第898話 「示唆」
「父上! 何処にいらっしゃいますか!」
ランクティアス邸を彷徨い、我が輩は声を張り上げた。父上が何処にも見当たらない。奉公の者に尋ねると、父上は遠征に向かわれたとのことだった。
「遠征? そんな話は……」
父上の任務内容は把握しているはずだった。我が輩の知らぬうちに遠征に出かけたとなれば、急な任命だったのであろうか。上官からの命令であれば、父上とて決して逆らえない。
「来週には戻られますでしょう。ランクトプラスの勝利をお土産に」
奉公の者は我が輩に安堵をもたらすように笑顔を見せた。その気遣いには感謝するが、父上が今いないという事実は我が輩に不安を縫い付けた。来週ではない。今聞きたかったのだ。
「父上……」
失意に沈む我が輩の袖を、くいくいと可愛らしく引っ張る子供がいた。視線を下げてみると、そこにはヂールが立っていた。
「お顔が暗いですよ? アルディーノさん」
ヂール・ランクティアスは微笑んだ。彼は我が輩の従兄弟であった。まだ5歳でありながら、学問の才覚を現している少年だ。
「ヂール。来ていたのか」
ヂールが我が輩の家に来るのは珍しかった。普段は別の屋敷に住んでいる。いやしかし、前にヂールの家を訪れた時には会えなかったな。あの日は、ヂールは軍事学校の図書館で勉強をしていたのだったか。ヂールは我が輩に引けを取らぬ勤勉な男だ。
「はい。オルディードさんに頼まれて来ました。僕のお父様も、遠征ですから」
「実に急なのだな」
「このご時世ですから」
ヂールのその返答だけで、ランクトプラス軍の忙しさを示すのに十分だった。これほどまでにランクトプラス軍の事情を把握し、社会の大義を理解して答えられる5歳児が、この国に何人いるだろう。ヂールは本当に聡明な子供だった。頭が良い者は嫌いではない。
「また戦争、か」
「それがランクトプラス軍の存在意義ですから」
ヂールの返答は、まるで教科書のようだった。動乱の世界において戦争が始まるのは必然であり、戦いが求められるのは当然であった。だからこそランクトプラス軍は存在出来るのであり、我々は英雄を目指せる。そんな事は、言われなくとも分かっていた。
現役軍人の息子二人は、本国にて安静の夜明けを過ごした。ヂールとの会話は知的で、年上の我が輩が学ばされる事が多かった。
ヂールは来年に軍事学校へ入学するらしい。諜報学科へ進みたいとの事だ。頭を働かせるのが得意なヂールには、まさに最適な進路と言えよう。
「……ヂールよ。英雄とは一体何なのであろうな」
ふと、我が輩は尋ねてみたくなった。様々な知見を網羅するヂールなら、我が輩の疑念を晴らしてくれるのではないかと思ったのだ。5歳児に問うべき質問ではない気がするが、ヂールが相手だと年齢など些細な問題にしか思えなかった。
「戦果を残す者、でしょう」
ヂールは即答した。確固たる信念が無ければ、こうも素早く答えれはしまい。
「戦果か。より多く敵を倒した者が英雄になるのだな」
「それだけではありません。たとえ敗北しても、その失敗を次に活かせるのなら立派な戦果です。最善でなくとも最悪でなければ上々です。敵を殺せなくても、国のために尽くせたのなら英雄でしょう」
「ふむ。ためになる意見だ」
本当に、5歳の少年の発言とは思えなかった。ヂールはこの歳で、ランクトプラスの未来を考えてくれている。
「父上も、似たような事をおっしゃっていた。真の英雄とは、人類のために尽くすものだと」
「素晴らしいですね。ですが、その『人類』とは誰の事です?」
純粋な瞳でヂールが見つめてきて、我が輩は困惑した。そんな質問が来るとは思ってもいなかったのだ。
「誰、とは。人類は人類であろう」
「人間であれば誰でも、という意味でしょうか。困りましたね。それでは、『全人類』を救うなんて無理難題です」
思案顔で言うヂールに、我が輩は掘り下げて尋ねた。
「何故だ。救われない者がいると」
「例えば、大罪人がいたとしましょう。その人に刑罰を下せば、その人は救われなかった事になります。でも罪人を看過すれば、秩序は乱れ他の民が救われないでしょう。だから多くの民のために、少数の民を切り捨てる。社会とは、刑罰とは、得てしてそういう仕組みです。誰しもを救うなんて、許されません」
教科書を読むように言うヂール。咄嗟の例え話にしては具体的で、全く縁遠い比喩でもなかった。
「それは確かにそうであるが……」
悪を裁くのは、間違いなく『正義』ではあろう。しかしヅィックや今日の死刑囚の事を思い出せば、その『正義』を素直に肯定しづらかった。
「誰かを切り捨てるのが社会のあり方……だとしてもアルディーノさんは、人類を救う英雄になりたいのでしょう?」
「……あぁ、そうだ」
我が輩は父上の顔を思い出す。父上はきっと、戦う意思の無い者に刃を向けたりはしない。
「だったら、助ければいいんじゃないでしょうか。誰だって」
ヂールは我が輩の目を見て言った。否、彼はやはり、我が輩の心を見て言ったのだ。
この聡明な少年は、理解しているのだろう。我が輩が求めていた答えを。我が輩の迷いの行く末を。
「助けても、良いのか」
「人類全員を救う無謀、面白いじゃないですか。僕はやりたくないですけど」
ヂールはニヒルに笑い、首を横に振った。
そんな無謀が出来るはずがないと挑発しているようだった。
いや、あるのだ。
我が輩なら世界を救える。人類を救える。父上のような英雄になれる。方法はここに、確かにあるのだ。
善き者も悪しき者も、弱き者も強き者も、愚かな者も聡明な者も。
誰一人として切り捨てない。……否。唯一人、我が輩を除けば。
我が輩に必要なのは、覚悟であった。種火のように燻る我が覚悟を、熱き炎にするために、我が輩は翌日から動き出していた。




