第997話 「そして災いは静かに眠る」
幸福な、とても幸福な時間だった。この時のために私は生きていたのだとさえ思える。本当に、クロムちゃんと出会えてよかった。もう私は満足だ。
「よろしいのでござるな、ルナロード殿」
研究所を出たクロムちゃんを見送って、ヤマト君は私に確認した。「私ではなくクロムちゃんのために生きて」という最後の命令を、ヤマト君はしっかり守ってくれるだろう。それでも、彼はやはり私を心配した。従者として、そして共に戦った一人の仲間として。
「大丈夫だよ。私は一人でも生きていける。寂しくなるかもしれないから、たまには顔を覗かせてくれると嬉しいかな」
少しだけ、強がってみた。実を言えば結構寂しい。暗くて静かな研究室で孤独に待つのは、人間好きの私からすれば試練のように過酷だ。でもまぁ、私も試練を受ける側になってもいいかもね。私は多くの犠牲を払った。私が人類を愛していようと、人類は私を愛さない。忌むべき『災害』の末路としては、このくらいの試練ではあまりに甘い。
私の笑顔を、ヤマト君はどう解釈したのかな。彼は不思議そうにこちらを見て、保母のように優しく微笑んだけれど。
「いやはや。ルナロード殿もそのように純粋な笑顔を見せるのでござるなぁ。……いや失敬。今までのルナロード殿は、どこか無理して笑っているように見えたでござるから」
そう言うヤマト君は、安心しているようだった。私が無理して笑っている……その分析は、大体合ってると思う。世界が『予想通り』になってしまって以来、私の笑顔は乾いていた。「どうせ予想外にはならない」って失望が、拭きれなかったから。言ってみれば、偽りの笑顔だった。
そうか。私は本心から楽しめるようになったんだ。また未来に期待出来るようになっていた。久しぶりかもしれない。信頼の感情を抱いたのは。
「そうかも。よく見てるね、ヤマト君は」
「ルナロード殿が某の事をよく見ていて下さったからでござるよ」
ヤマト君も外出の準備をした。と言っても、予めクロムちゃんに付いて行くようお願いしておいたから、準備はほぼ終わってるんだけど。
「それでは、某はクロム殿を追うでござる。短い間ではござったが、誠にお世話になったでござるよ。ルナロード殿、どうかご壮健でありますよう」
ヤマト君は深く礼をして、徐に扉へ向かった。長い付き合いでもない私に、彼は忠誠を尽くしてくれた。あまり予想外の行動をしてくれる子ではなかったけど、生い立ちが興味深いから彼の事はよく観察したよ。
前に、ヤマト君の生まれについて教えてあげようと提案した時があった。過去の記憶を失った彼は、自分の故郷すら知らない。知っているのは私だけだ。だけどヤマト君は、首を横に降った。過去ではなく今が大切なのだと、そう誓って私の側にい続けた。
不思議な子だ。だからこそ、私に多くの事を考えさせてくれた。
「……あぁ、それから一つ。言い忘れていたでござる」
外への扉に手を触れて、ヤマト君は言った。
「たとえ世界が貴方を憎んでいても、某は貴方を憎んだりしないでござる。貴方が人類に仇なす災害であれど、貴方を慕う人間は必ずいると、ゆめゆめお忘れなさらぬな」
優しい言葉を残して、ヤマト君は去った。彼の生まれた国は、そういう優しい世界だったんだろうか。私の知らない『何か』が、そこにはあるのかもしれない。やっぱり君は興味深いよ。
さようなら、ヤマト君。そして私と縁を持った他の多くの人達にも、しばらくの別れの言葉を。
私は思考に耽るだけの日々を送ろう。たまに眠って、起きたらまた考えて、また眠る。暇を持て余した哲学者のような生活だ。ある意味贅沢かもしれない。私みたいな化け物の生首がゆったりと静かな暮らしをしているんだから、ちょっと滑稽ではあるけれど。
幸いにも、考えるべき事は無数にある。そして、それを許されるだけの時間も膨大にある。充実した暇だ。寂しい時間だけど、思考という名の娯楽には困らない。
だから、私は考えた。人ならざる怪物になった後、『人』について考える。
前にも同じ疑問を抱いた時がある。「何故この世界に人間が存在するのか」。
だっておかしいじゃないか。この世界に人間がいる事に違和感を覚えないの? 世界はあまりにも理不尽で、不完全で、満ち足りていない。人々は手を取り合えず、己の都合のために奪い合い、傷つけ合っている。誰もが救いを求めているのに、救われない人が大勢いる。まるで、人類が世界に適していない種族であるみたいだった。
ならば、人類がいるべき世界とは何だろう。ここではないどこかにも同じように人間が住んでいて、そこは楽園のように完璧な世界なんだろうか。
私と同じ仮定を立てた人は大勢いた。だから『究極国家』は何度も計画され、時に誕生し、そして崩壊した。ビン先輩が考えた『賢人だけの世界』も似たようなものだ。結局の所理想論は理想論に過ぎず、現実に顕現しようとした途端に壊れた。楽園はどこも存在しないんだ。ここではない、『どこか』にも。
それでも、不条理なこの世界に屈せず戦おうとした人はいた。世界に完全さを押し付けるのではなく、不完全に耐える力を得ようとした人がいた。その人達こそが私の予想を覆し、私の物語を取り戻してくれた主人公だ。
だからきっと、私の見たこの物語は彼女らのお話。これは『アイズ』と呼ばれた人々の物語だ。
私が眠りに落ちれば、私の物語はひとまず幕を閉じる。私に出来る事は、彼女らの今後を想像するだけだ。
たとえば、クロムちゃんは人間でなくなった事で壁にぶつかるかもしれない。家庭を持ち、人並みの幸せを享受しようとしても、竜人は子供を作れない。生殖器が機能しないからね。血の繋がった子供に会えなくて、悲しむかもしれないよ。未来が途絶えた絶望は、私もよーく分かる。
たとえば、クロムちゃんは孤独に苛まれるかもしれない。竜人を増やせるのは私だけだから、私が大人しくしている以上、この先竜人は減る一方だ。竜人は圧倒的なマイノリティー。周りが自分とは違う生き物である孤独感に、あの子は耐えられるかな? 心が壊れてしまわないかな?
あぁ、楽しみだ。クロムちゃんが『現実』という強敵とぶつかる日が……いや、違うね。私が楽しみにしているのはむしろ、クロムちゃんが強敵を打ち倒す瞬間だ。あの瞬間のカタルシスを期待して、私は想像に没頭するんだ。
私は失望しない。期待に心を躍らせている。未来は自分で生み出せるのだと、あの子は知っているのだから。
今は祈ろう。クロムちゃんが、心の支えとなる人に出会えるように。
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