第888話 「記憶封じの頭痛」
「おかえりなさい。上手くいきましたか?」
ランクトプラス郊外にある小さな宿。そこでノーラ・ハルバートは待っていた。人口が少なく軍の警備も薄い地域で、潜伏先としては最適だった。
「見ての通り。だせえ敗走っぷりをシエルにも見せてやりたかったなぁ、ハッ!」
皮肉を吐き捨て、サジェッタはノーラの泊まる部屋に入った。本部襲撃が終わったらここで合流する手筈になっていたからだ。シエルことノーラは、サジェッタを一目見て言葉を失う。自分達のボスであり、最愛のパートナーが気を失ってサジェッタに抱えられていたのだから。
「……っ!」
顔面蒼白になりながら、ノーラは駆け寄った。
「オーディン様! ワタシです! ノーラです! 目を開けて下さい!」
「おいおい落ち着けよシエル。ってかノーラだっけ? どっちでもいいか。ボスは死んじゃいねー。記憶を取り戻したらしくて、頭痛を発症してるだけだ。寝りゃ治るだろ」
サジェッタはノーラを宥めるように言う。だが、ノーラは一層慌てるだけだった。
「記憶を……!? そんな、だとしたら危険です! このままではオーディン様は……。早く、記憶を消さないと!」
「っつってもなー。記憶消すのって、専用の装置とか要るんだろ? ここじゃ無理だろ」
サジェッタは部屋を見渡した。古い宿の一室は、一泊を過ごすのに最低限の設備しか無く、記憶操作の装置など当然あるはずもなかった。中央都市でなら当たり前のように出来る事も、異国の地ではそうもいかない。
「……ではせめて、薬だけでも。頭痛の進行は抑えられるはずです」
ノーラは布団を敷いた。「寝て治るようなものではありませんが」と言いつつ、やはり瀕死の病人には安静にして貰いたかった。
「アタイはまだ半信半疑なんだけどな。ボスが過去を思い出すと頭痛になって、記憶を失うと治る……だっけか。そんな妙な病気があるのかよ。悪趣味な冗談じゃねーよな?」
「本当です。オーディン様のこの症状は、ワタシが発症させたものですから」
「でもよ。ボスの記憶を奪っても、ここにいる限りまたすぐに思い出すんじゃねーのか? ボスの本名……確か、アルディーノ・ランクティアスとか言ってたしよ」
その名を聞いて、ノーラは動きを止めた。ランクトプラス軍の事情にさほど詳しくないノーラだが、それでも『ランクティアス家』は知っていた。代々ランクトプラス軍を支えてきた由緒正しい一族だ。オーディンの正体がランクティアス家の人間だとしたら、この国と最も深く関わっている一族の出身だという事になる。ランクトプラスの地を歩いているだけで、また過去を思い出しかねない。
「オーディン様が……ランクティアス家の」
サジェッタは「ったく、重ぇ重ぇ」と呟きながらアルディーノを布団に寝かせた。ここまで運んできた苦労を愚痴りたい所だが、流石のサジェッタも気絶中のボスに悪態をつく気にはなれなかった。不安そうな顔などしないサジェッタだったが、彼女もアルディーノの容体については理解している。アルディーノは今、生死の狭間を彷徨っているのだ。
「頭痛だけで死にかけるって、相当だろ。これをお前がやったって? ハッ! 珍しく意味分かんねー事してんのな。夫婦喧嘩でもあったのか?」
この世に奇病は数あれど、記憶を取り戻そうとしたら死にかける病気など聞いた事がなかった。興味半分でサジェッタは聞いてみる。こんなに旦那の容体を心配しているくせに、自分の手で旦那を病気にさせた理由を。
「……この頭痛は、封印なんです。オーディン様が自分の罪に苦しまないために。だってオーディン様は、本当は優しいお方ですから」
床に伏せるアルディーノに薬を飲ませ、ノーラは言った。サジェッタは思わず「ハァ?」と素っ頓狂な声を漏らしてしまう。『イーヴィル・パーティー』のボスが「優しい」だなんて、似合わないにも程があった。
「忘れてしまった方が楽ですよね。だから、本当は思い出さないで良かった。そうすれば頭痛も起きず、全部楽に……。でも、きっと現実逃避に過ぎないのでしょう。その気になれば忘れられるし、記憶に執着しなければ頭痛も治まるのに、オーディン様は頭痛に苦しんで倒れた。やっぱりオーディン様は、自分の過去から逃げずに立ち向かおうとしているんです」
「おいおい。さっきから何を言っているのか分かんねーよ。アタイにも通じるように話しな」
ノーラの話がイマイチ文脈を無視しているようで、サジェッタは思わず眉をひそめた。ノーラは何かを考える表情をして、「そうですね」と呟いた。
「記憶から逃げ切るのは現実的ではありません。オーディン様には怒られるでしょうけど、封印を解除します。ここの設備では完全にはいきませんが……幸い薬は持ってきています。応急処置くらいは出来るでしょう。オーディン様の命を守るのが、最優先です」
「だから何だよ。その『封印』ってのは」
「後でお話しします。まずはオーディン様の治療に集中しましょう。手伝って下さい」
「ちっ、まぁいいか。ボスとまた飲み交わせなくなるのは勿体無いしよ。アタイらで助けてやるから泣いて感謝しな、ボス」
サジェッタはノーラに指示に従い、水とタオルを取りに行った。想い人の額にそっと手を添え、ノーラは思案に耽る。
「この国に、オーディン様の過去がある。捨ててしまおうとした、過去が」
だとしたら、イーヴィル・パーティーがランクトプラスの地に来た事は運命なのか。逃げようとしても過去からは逃げられないという事か。
「もしオーディン様が全てを思い出したら、ワタシは……」
何かが変わってしまう。そんな気がした。
イーヴィル・パーティーは、いつまでイーヴィル・パーティーでいられるだろう。
オーディン・グライトは、いつまでオーディン・グライトでいられるだろう。
いや、もしかしたら、既に。
「……今は、オーディン様を助けるのが最優先事項です」
嫌な考えを払拭するように、ノーラは言った。
弱々しく眠る大切な人を見つめて。
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