にすらならない。
「驚くばかりです。これが竜人の力……。私などには相応しくなかったのでは」
「そう思うかい? 君はあんまり好んでないみたいだね。君の、誰にでもなれる力を」
ジェノールの能力は、身体を変化させて誰かに成りすます力だ。人間だった頃でさえ驚異的だった変装技術は、竜人の能力を得て超常現象の域に達した。ジェノールが世界一のスパイだと評される所以である。
「……えぇ。他人のフリをする度に不安になるのです。私は一体誰なのかと」
ジェノールには個性が与えられなかった。性格も、言動も、見た目も、一人称も、何もかも仕事上の道具に過ぎなかった。誰にでもなれるジェノールは、その実誰にもなれずにいた。
『本来の自分』なんてとうに忘れてしまった。記憶にも記録にも『自分』は存在せず、いつだって自分は誰かの模倣だった。自分なんてどこにもいない。そんな不安が膨張していく。
ジェノールが渇望したのは『個性』だった。自分が自分である証明。人から見た自分の定義。与えてくれたのはルナロードだ。
「誰だろうと、君は君だ。名前が欲しいならあげよう。君の名前は『ジェノール・コルレリコ』だ」
あの日、ルナロードはそう言った。その言葉を授かった時から、『ジェノール』という個性は定義された。『自分』は存在していいんだと、肯定してくれた。
「それでも貴方は私に名前をくれた。任務のための記号ではない、本当の名前を。この名は私の宝物です」
確かなる『自分』が、ここにある。ルナロードのおかげだ。彼女の命令で働いている時だけは、『誰か』ではなく『自分』になれる。ルナロードの隣こそが、世界でたった一つの安心出来る居場所だ。
「それは良かった。これからは『ヌル』じゃなくて『ジェノール』と名乗るといい。君は自由だ。望み通りの自分になっていいし、どこにいたっていい。君の欲望を、私は肯定しよう」
個人としてのあり方を捨てて国に尽くしたはずの人間は、自分のために国を裏切った。その矛盾こそは、ジェノールの抑圧された欲望の表れだった。個性無き人、心無き人には、ジェノールはなれなかったのだ。支配者の思い通りに動く歯車を作る計画は、立案時点で破綻していた。
「自由、ですか。困ってしまいます。私はルナロード様のお力になれるのならそれで良いのに。お隣にいさせて下さい」
「心底願うなら、それでもいいよ。でも君はまだまだ個性を探したいはずだ。所謂、『自分探しの旅』ってやつに興味あるんじゃない? 君が生まれて初めて手にした自由な時間を、存分に生かしてみたいでしょ?」
「それは……」
それは、あまりにも魅惑的な提案だった。誰かに定められた人生ではなく、自分で決める人生なのだ。己の個性と十分に向き合える時間が、この先に待っている。ルナロードはそれを許してくれる。
自由は不安が伴った。命令されていなければ、どう動けばいいか分からない。『誰か』にならなければ思考すら紡げない。そんな生き方しかしてこなかったから。
だけどこの不安は、快感ですらあった。この先の人生は自分で決め、自分で求め、自分で動くのだ。自分で満ち溢れている。あんなに曖昧模糊だった自分自身が、確固たる存在に変わっている。『ジェノール・コルレリコ』としての人生をやっと手に入れたのだ。
「……申し訳ございません、ルナロード様。私は、私の道を進んでもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。君を縛るものは何も無い。さぁ、行っておいで」
最後の仕事を終えたジェノールを、ルナロードは解放した。ヤマトとピアルタにも自由に生きるよう通達してある。これで、完全に竜人傭兵団は解散を迎えた。世界大戦は終わり、竜人傭兵団も役目を終える。そして、戦争の次の『試練』が人類に叩き付けられた。
ジェノールはルナロードに一礼し、去った。ヂールの部屋を出て廊下を進む途中、装飾のスタンドミラーが目に映る。その時、ジェノールは自分の顔が金髪の少女だったと気付いた。
「こんな顔だったんだ。今の私は」
本来の顔なんて覚えていない。竜人の能力を多用し、都合に合わせて様々な顔を使用してきた。だから顔の形に執着など無かった。この顔も、たまたまそうなっていただけだ。
だが、今の顔はどことなく気に入った。『ジェノール』として生きていくと決めた記念に、この顔だけは覚えておこう。これが私の顔だ、と新しく定義しよう。
だってルナロード様は、この顔の私に微笑んでくれた。
ジェノール・コルレリコは自分の足で歩き出す。誰のものでもない、自分自身の顔で笑った。
将軍でもなく、エニグマ部隊でもなく、ヂールの部下でもなく、ルナロードの部下でもない。今、ジェノールはジェノール以外の何者でもなかった。
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