第64話 「ブブリアド・ハルバート」
無数の本で埋め尽くされた部屋の奥に、紫色の物体があった。高さも横幅も2メートルくらいある、巨大な物体。
……いや、違う。あれは人間だ。
ぶよぶよとした贅肉と枯れた白髪が特徴の、太った老婆。彼女の巨体を覆い尽くす、紫色のドレスを纏っていた。
細い目、大きな口、膨れた鼻、シワだらけの皮膚、球体のような体型。
どれも醜悪で恐ろしかった。
彼女から発せられる、この異様な雰囲気は何だ。醜いとか大きいとかそういう言葉では形容出来ない。まるでお伽噺に出てくる悪魔のような、底知れない恐怖が目の前に座っていた。
これが、カインズの大叔母……。ハルバート家の最高権力者か。
とても人間には思えない。
大叔母は俺達を見ると、ゆっくり言った。
「カインズかい。フフフ……。アンタが来ることは一時間前にお見通しだよ」
一時間前というと、俺達が中央都市に入った頃か。
「聞こえていらしたのですね」
「その通りさ」
大叔母の声はしゃがれていたが、そこに老いと弱さは感じない。聞いた者を地面に縫い付けるような、威圧的な声だった。
思わず、クロミールに手をかけてしまう。俺の自我が、この女を警戒していた。今すぐにでも対処しなければ食い殺されてしまう……そう錯覚するくらいに。
「安心しな。食い殺したりしないよ」
俺の心を読んだかのように、大叔母が笑った。口元の肉を歪め、醜く、ニヤリと。
「なっ……!」
驚きのあまり、心拍数が上昇した。
「黒髪のアンタ……さっきから心臓の音がうるさいよ。男らしく堂々としなさいな。……いや、そんな格好しているけど、アンタ女だね?」
「……何で分かったんですか」
そう問うだけで精一杯だった。
「匂いさ。アンタは女の匂いがしたからねぇ」
流石はハルバート家。聴覚も嗅覚も一流という訳か。
「自己紹介が遅れたねぇ。ワタクシはブブリアド・ハルバート。カインズの祖母の姉であり、先代の当主さ。巷では、『島砕きのブブリアド』なんて言われて恐れられているわね」
「『島砕き』……?」
「そうさ。若い頃のワタクシは、随分お転婆でねぇ。憤慨した勢いで、小さな島を叩き割ったりしたのさ」
ブブリアドは「ブヘヘヘ」と低く笑った。
島を割るとか、ますます人間じゃない。想像を絶する馬鹿力だな……。
「そんな訳で、ワタクシはしょっちゅう人に畏怖の念を送られているのさ。今みたいにねぇ」
ブブリアドは俺を見た。なるほど、警戒されるのには慣れているのか。
「当主を決める日は三日後……新国王の戴冠式の日さ。それまでに、準備をしておきな。アイズの仲間達も協力していい。寝食の場なら、いくらでも提供するわ」
ブブリアドの厚意で、俺達も屋敷に止めてもらえるらしい。
最近、寝床を貰える機会が多いな。自力で宿を探す覚悟はあったんだが。
まあ、いいことだ。
「五年間のブランクがあったけど……カインズなら十分当主の座を狙えるわよ。なんたって、このワタクシが推薦するんだから」
ブブリアドの言葉に、カインズはピクリと体を震わせる。
「『ブランク』、ですか……?」
「そうよ。得体の知れない田舎でのんびりと遊んで暮らしていたんだから。アンタはここで学ぶべきことを何にも習得してないのよ。芸術に、格闘技に、学問に、礼儀作法……。貴族の息子として、このままだと人様に見せられないわよ。今日から特別講師を雇って、みっちり教えてあげるから。いいわね?」
ブブリアドの『いいわね?』に、拒否する余地を与える響きは、一切無かった。
だがカインズは気圧されることなく、ブブリアドを強く睨んでいた。
「『遊んで暮らしていた』……と言いましたか?」
「ええ。今のアンタは、平民の男と変わらないわ。ハルバート家の者として、恥を知りなさい。アンタの遺伝子は優秀なのよ。折角の才能を捨てることはないじゃない」
カインズは何も言わず、ブブリアドを睨んでいた。
「……何よその目は。まさか、ワタクシに意見するつもりじゃないでしょうね」
ブブリアドの顔があからさまに怒りに染まり、空気が張り詰める。
長い時が、過ぎたような気がした。
「……失礼します」
カインズがブブリアドに背中を向け、部屋を出ていった。
それに続き、俺達も部屋を出る。
「……頭に来ました。思い知らせてあげますよ。三日後に」
廊下をずんずんと進むカインズ。眉間にはシワが寄っていた。
この台詞もブブリアドには聞こえているはずだ。
いや、『聞こえさせた』のか。
カインズの宣戦布告を皮切りに、ハルバート家の当主を巡る戦いが幕を開けた。




