第900話 「諜報部本部襲撃事件」
その日がやってきた。
厳しい厳しい吹雪の夜だった。ランクトプラスでは珍しくもない気候だ。だが、「よりにもよって」と僅かに思ってしまった。万全の状態で諜報部本部には辿り着けまい。だが、逆に良かったかもしれない。前も見えないような吹雪なら、我が輩の姿を目撃する者も少なそうだ。
準備は全て整えた。息を整え、玄関の前に立つ。この先に行けば、我が輩は後には引けない。捨てるものの大きさを、今更になって思い出した。だが、得られるものの方が大きいと信じたから進むのだ。我が輩は今こそ、人類を救う。
「どこへ行くのだ。アルディーノよ」
扉に手をかけた瞬間、背後から声がした。振り返るまでもない。我が輩は動揺を悟られないように父上に返事をする。
「少し、散歩をしたい気分でしてな」
適当な嘘を吐いた。我が輩が纏うマントは吹雪対策だとして誤魔化せても、手に持つ大きな鞄は何だと答えよう。父上に見つかるとは思わず、稚拙な嘘を言ってしまった。
「ふむ。学校で色々あったとは聞いておる。一人外で物思いに耽りたい気分もあろうな。だが、早く帰ってくるのだぞ。今夜はよく吹雪く」
父上は我が輩を心配してくれた。遠征から帰って間も無く、体を休めたいはずであろうに、父上は我が輩が外出するのに気付いて声をかけに来てくれたのだ。父上は誠に、我が輩を第一に考えて下さっている。その優しさを裏切らねばならないのが、何よりも辛い。だが、我が輩はそんな良心を捨てるべきなのだ。世間が求める『悪党』は、良心など持たぬ存在だから。
「……行って参ります、父上」
この吹雪の夜に我が輩を見送ったのは、我が輩なら必ず無事に帰ってくると信じているからであろう。その信頼を、我が輩は切り捨てる。
扉を完全に閉めた後、我が輩は呟いた。
「さらば、敬愛なる我が父よ」
独り善がりの別れの言葉は、冷たい風の音に掻き消された。
諜報部本部施設は閑散としていた。正面口を守るのは、二人の警備兵と監視カメラのみ。普段よりセキュリティは緩い。計画通りだ。
今夜は本部職員の引き継ぎがあり、監視システムも新たなものに更新される。その時、数分間だけ監視の目が無くなる隙があった。更新開始時刻は事前に調べてある。軍にて権威を持つランクトプラス家だから入手出来た情報だ。
「……寒いな」
厚手のマントに身を包み、顔をヘルメットで覆いながらも、やはり吹雪は骨身に応えた。だが動かずに待つのだ。折角木の陰に隠れているのに、見つかったら何もかもが台無しだ。
ヂールは今頃手紙を読んでくれている頃だろうか。彼ならどう思うのか。「戯言だ」と笑って無視するかもしれない。それとも信じてくれるか。あの手紙には、我が輩がランクトプラスを出て行って『悪党』として生きていくと書いておいた。英雄の息子として期待を浴びた我が輩が、ランクトプラスの裏切り者となるのだ。あり得ない話だと思われても仕方あるまい。だがどちらでも良いのだ。我が輩を信じようと信じまいと、我が輩が『悪』となる未来に変わりは無い。
突入時刻が近付いている。ひたすらに我が輩は時計とにらめっこした。後3秒……2秒……1秒。
我が輩は飛び出した。鉄棒を片手に監視兵の前へ接近し、騒がれるより先に殴った。たった二人の警備なら、突破するのに難は無い。強いて言うなら、殺さないよう手加減するのが一苦労だったが。
我が輩は正面口を強引に破り、本部施設に侵入した。監視システムが止まっているので、我が輩という侵入者が来ても警報は鳴らない。だが、人目に触れれば騒ぎとなり警備が厚くなるだろう。時間に余裕は無い。我が輩は情報管制室に一目散に進んだ。
途中で何人かに発見されたが、増援を呼ばれる前に倒す事が出来た。国家のために鍛えたこの戦闘技術を、国家を裏切るために使うとは皮肉なものだ。軍の者を殴る度に、胸がズキリと痛む。
いかんな。この調子では『悪党』になどなれはしない。アルディーノ・ランクティアスとしての自分は捨てなければならない。
「ここか」
諜報部の情報管制室に辿り着いた。ここにはランクトプラス軍の重要情報が保管されている。重要書類と重要データの宝庫。無論ここには、我が輩の情報も記録されていた。これから国外に出て逃走する我が輩にとって、致命傷になり得る情報だ。
我が輩は情報管制室に爆弾を仕掛けた。後は、本部を脱出してから爆破すれば良い。無関係な者を巻き込まぬよう、ここから避難するように誘導もしなければ。
目下の目的を達成し、我が輩は己の存在を放送で伝える事にした。と言えど、無論「アルディーノ・ランクティアスが諜報部本部を襲撃した」などとは伝えない。今の我が輩はマントとヘルメットで相貌を隠す、『正体不明の侵入者』だ。故に、「本部を襲う不届き者がいた」とだけ連絡すれば十分だ。その上で「襲撃者は外に逃げたから追え」と指示すれば、従順なる兵士達は外に向かうだろう。爆発が届かないような距離まで。
ここまで順調に事は進んだ。爆破後に我が輩が国外に逃げれば、我が輩の『悪党』としての人生が始まる。ランクトプラス軍はこう思うだろう。「前触れなく本部が襲撃され、爆破された上にアルディーノが行方不明になった」と。襲撃事件に巻き込まれて死んだと思ってくれるはずだ。我が輩が死んだ事にすれば、我が輩を追ってくる者もいない。
あと少しだ。待っておれ、全ての人類よ。救済は間も無くだ。
我が輩が至高にして唯一の『悪』となれば、他の者は『悪』でなくなる。『悪』のレッテルを貼られ糾弾される事も無くなる。そして、『悪』を責める楽しみは全人類に平等に供給される。我が輩だけが犠牲になれば、皆は憎しみ合わずに済むのだ。全ての憎しみは、我が輩が受け止めよう。
これが、全人類を救う方法だ。我が輩なりの『英雄』のあり方だ。私利私欲を捨て、皆のために生きる者。『悪党』こそが我が輩の目指す『英雄』だったのだ。民は『正義』ではなく『悪』を求めているのだから。
皆の願いは、今こそ叶う。あと、少しで……。
「お前……何者だ?」
我が輩は立ち止まった。あぁ、やはり我が輩の前に立ち塞がるのは貴様か。そうでなくてはならない。
ギルドレイド・クルスよ。我が親友よ。貴様が我が輩の敵でいてくれる事に感謝を。
「…………」
我が輩は黙って鉄棒を構えた。声を出しては、正体不明の襲撃者がアルディーノ・ランクティアスだと知られてしまう。我が輩は、我が輩である事を隠して、ギルの前に対峙した。
ギルは剣を構えた。警備兵として襲撃者を倒すという信念が、その剣に宿っていた。
忠誠心と正義に満ちた軍人、ギルドレイド。『悪』になろうとする我が輩を止めるのに、貴様以上に相応しい者はいまい。
良い。それでこそ、だ。これは我が輩の試練なのだろう。友を倒し、正義を裏切る……それが、我が輩が『悪』になるための試練だ。ならば超えてみせよう。
正直に叫びたかったぞ、ギル。貴様との戦いは、何よりも楽しい時間であると。




