第913話 「過去を捨てる覚悟」
「記憶を、消す?」
シエルはじっと我が輩を見た。我が輩が冗談で言っているのではないと、察したらしい。
「そうだ。シエルなら出来るのであろう? 我が輩の過去を忘れさせる技術を、持っているはずだ」
シエルは脳科学に詳しいと、シエル自身が言っておった。特に記憶分野の技術に長けていて、人の脳から記憶を奪うのも可能だと。シエルは己の事を多くは語らないが、シエル程の高名な学者が家出しても追われずに済んでいるのは、その記憶消去技術が絡んでいるのは間違いない。
「…………」
シエルは思案顔をした。唐突にこんな事を言われ、困惑するのも仕方あるまい。我が輩の意図を探ろうとしているだろう。どうするべきか。我が輩の過去と、『悪党』になろうとした経緯を全て暴露すべきであろうか。
「オーディン様は苦しんでおられたのですね」
我が輩が迷っていたら、シエルは優しい語気で言った。我が輩をまっすぐに見つめる彼女の目から、我が輩も目を離せない。
「悪役を演じるのは、簡単じゃありませんから。特に、オーディン様のような優しいお方なら。貴方の苦しみは、ワタシにも少し分かってしまいました」
「……なっ」
我が輩は、己の境遇も信念もシエルに語ってないはずだ。シエルが過去を語らないのと同様に、我が輩もシエルに過去を伝えていない。『オーディン・グライト』が偽名なのは知っていても、我が輩の本名は知らない。お互いが知っているのは、お互いの『今』だけだ。そうである、はずなのだ。
「何もおっしゃられなくても、ワタシには伝わってますよ。オーディン様は本当は優しくて、純粋で、だから『イーヴィル・パーティー』をやっているんですよね。でも、辛いはずです。やりたい事とやらねばならない事が矛盾しているんですから」
「……シエル」
彼女は、我が輩の過去を知らない。今しか知らない。それでも、我が輩の『今』を見ていて気付いたのだ。具体的な経緯は知らなくとも、我が輩の信念は感じ取った。本当に、シエルは聡い女だ。我が輩の稚拙は隠し事は、世間を騙せてもシエルは騙せなかった。
「オーディン様は強いお人ですけど、心の内は子供っぽくて……そのまっすぐさが危うく見えてしまうんです。だからワタシが支えないと、って……。すみません。失礼な事を」
「いや、良い。我が輩とて分かっていた」
我が輩の軸になっていたのは、子供じみた純粋さだったのだ。ヅィックを悪者にして虐めたクラスメイトや、死刑を嬉々として傍観する市民……あのような『正義の狂気』を我が輩は受け入れられなかった。ランクトプラスや世界に蔓延る『正当化された暴力』を許せなかったのだ。その歪みを容認出来なかったが故に、我が輩は『悪』を一身に引き受ける覚悟を決めた。世間の悪を許せない純粋さが我が輩を『悪』へ導いたのだから、皮肉な話だろう。
我が輩の決心そのものに後悔は無い。我が輩が間違っていたとは思わないし、「我が輩は本当は善人なんだ」などとほざく気も毛頭無い。我が輩は嫌われ者で良いのだ。我が輩は『加害者側』に立つべきで、世間は『被害者側』に立つべきだ。
だが……我が輩らのせいで涙する人々がいる事実が、我が輩を葛藤させた。我が輩の悪評が広まるのは別に構わん。いくらでも罵倒すれば良い。しかし我が輩は我が輩の悪行そのものに後悔を重ねているのだ。我が輩の良心が、『正義のための悪』を否定している。我が輩の所業は、あの愚か者共と何が違う? 正義のためならば何をしても良いのか? 『正義』と『悪』に、差など存在するのか?
……昔から続けてきた葛藤だ。誰にも教えていない。それでも、シエルには見抜かれていた。それで良い。彼女の聡明さは尊敬に値する。我が輩は戦いにおける『強さ』を鍛えていたが、己の葛藤に打ち勝つ強さなど持っていなかった。言わば心の強さだ。我が輩に欠けていたものは、シエルが代わりに持ってくれていた。
「恥ずかしながら、我が輩はもう限界なのだ。苦悩から逃げ出してしまいたい。そのためにはもう、我が輩が我が輩と捨てる他無いのだ。完全な、『悪』としてのみ定義された存在に変わらねばなるまい」
アルディーノ・ランクティアスを捨て、オーディン・グライトになる。我が輩の心に残されるのは、『悪』にならねばという強迫観念と、シエルを愛する心だけだろう。
世間が想像する『オーディン・グライト』をなぞるだけの装置だ。
人間というよりむしろ、悪を為すだけの概念だ。
『悪の王』を目指すだけの亡者だ。
過去を捨てるのは、己を捨てるのと同義。後には引けない。だが、それしか方法は無いのだ。我が輩の中にアルディーノ・ランクティアスとしての心がある限り、葛藤は続くだろう。駄目だ。無敵の悪党たる我が輩でも、我が輩自身には勝てない。
「それで、オーディン様は救われるのですね」
シエルは我が輩の意図を理解してくれた。我が輩の為ならばシエルは喜んで協力してくれるだろう。その上で、シエルは尋ねた。覚悟はあるかと。記憶喪失という『救済』を受け入れる覚悟を。
「決心した事だ。安心するが良い。どんな事があろうと、我が輩は貴様を忘れはしない」
記憶を失えば、少なからず現状は変わるだろう。得体の知れない恐怖は確かにあった。それでも、我が輩は前に進むと決めたのだ。
「……こうなる予感はありました」
シエルはそう言って、我が輩を案内した。イーヴィル・パーティーのアジトの一つ、その中にあるシエルの私室へ。
「準備はしてあります」
シエルの部屋は、チェルダード王国の中央都市を彷彿とさせる高度な機械で埋め尽くされていた。




