第905話 「やがて夫婦となる二人」
「……ですか? 大丈夫ですか?」
声が聞こえる。我が輩の耳元で、必死に我が輩を呼ぶ声。あぁ、応えなくては。そっと目を開ける。霞んだ視界の内側に一人、少女の姿が映っていた。
「……貴様、は」
少女に手を伸ばす。その時、我が輩は己が倒れている事に気付いた。何故、我が輩は倒れている。ここはどこだ。我が輩は、何をしていたのだったか。
「あぁ、無事で良かった。応急処置はしましたが、まだ安静にしていて下さい。今お医者さんを呼びますからね」
少女は我が輩の顔を見て安堵の表情を浮かべた。それから、理路整然と状況を告げる。やっと我が輩も、自分の置かれた身を思い出した。
我が輩は、イーヴィル・パーティーとして普段通りの活動を行っていた。今回は他組織の悪事を阻止する仕事だ。奴隷商人達のアジトを突き止め、我が輩が一人で突入し壊滅させた。犯罪者を徹底的にいたぶり、恐怖を味わわせた上で、「この世の悪は我が輩だけのものだ」といつもの台詞を残して。
ただ、今回は敵の規模が大きかった。50人近い人数で、しかも全員武装している。それら全てを同時に相手するのは些か骨が折れた。戦闘の最中、傷を負ってしまった。我が輩とした事が、情けない。
「医者は、必要ない。貴様はそこにいろ」
医者を呼ぼうとする少女を、我が輩は引き止めた。我が輩は全世界で悪名高い『オーディン・グライト』だ。その名を聞いただけで人々は震え上がるだろう。当然、表社会の医者などに頼れはしない。
「え? ですが……」
「良い。この程度の傷、仔細無い」
我が輩は立ち上がった。周囲を見て、ここが奴隷商人どものアジトだと理解した。不覚にも、敵の拠点のど真ん中で気を失っていたらしい。奴らを全て倒した後だから良かったものの、まだ残党がいたら殺されていたところだ。全く、我が輩らしからぬ失敗だな。
「駄目です! 出血は塞ぎましたが、消毒が不十分なんですよ! 感染症が怖くないんですか!?」
少女は凄まじい気迫で叫んだ。思わず我が輩も面食らってしまう。初対面の者をこれ程までに心配するとは……いやそもそも、この娘は我が輩が誰か知らぬのか?
「我が輩は、オーディン・グライトであるぞ。貴様に世話される筋合いなど無い」
見知らぬ少女を、我が輩は冷たい言葉であしらった。オーディン・グライトの名を出せば怯えてくれると思ったのだ。だが、少女は平然と返す。
「知ってますよ。イーヴィル・パーティーのリーダーさんですよね。でも今は、ただの怪我人です。医者を呼んじゃ駄目なら、ワタシが看病します。じっとしていて下さい」
何を言っているのか理解に苦しんだ。我が輩の正体を知っていながら、一切恐れないだと? しかも、自分で看病するだと? 子供が医者の真似事でもする気か。
「何なのだ。貴様は」
「ワタシは……シエル。そう呼んで下さい」
少女は凛とした顔で言った。
それが、我が輩とノーラの出会いであった。当時はまだ、お互いに偽名を名乗っていたが。
ノーラは……いや、やはりシエルと呼ぼうか。この頃を語るのなら、本名より偽名が相応しい。
シエルは奴隷商人に誘拐された一人だった。街を散策していた時、唐突に攫われたという。ここルトゥギアの街は治安が悪く、少女が一人で歩くには危険すぎる地域だ。イーヴィル・パーティーが頻繁に犯罪者狩りを行ってはいるが、それでも事件は絶えない。我が輩としてはイーヴィル・パーティーの事件のみ起こる状況が理想であるのだが、この街の治安は警察であろうと悪党であろうと払拭しきれない。
奴隷商人どもを打ち倒した後、奴らに囚われていた奴隷や奴隷候補達は解放された。シエルも、危うく奴隷にされそうになったところを我が輩が救出した事になる。だが、それで感謝されるのは『悪党』として相応しくない。
「そうか。ならばどこにでも行くが良い。言っておくが、我が輩は貴様を助けたのではないぞ。奴らが気に食わなかっただけだ。くれぐれも感謝などしてくれるな」
我が輩の良い評判が万が一にも広がらないように、シエルに釘を刺しておいた。だが、シエルはきょとんとした顔で「はい。そうですよ」と答えた。
「貴方が来なくても、ワタシは皆さんを解放してましたし、ワタシも逃げ出せてました。だから、貴方のおかげではありません」
自信満々にシエルは言った。虚勢ではなく本気で言っているようなので、一層戸惑ってしまう。この娘、誘拐されておきながら自分や他の誘拐被害者を救う算段を立てていただと? 胆力がありすぎるのではないか。
「むぅ……そうか。なら良いのだが」
いや、何が良いのだ? 自分でも上手く言葉が思い付かずにいる。
しかしながら、不思議な少女だ。奴隷商人に誘拐された者達はとっくに逃げているだろうが、何故この娘はここに残った? しかも、我が輩の傷を応急処置までして。我が輩に恩を感じている訳でもないのなら、そこまでする必要は無かろうに。素直に親の元へ帰れば良かろう。
「貴様、家には帰らんのか。家族が心配しておるのではないか?」
「ワタシ、家出してきたんですよ。心配される心配も無いので、あしからず」
家出してきた、とまるで些事であるかのように語るシエル。そして、付け加えた言葉も意味を理解しかねた。
「家出だと。貴様、どうやって生きていくつもりだ」
この時代は、子供が一人で生きていける程優しくない。『はじまりの日』から50年経った今も、世界は不安定だ。行き場を失ったシエルに、正直なところ我が輩は心配してしまった。
するとシエルは、我が輩の方を見てにっこり笑った。
「そうですね……。どうせ行き当たりばったりの旅ですし、貴方について行くのもいいかもしれませんね」




