第982話 「最後の災害は歓喜する」
ルナロードは高揚した。こんなに上手くいっていいのかと現実を疑いさえした。思い通りにならなかった事が、何よりも望み通りの結末だった。
世界からシアノ熱の脅威は消えつつある。ルナロードの娘、ノーラ・ハルバートが完成させたワクチンによってだ。かつてドラゴンを絶滅させ、人類をも絶えさせかけた最悪のウィルスに、人の叡智は勝ったのだ。
そしてドラゴンの軍勢も、人を殺し尽くすには至らなかった。各国の軍事力は食物連鎖の頂点を屠る程に強く、最早人は弱い生き物ではない。捕食者と獲物の関係性は、瞬く間に逆転した。
全てルナロードの予想外だ。人類は再び絶え損なった。
人類は生き残ったのだ。絶滅を招く災害に、打ち勝った。
「いや、まだまだ。最後の試練が残っているよ!」
ついにこの時が来た。他者や環境を操って世界に干渉する時期は終わりだ。今こそ自らの手で、人類に挑戦状を叩き付ける。観察者の立場に居座っていた天才が、最後の災害となる日が来たのだ。
この厄災を乗り越えて、ようやく人類は白星を得るだろう。ルナロード・ジニアスという、人の形をした天災を食い止めてこそ。
「どうかな? どうなっちゃうのかな? 分からない。こんなの久しぶりだ! あぁ楽しみだよ。君達が生み出す物語を、早く私に……」
鬱蒼とした森に囲まれた集落跡地で、ルナロードは一人騒いでいた。周りには誰もいない。たった一人の殺人鬼に住人を皆殺しにされ、この地に残るのは廃屋だけだ。すなわち誰の邪魔も受けず、この後に待つであろう戦いに没頭出来る。
足音に気付き、ルナロードは声を止めた。ようやく来てくれたかと、ルナロードは恍惚な笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、クロムちゃん」
待ち望んだ客人の顔を、ルナロードはじっくり観察する。あれは覚悟を決めた顔だ。剣を握る覚悟を持つ者にしか出来ない。
それでいい。本気で殺す気でなければ話にならない。
「クロムちゃん。私はやっぱり、君が欲しい」
ルナロードはクロムへ手を伸ばす。ずっと見てきた君だから、愛おしい。自分のものにしてしまいたい。ヴィルカートスを奪った時のように。
「だからここに呼んだのか?」
クロムは抜刀した。一切躊躇の無い動きだった。
ここはクロムの故郷。最も古い記憶の場所。名も無き集落だった。
クロムを手に入れるなら、この場所がいい。初めてクロムを見た場所だから。
こうなる事も予想外だった。本来は、世界の縮図を再現するために用意された小さな世界に過ぎなかった。人が集まり、生活し、文明を築く。その過程を観察するための実験環境だった。クロムは、観察対象の一人。特筆すべき点も無い、普通の子供であるはずだった。
しかしクロムは大きく成長した。ルナロードの予想を遥かに上回って。だから彼女はルナロードの希望だ。予想外を生み出してくれるかもしれない希望なのだ。
ルナロードの心が「欲しい」と叫ぶ。竜人と化した彼女に、感情の暴走を止める術は無い。
「相応しい舞台でしょ? セン君が住人を皆殺しにした後も、ここは君にとって故郷であり続けた。過去は変わらないんだよ」
「そうかもな。だが過去の価値は時と共に変わる。俺の心の居場所は、ここじゃない。本当に大切な居場所は、ロマノと一緒に作り上げてきたんだ」
「そのロマノは、もういない。私が撒いたウィルスのせいでね? どう? 悔しい? 憎い? 私を殺したいでしょ!」
クロムを求め、ルナロードは殺意を煽る。クロムの意識を自分に向けて欲しいが故の、歪んだ挑発だった。ルナロードの話術に乗せられない者は滅多にいなかった。誰も彼も、ルナロードの予想通りに動かされていた。
だが。
「勘違いしているようだな。俺は、お前に復讐しに来たんじゃない」
クロムは『高潔の一振 クロミリア』を構え、ルナロードに向ける。その刃は何のためか。戦う力は何のためか。
答えはとっくの昔に知っていた。
「お前を救いに来たんだ」
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