第912話 「アルディーノの葛藤」
何かが明確に変わった訳ではない。我が輩は相変わらずイーヴィル・パーティーのボスで、シエルは相変わらずイーヴィル・パーティーの参謀だ。ただ一つ変わったとすれば、客観的な状況ではなく主観的な感覚だろう。シエルと共に歩む日々は輝いて見えた。シエルと話しているだけで満たされていく。胸の奥に澱み続けていた何かが、すっと失せていく感覚があった。
これが愛の効能だと言うのか。こんな素晴らしいものを、我が輩は今まで知らずにいたのか。世界を恐れさせる悪党として君臨していようと、やはり我が輩は未熟で無知だったのだと思い知らされる。サジェッタに先輩ヅラされても仕方ないというものだ。
清々しい気分だった。愛する者が側にいてくれる。これ以上の幸福はあるまい。
だからこそ。
だからこそ、だ。
我が輩はこの幸福をいつまでも享受している訳にはいかない。
我が輩の心に初めて、『執着』が芽生えてしまったのだ。愛するが故に、シエルを手放したくない。シエルとの日々を奪われたくない。その恐怖は、徐々に我が輩の『悪』を侵食していった。
我が輩は何度も自問するようになる。このまま『悪党』を続けていいのか。それは、我が輩にとってもシエルにとっても良い結末にはならぬのではないか。そして、世間から憎まれるべき『悪役』に、人並みの幸福があって良いのか。
我が輩は人類にとっての『悪』のメタファーだ。分かりやすい『悪』の具現化だ。そして世間が求める『悪』とは、『自分達とは違う存在』である。「あの悪人共は我々の仲間ではない」と忌諱するからこそ、堂々と仲間外れにして糾弾出来る。そういった、「遠い存在である」という認識が必要だ。「我々は普通の人だから悪人にはならない」という安心感を民は求めるのだ。だから、我が輩は『普通』であってはならない。
無論、『悪』とは得てして『普通』の人々から生まれる。その具体例を、我が輩は何度も何度も見てきた。だが、その現実を民は受け入れたくないのだ。自分が『善』の側にいると思い込みたいのだ。故に我が輩は、人類を救済する英雄となるために民の願いを叶えなければならない。我が輩は、民の幻想を守るのだ。
普通の幸福を、人類は我が輩に望まない。人を愛し幸せを享受する『悪党』など、民の理想とする『悪役』とは違う。我が輩は悪魔のような設定を維持してこそイーヴィル・パーティーの長たりえる。
分かっている。理屈ではそうだと、分かっているのだ。だが、一度手に入れてしまった幸せを捨てる事が怖いのだ。
自分で自分を嘲りたくなる。国を捨て、父を捨て、友を捨てた我が輩が、一人の女を捨てられない。我が輩の生涯を賭けた信念は、ただ一度の愛に屈しようとしている。
葛藤が止まらなかった。悪の英雄になるべきか、シエルを愛する男になるべきか。無論、両方を選ぶ事も出来た。イーヴィル・パーティーとして生きつつ、シエルを愛し続ける未来もあるだろう。しかし、理論上は可能でも心情的に不可能だと思えた。その両立を続けられる気がしないのだ。
何故なら、アルディーノ・ランクティアスとしての我が輩は昔から葛藤していた。初めは窃盗一つすら躊躇し、組織を大きくした後も、悪行を後悔し続けていた。結局我が輩は、良心を捨てられなかったのだ。「人類を救うため」という大義があれど、悪を貫くのは難しかった。人類全体の命運と、目の前の一人の涙は、単純に天秤にかけられるものではない。『世界を救う正義』が、『少数の者に被害を与える悪』より重いとは限らないのだ。
今一度、問おう。
我が輩は、正義のために悪になれるか?
今更な疑問だ。だが、我が輩は目を逸らし続けていた。信念と大義を掲げ、己の本心を誤魔化していた。抑圧された感情は、シエルとの愛すべき日々が引き金となり爆発した。我が輩は、これからも葛藤を続けるのか?
あぁ、甘えてしまいたい。「もうこんな事はやめていいんだ」と許して欲しい。普通の男として愛を築き生きていくのが何が悪いのか。英雄なんて下らない。人類の救済なんてどうでもいい。悪役は、誰かが代わりにやってくれ。
「………………」
駄目だ駄目だ駄目だ。我が輩は何を考えている。誘惑に屈するな。『悪』を続けろ。他の者が『悪』にされないために。正義の味方になりたがる者達の発散材料になるために。我が輩という共通の敵を前にして、人類が一致団結するために。さもなくば、憎しみの矛先を失った人類は無関係の誰かを標的に仕立て上げるだろう。
我が輩を許してくれ。いや、許すな。
我が輩を解放してくれ。いや、逃がすな。
我が輩を認めてくれ。いや、認めるな。
どちらだ。我が輩の本心はどちらなのだ。きっと、どちらも本物だ。だからこそ厄介だ。この葛藤に、結論は出ない。どんな未来を選ぼうと、それは『間違い』だ。
唯一、この迷いから逃れる術がある。これは解決ではなく、逃避だ。結論を後回しにしているに過ぎない。問題の発生源を取り除いて、上手くいった気になっているだけだ。だとしても、やはり我が輩は現実から逃げた。世界を騙し続けた我が輩は、ついに自らにも嘘を吐く道を選んだのだ。
シエルを手放さず、イーヴィル・パーティーとして活動する覚悟を抱くにはこれしか無い。我が輩は、自分自身すら捨てるのだ。
「シエルよ。頼みがある」
ある日、我が輩はシエルに依頼した。無謀な提案だとは分かっていた。同時に、シエルなら可能だとも知っていた。
「我が輩の記憶を、消して欲しいのだ」




