第2話 「絶望と希望」
一体誰の足音だろう。
ユリーナが鉄格子の内側から外を覗くと、娼館のスタッフと思わしき男が、長い廊下を歩いてこちらに向かっていると気づいた。
ユリーナの部屋と同じ形の部屋が横一列に並んでいて、それらから伸びる1つの廊下の先には、汚らしい扉があった。男はその扉の奥から来たのだろう。男は部屋を巡回しているようだ。ユリーナの部屋の前に来ると、男はユリーナをじっと見つめた。
ユリーナは恨みを込めて男を睨みつけた。
「君は新入りかい?」
意外にも、男は優しい口調でユリーナに語りかけてきた。
「はい、そうですけど」
「お前たちのせいで新入りにさせられたんだ」と思いながら、強気に返す。
男は「そうか」と一言だけ残して巡回を続けた。
男の胸元の名札には「エリック・ドール」と書いてあった。
エリックはユリーナの部屋を過ぎると、振り返って部屋全体を確認した。その後、裏口からコソコソと外へ出た。
「何してるんだろう?」
娼館の職員なら、あんなにコソコソしなくてもいいのに。
ユリーナは小さな疑問を持ったが、今自分が置かれている状況を思いだし、どうでもいいことだと思った。
エリックがユリーナの部屋を離れてから数分後、やたらうるさい鐘の音が鳴り響いた。
「もう昼なのぉ? 少ししか眠れないじゃない」
文句を言いつつ、ネーミリカが起床した。
この音は、今が昼だという合図らしい。
「ユリーナ。あんたも一緒に来なさい。昼食の時間だから。あんたはその時にココのルールを教えられると思うわ」
「どこに行くんですか?」
ネーミリカは「食堂よ」と短く返答して、部屋の入り口に向かった。
エリックとは別の男が、いつの間にか部屋の前にいた。ガチャガチャと、部屋の鍵を開けている。エリックよりも筋肉質な、ハゲの大男だ。今、ユリーナが逃げ出そうとしたら、力ずくで止められるだろう。
ハゲ男とネーミリカは小声で話をしている。何の話だろうか。
……どうでもいい。
気力を失ったユリーナには、全てどうでもよく思えた。
ユリーナとネーミリカは、廊下の汚い扉の向こうにある、食堂へと足を運んだ。
床が冷たくて、痛かった。
食堂では、ユリーナとネーミリカを合わせて7人の女性が食事をしていた。
廊下や部屋とは違って、案外綺麗な食堂だ。食事もバランスのとれた料理に見える。だが、食事をする彼女達の顔に明るみはなかった。
「彼女達があんたの先輩よ。後で挨拶しておきなさい」
ネーミリカとユリーナは空いた席に座った。ネーミリカは周りに職員の男がいないとこを確認すると、ユリーナの耳元に口を近づけた。そして小さな声で希望的な話を始めた。
「ここだけの話……『アイズ』がココに目を付けているらしいわ」
「『アイズ』……って何ですか?」
ユリーナの反応が予想外のものだったため、ネーミリカは一瞬驚いたが、すぐに話を続けた。
「知らないのぉ? 世間知らずねぇ。『アイズ』っていうのは、警察組織が対応しない……言いかえれば、見て見ぬ振りをしている犯罪を取り締まる組織よ。いい言い方をするなら、正義のヒーローね。といっても、単なる自警団だから、犯罪を取り締まる権限なんか無いんだけど。だから大抵、警察に犯人と犯罪の証拠を突き出してるらしいわ」
「その『アイズ』がココに目を付けたってことは……」
「娼館自体はこの国では合法だけど、誘拐とかは流石に犯罪ね。『アイズ』がココに来たら、あんたはココを離れられるかもしれない」
一筋の、希望が見えた。
「ネーミリカさん、その話、本当ですか!?」
ユリーナは思わず声のトーンを上げた。
「しーっ、声が大きい。アタシを信じなさいって」
ここを逃げ出せるかもしれない。知らない人に体を売らなくて済むかもしれない。
希望を見出だしたユリーナは、重大な違和感に気づかなかった。
ユリーナがもう少し注意深ければ……もう少し賢明ならば、気づけたかもしれない違和感に。
絶望の手は、着実にユリーナに近づいていた。
* * *