第35話 「オーディン・グライト」
「人は生まれてから死ぬまで、悪を積み重ね続ける。初めは小さな悪意。それがやがて大きく膨らんでいくのだ。だが、悪党になった者も、善人になった者も、いつしか初心を忘れてしまう。小さな悪を、他愛ないものだと切り捨てるのだ。我が輩は違う。質も量も問わず、ただ悪を貫くのみだ。たとえ我が輩が悪の王になろうとも」
男は突然、演説のようなものを始めた。誰かに向けて話している訳ではない。独り言のはずだった。しかし男の言葉は、俺の理性に強制的に干渉するような威圧感があった。無関係な人間に、無理矢理関係を迫るような身勝手さがあった。意味のよく分からない台詞なのに、妙に印象に残った。
俺は心の底から湧き出た疑問を、やっとのことで口にした。
「お前は……誰だ?」
男は俺の顔をじっとりとした視線で見つめ、答えを返した。
「我が輩は『イーヴィル・パーティー』のボス。オーディン・グライト、と名乗っておこうか」
聞いた瞬間、心に張り付いていた謎が氷解した。これ以上ないくらいに辻褄があった解答だと思った。この場を支配している気持ち悪い『悪』の雰囲気。その根拠は奴の自己紹介で全て説明がついたのだ。
この男が、『イーヴィル・パーティー』のボス。世界を悩ませる悪党共の親玉。
こんな場所で、こんな状況で登場するのは、あまりにも不釣り合いな人間だった。
「アイズの歩兵共が6人と、ハルバート家の宗家の娘が1人か。バカンスの余興には、十分な役者達だ」
コイツ、俺達のことを知っている……!?
「黄色の髪の少年よ。貴様はカインズ・ハルバートであろう? サジェッタから話は聞いたぞ」
オーディンはカインズを見て、言った。
「お前っ、レイティアに何をした!」
カインズが、普段見せない怒りの形相で怒鳴った。レイティアはぐったりとした顔で気を失ったままだ。
オーディンは腰の刀に触れた。
「『ジャンバラ』の臭気で倒れたのではないか? 身に余る力を持つとは、不幸な少女だ」
カインズが立ち上がり、オーディンを強く睨んだ。同時に、エリックが新型スタンガンを構える。
「アンタがイーヴィル・パーティーのボスってんなら、ほっとく訳にはいかねーな」
エリックがオーディンに向けて勢いよく棒型スタンガンを突き出し、先制攻撃を仕掛けた。スタンガンの先端がオーディンを襲う。
「遅い」
オーディンはエリックの手首を掴み、上に捻った。エリックの右手が、手首を中心にして後ろに曲がる。グギリ、と嫌な音がした。
「ぐああっ!」
スタンガンはオーディンに触れることなく、エリックの手からぽろりと落ちた。オーディンはそれを落下中にキャッチし、先端をエリックの脇にぶつける。海パン一丁のエリックに、ダイレクトに電流が流れた。
人間を気絶させることを想定した電圧が、作り主の肉体を無慈悲に攻撃した。
エリックは声すらも出さず気絶し、浜に倒れた。
一瞬の攻防だった。傲慢な泥棒は、一瞬のうちに反撃を終えていたのだ。
「エリック!」
カインズが足を踏み締め、背後からオーディンに近付いた。
一秒も無かったはずだ。一秒未満の時間でオーディンの懐に近付いたにも関わらず、オーディンは既にカインズに反応していた。
オーディンが持つスタンガンが、カインズの肩に触れる。カインズの反射神経を以てさえも、そんな予想外の反撃を避けられるはずはなかった。
スタンガンの電気が、休む暇なくカインズの体を走り回った。
「うっ……ぐっ……」
カインズは気を失わずに、立っていた。でも、立つのがやっとだろう。カインズの肉体は頑丈だが、高電圧スタンガンの一撃を食らって無事でいられる訳がない。
「ほう。気絶しないとは。流石はハルバート家次期跡取り候補だな」
オーディンはカインズの腹を蹴った。容赦の無い、残酷な蹴りだった。カインズが数メートル程吹っ飛ばされ、近くの岩に激突した。
「……ぐっ!」
カインズは低く唸り、そして動かなくなった。恐らく、気絶したのだ。
「期待外れだ。アイズの実力は、この程度か?」
オーディンは不敵な笑みを浮かべ、カインズを見下していた。
「この野郎……」
俺は荷物置き場からクロミールを抜き出した。
サメなんかより凶暴な、この猛獣を斬るために。




