第987話 「親友の帰還」
俺の動きが鈍っている事を自覚しなければならなかった。刀に傷を負わされた事実が、どうしても足に重石を乗せてしまう。理性だけでは制御出来ない懸念に俺は惑わされていた。
もしクロミリアが折れたならば。俺はもう、ルナロードの首を斬れない。それはすなわち勝機の消失を意味する。かと言って刀を守るように立ち回れば後手後手になる。全身が武器であるルナロードに比べ、武器が一本しか無い俺は戦力的にも精神的にも不利だった。心理戦はもう始まっていたのだ。
駄目だ。押し返さなければ。焦れば焦る程ルナロードの動きが掴めなくなる。小さなヒビが、ただそれだけが、一気に戦況を狂わせた。そのくらい繊細な戦いなのだ。
体力も限界が近い。ルナロードの挙動を予測し切らなければ、すんでの所で回避するのすら難しい。反撃の隙などあるはずもなかった。
無理だったのか。俺では勝てないのか。ただの人間が、努力だけで追いつける差じゃなかったのか。
目の前の竜人が、大きな大きな存在に見えてくる。比例して、天才の領域は遠ざかる。人類を滅ぼしかけた厄災の手は、俺なんかじゃ払い除けられない。
孤独で、矮小だ。ルナロードが前に立っているだけで、俺の小ささが浮き彫りになる。圧倒的な理不尽が叩き付けられる。俺は、そんな理不尽に一太刀を。
「理想論だね」
声が届く頃には、もう手遅れだった。ルナロードの右手が俺の顔をがっしりと掴む。見えていなかった。否、反応が追い付かなかった。突きや蹴りばかりに気を取られ、『掴まれる』可能性を警戒出来ていなかった。腕力や脚力だけではない。『握力』もまた、人を殺し得る凶器だ。
逃げられはしない。頭を掴まれては、一歩たりとも下がれない。ルナロードが腕に力を込めれば、俺の頭は肉片と化す。ほぼ詰んだ状況だ。生き残る術は、ルナロードの腕を切り落とすしかない。だが間に合うか? 考えている暇は無い。咄嗟に俺は刀を振った。
肉を断つ感触が腕に伝わった。斬れたのだ。あまりにも焦っていたため、生き延びれた実感を味わうのに数秒かかった。
「間に合った……?」
顔に張り付いたルナロードの右手を剥がし、地面に捨てる。助かったのは喜ばしい事だが、正直意外だった。俺がクロミリアを振り切るより、俺の顔が潰される方が早いと覚悟していたのだが。
奇跡でも起きたか。そう思わざるを得なかった。ルナロードの気まぐれか、あるいは俺が唐突に実力を覚醒したか。
どちらでもない。俺の元に現れたのは救済だった。今度は俺が、助けられる側だ。
「そうね。間に合ったわ。感謝しなさい」
力強く、それでいて親しみのある声。俺とルナロードの視線は、声の主に一斉に向けられた。
アレイシア・ルーンが。俺の親友が。身の丈程の大太刀を引っさげて来てくれていた。
「アレイシア……ルーン。何故君がここに……?」
ルナロードはギラリと鋭い目付きでアレイシアを睨んだ。先程までの溌剌とした声とは裏腹に、低く細々とした口調だった。他にも様子がおかしい。切り取られた腕をぶら下げたまま、ルナロードは徐に腰を下ろし始めた。ゆっくり、ゆっくりと。老婆のような動作で地面に座り込む。震える体は、座る事に抵抗しているようにも見えた。
「理由が分からない? だったら、あなたの『予想外』だったようね。ルナロード・ジニアス」
アレイシアはルナロードを呼び捨てにした。二人の関係性が以前とは異なっているのが、この一回のやり取りだけで伝わった。
「今は『コンタクト』を付けてないでしょ? 好都合ね。あなたにも『アレイストラ』が通用する。どう? 初めて味わう『責任の重み』は」
アレイシアは大太刀を構える。刀身の電灯が放つ光を見た時、俺の体は思い出したように重くなり始めた。あれは『責務の一振』だ。俺がアレイシアと戦った時、俺を完膚無きまでに封じ込めた武器。あの剣を見た敵は、立つ事さえ許されない重圧を背負う。俺も、ルナロードも、体が重くて立っていられない。
俺が助かったのは、アレイシアが『責務の一振』でルナロードの動きを止めてくれたからだ。彼女が助けに来てくれなかったら俺は首無しの死体になっていた。でも、ルナロードと同じ疑問を投げざるを得ない。
何故。ルナロードの従者だったはずの彼女が、何故ルナロードに刃を向ける。
「ふふふ。あははははっ。まだ私に執着してるのかな? 君は。それに、アレイストラは壊れてたよね? 修理にでも出した?」
跪いた体勢でルナロードはアレイシアに問う。彼女の笑みはどこかぎこちなかった。
「執着なんかしてないわよ。もう、あなたはアタシの主人じゃない。だってあなたが捨てたのよ」
「復讐って訳? 意外だなぁ」
「いいえ。アタシは責任を果たしに来ただけよ。あなたという災害を、止めもせず世界に放ってしまった責任をね」
アレイシアは『責務の一振』を地面に刺し、俺の元へ駆け寄った。刀身の光は未だ輝きを失わず、俺とルナロードを縛り続けている。
「大丈夫? クロム。辛いようなら目を閉じて。アタシがあんたの背中を守るから」
俺を心配してくれたアレイシアは、かつて共に修行しアイズの活動をしてきた親友の姿そのものだった。ルナロードの従者でもなく、俺の敵でもなく、隣で戦う友がいた。
「アレイシア……ありがとう」
俺は目を閉じなかった。体が動かなくても、アレイシアの顔を見ていたかった。
「どうせ一人で無茶したんでしょ? 全く、あのルナロードに一人で立ち向かおうなんて。アタシでもやらないわよそんなの」
「だろうな。でも俺は一人じゃなくなった」
クロム隊の隊長と、アレイシア隊の隊長。ロマノの弟子二人が、ここに再び集結した。それがどういう意味か、きっとルナロードすら予想出来ていない。
待ち望んでいた。この瞬間を。
受け入れないはずがないだろう。アレイシア。お前に心の底から「おかえり」を言いたい気分だ。
「久しぶりだな。二人の共闘。それも全力でぶつかるのは」
「流石に人類滅亡を防ぐ戦いは初めてよ。でも心配しないで。アタシ達が揃えば、アイズ最強の戦力よ」
俺は目を閉じた。暗闇に包まれていても、アレイシアの体温が隣から伝わる。そして二人は剣を構えた。同じ方向に向けて。




