第895話 「『悪』の始まる物語」
次の日教室に来た我が輩は、ヅィックがいない事に気付いた。彼が休んだのは新学期始まって以来の事であった。クラスメイトの加虐に耐えかねたか。無理もないと思ったが、修行に誘えないのは困った。
クラスメイト達は普段通りの学生生活を続けている。ヅィックがいなければ、本当に彼らは『普通』であった。だから、表面的には解決したかのように見えなくもない。無論、そんな感覚はまやかしだ。
ヅィックはそれからも休み続けた。すぐに戻ってくるだろうと思っていたが、それは淡い希望に過ぎなかったと知った。流石に放置出来ず、我が輩はヅィックと連絡を取ろうとした。教官からヅィックの家の電話番号を聞き、学校の公衆電話を借りた。しかし、繋がらない。時間を置いてかけ直しても同じ結果だった。
ヅィックは家にいないのだろうか。家族もか? そう言えば、ヅィックの両親は陸軍の遠征に出ていると聞いた事がある。ならばヅィックは家に一人でいるのか。だとしたら、電話に出てくれても良かろうに。居留守をしているのか?
「行くしかあるまいか」
こうなれば、直接会う他無い。我が輩はヅィックの家を訪ねてみた。インターホンを押してみるが、やはり出ない。本格的に居留守を続ける気か。それとも外出中か。
「ヅィックよ。我が輩だ。アルディーノだ。最近学校に来ておらんようだが、大事は無いか?」
玄関扉の前から声をかけてみた。しかし返事は無い。ふと周りを見てみると、我が輩は違和感に気付いた。郵便受けが詰まっている。ここ数日、一切郵便物を回収していないのか。ヅィックが頻繁に外出しているのだとしたら、流石に郵便物を取っていそうなものだが。
我が輩は窓を覗いてみた。カーテンに防がれて中の様子は見えないが。その暗さから電灯が点いていない事は分かった。カーテンで日光を遮っておいて、電灯も消しているのか。それでは部屋が暗くなってしまうではないか。
妙な雰囲気だった。人が住んでいる家には思えない。家全体から生気が失われているようだった。
「仕方あるまい。多小手荒な手段だが」
ヅィックに会うため、我が輩は家の従者に捜索を依頼した。行方不明者を捜すのもランクトプラス軍の仕事だ。民の安全を守るためという目的もあるが、テロの容疑者を監視する目的もある。内乱を企てる者は、軍に見つからぬよう姿を隠す場合が多いのだ。そういった事情もあり、ランクトプラス軍……特に諜報部は行方不明者捜索のプロであった。ヅィックが外出して姿を隠しているのなら、すぐに見つかるだろう。ランクティアス家の権力を以て軍を動かせば容易な事だった。
そしてヅィックが家にいる場合も問題は無い。基本的には個人の家に無断で侵入するのは違法だが、軍の令状があれば誰でも家宅侵入が可能だ。これも、反逆容疑者を取り締まるための法律である。『ヅィックの家が最近怪しい』という事にして捜査令状を取得すれば、我が輩がヅィックの家に入る権利を得る。これも、ランクティアス家の権力でどうにでもなる事だ。
要するにランクティアス家の権力でゴリ押しだ。こういうやり方は好まんが、文句を言っている場合ではない。
令状は簡単に手に入った。ヅィックの捜索も開始している。これでヅィックを再び修行に誘えると思った。結論から言えばヅィックは家にいて、すぐに見つかった。だが、修行には二度と誘えないとその時理解した。
軍の者を率いてヅィックの家を強引に突破した後、我が輩はヅィックの変わり果てた姿を見た。リビングで首を吊って垂れ下がっている、ヅィックの姿を。
「…………な」
言うべき言葉が見つからなかった。こんな光景を、どうやって想像しろと言うのだろう。何故だ。何故ヅィックは死んでいる。何故自殺している。
腐敗が始まって変色している学友の遺体から、我が輩は目を逸らせなかった。見て見ぬ振りは許されないと、我が輩の心が訴えていたのだ。この惨状が誰のせいか……何となくだが、理解していたから。
一体、いつ自殺したのか。郵便受けを見るに、少なくとも数日前。おそらく、ヅィックが学校に来なくなった日に……。
「ご学友はお亡くなりになられたようですね。容疑者死亡という事で、捜査はすぐに終わる事でしょう。ご協力感謝致します、アルディーノ様」
我が輩の従者は淡々と告げた。反逆の容疑者が死んでいたのだから、軍にとっては拍子抜けする結末だっただろう。その容疑は我が輩のでっち上げなのだが、そんな事はどうでも良い。
我が輩の胸中は後悔の念でいっぱいだった。ヅィックを取り巻く一連のトラブルは、こんな形で結末を迎えてしまったのだ。これを最悪の結末と呼ばずして何と呼ぼう。ヅィックは結局、一度も救われずに命を絶ったのだ。
我が輩の正義が、音を立てて崩れていく。我が輩はヅィックを助けられなかった。目の前の問題すら解決出来ず、何一つ為せぬまま、取り返しのつかない失敗だけが残った。
ヅィックを殺したのは誰だ。ヅィック自身か? クラスメイトか? 否、我が輩だ。我が輩の無力さが、彼の命を奪ったのだ。
「我が輩は……何をやっていたのだ」
学友一人救えない男が英雄を目指しているのだから、とんだ笑い種だ。だが、話はこれで終わりではない。ヅィックの死は始まりに過ぎなかったのだ。
そう、これが。これこそが。
我が輩の『正義』が終わり、『悪』が始まる物語だ。




