第989話 「ルナロードの暴走」
止める隙も無かった。試験管はするりと飲み込まれ、噛み砕かれた。竜人暴走薬がルナロードの体内に流れ込む。『あの液体』が竜人暴走薬であると、言われずとも分かった。ブラディエゴやププロが使っていた錠剤とは形状が違うが、それでも「同じだ」と確信出来る。何故かは上手く言葉に出来ないが、強いて言うならあの薬を取り出した時の空気が同じだったのだ。あれが竜人の切り札であると、雰囲気だけで伝わった。
「切り札!? 切り札って、何よ!」
アレイシアは足を止め、俺に問う。今まさにルナロードが飲んだものが「それ」であるとは気付いていないようだ。詳しい説明をする時間も無いので、俺は「下がれ」とだけ叫んだ。
「反撃が来るぞ! 傷だってすぐに再生する! いいから距離を取れ!」
「はぁ? 再生ですって? そんな簡単に治るような軽傷な訳……」
アレイシアの声は突如として止まった。止められたのだ。肺を貫かれた状態では、声どころか息さえまともに吐けない。
「……っは!」
アレイシアの顔は苦痛に歪み、痛々しく震える。アレイシアの胸に腕を刺し、ルナロードは傷だらけの舌を見せる。ルナロードの胴体からは、みるみるうちに足が生えてきていた。
あまりにも一瞬だった。ルナロードが飛びかかって来る軌道は、俺の視線の真正面にあったはずなのに。一切反応出来なかった。
「軽傷だよぉ。君に比べたらねぇ!」
ルナロードは腕を引き抜き、アレイシアを突き飛ばした。ルナロード自身も反動で倒れるが、頭を地面に打つのさえ気にしてない様子で嘲笑った。
「アレイシア!」
倒れるアレイシアを、俺は支えた。彼女の豊満な胸部が、消失したかのように抉り取られている。ドロドロと血が止まらない。生暖かい感触が、どんどん俺の手に伝わってきた。
「ク……ロ、む……」
濁った声で俺を呼ぶアレイシア。駄目だ。喋るな。それより早く、治療を。止血しなくては。いや、しかし、この傷では。
「行き、な……さい!」
アレイシアの語気は強かった。喉元に刃を向けるような勢いの言葉に、俺は我に返った。そうだ。俺は今何をすべきか。何のためにここに来た。アレイシアの責務を、身を挺した戦いの傷を、無駄には出来ない。
来る。アレイシアの次は俺を狙って来るはずだ。奴がどのタイミングで、どのように襲いかかるか、俺にはもう見えていた。
自ずと刀は振られていた。今までの激戦の経験が、積み重ねてきた修行の成果が、全て一振りに篭っていた。本能的に腕を振り、必然的に斬れる。
一撃を放ち終えた後、俺は振り返った。そこには、肩を裂かれたルナロードが千鳥足で立っていた。
「アレイシア。少し待っていてくれ」
俺は親友の体をそっと地面に置いた。彼女は目を閉じて、何も答えなかった。俺はまっすぐ立ち、柄の感触を確かめる。もう疲労は限界で、全身が痛い。今にも倒れてしまいそうだ。だが、刀を持つ手は軽かった。
「助けに来てくれて、ありがとう」
絶体絶命だ。耐え難い程の絶望だ。だからこそ、俺は全力でルナロードを斬れる。この絶望さえ、受け入れられる。
「あーあ。死んじゃったねぇ、あーちゃん。せっかく助けに来てくれたのにねぇ。全部全部、無駄だったよ」
「無駄? お前は何を言っている。何を分かったような口を聞いている」
的外れもいいとこだ。俺がアレイシアにどれだけ助けられたか、目の前で見ていたお前すら理解出来ないのか? 理解出来ないくらいに、お前の思考は鈍ってしまったのか?
お前は強かったよ、ルナロード。人間だった頃のお前は。だけど今のお前は、肉体の強さに溺れて英知を失った。狂気に沈んだ、人ならざる獣だ。
俺は刀を構え、立つ。立っていられるのは、俺の一人の力ではない。
「来い、ルナロード。終わらせるぞ。何もかも」




