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絶え損ないの人類共  作者: くまけん
最終章 人類絶滅災害編
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第980話 「世界で一人の家族」

 また、朝が俺に訪れた。昨晩はよく眠れなかった。眠りが浅いのはよくある事だ。常に警戒を続けるのが修行の一環だったし、然程苦でもない。むしろ、それが俺にとって普通だった。ロマノと一緒に修行していた頃を思い出す。

 俺の足は自然に病院へと向かっていた。新しい果物籠を引っさげて、ロマノの病室に向かう。俺が入ってきても、ロマノは反応しなかった。ベッドの隣に置いてある果物は、一つも減っていなかった。

「ロマノ。今日の調子はどうだ?」

 ベッドに近付いて、見えてしまった。シーツに丸い血溜まりが出来ているのを。ロマノは口元を汚したまま、息を荒げて目を閉じている。ロマノの吐息は止まらないのに、急に消えてしまいそうな弱々しさがあった。

「……っ!」

 俺は廊下に出て叫んだ。籠を落としてしまったが、どうでもいい。

「誰か! 誰かいないか! 医師でも看護師でもいい! 早く来てくれ!」

 運良く近くを医師が通っていたため、助けは迅速に来てくれた。医師は見事な手際でロマノの病状を確かめ、ロマノに注射を打つ。呼吸が乱れて汗を噴き出していたロマノは、みるみるうちに落ち着きを取り戻した。

「症状が悪化していますね。このままでは、今夜が山かもしれません」

 医師は冷静に状況を語った。こうなる事は、専門家の目からすれば前々から明らかだったのだろう。だけど俺には、唐突に残酷な宣告をされたように感じてしまう。最悪の結末は、覚悟していたはずなのに。

「そんな……」

 打ち拉がれる俺に、医師は「大丈夫です」と告げる。その声に嘘は無く、気休めの類ではないのは察せた。

「新型シアノ熱のワクチンが完成したと、ルトゥギアの医院から通達がありました。チェルダードにも搬送するよう依頼はしてあります。ロマノさんがそれまで耐えられれば、希望はあります」

「ワクチン!?」

 棚から牡丹餅が降ってきたような、突然の希望だった。都合が良いように思えるが、そんな未来なら大歓迎だ。

 ロマノが助かる。今望むのはそれだけでいい。

「いつ届くんですか、それは!?」

「おそらく、今晩には」

「もっと早くお願い出来ないんですか!」

「いえ。ワクチンを求める患者さんは世界中に大勢いらっしゃいますから。今まさに、各病院を回ってワクチンを配っている所なのです。ここだけ急がせるという訳には」

「それは、そうかもしれませんが……」

 助けを求める人はたくさんいて、順番に救われつつある。我先にとワクチンを要求するような身勝手は許されない。理屈では分かっていたが、焦りを隠せなかった。

「先生! 308号室の患者さんが過呼吸を起こしました!」

 看護師が慌てた様子で医師を呼んだ。医師は「すぐ行く」と答え、迷いない足で重病患者の元へ向かった。ロマノと同じように生死の狭間を彷徨っている人は他にもいる。ロマノだけが特別な訳じゃない。

 ロマノを特別だと思っているのは、俺だけだ。


「クロム……ちゃん」

 ロマノが俺を見つめ、掠れた声を漏らした。俺は引き寄せられるようにロマノの前へ近付き、手を握った。

「あぁ。俺はここだ。大丈夫だぞ、ロマノ。ワクチンが届くんだ。お前は助かるんだよ」

 励ましの言葉を並べた。その言葉が欲しかったのはロマノではなく俺だと自覚はしている。もうすぐロマノが助かるんだ。また、元気で呑気な声ではしゃいでくれる。優しい笑顔で俺を見てくれる。何も心配はいらないんだ。

「そう……ですかぁ。よかった……ですー」

 ロマノは咳き込みながらも答えた。生きる希望があると知れば、ロマノも頑張って生きようとしてくれるだろう。ロマノは戦いを早々に諦めるような奴じゃない。敵が史上最悪のウィルスだとしても。

「ロマノ。頑張れ。生きてくれ。あぁ、そうだ。諦められるもんか。お前の命を容易く見送れるもんか。だって、お前は……」

 ロマノは、俺にとって。

「お前は俺の上司で、先生で……それ以上に、親だ。俺の生みの親も、集落で育ててくれた親も、誰も俺を見てくれなかった。お前だけなんだよ。俺を愛してくれた大人は。血も繋がってない、ちっぽけな俺なんかのために!」

 俺は孤独に生まれ、孤独に生きてきた。顔も知らない実の親に捨てられ、人との繋がりを感じる事もなく、ただ他者に怯えて生きてきた。本当は寂しいはずなのに、誰かに傷付けられるのが怖くて人を拒んでしまった。愛を知らず、愛を拒絶した弱い人間。それが俺だった。

 ロマノだけが、俺を変えてくれたんだ。俺が強くなれたとしたら、それはロマノのおかげだ。

 ロマノは一番大切な事を教えてくれた。それは人を、世界を、受け入れる強さ。

「行かないでくれ。お前は俺の……ただ一人の家族なんだ」

 まだ感謝を伝えきれてない。もっと多くの事を教えて欲しい。ずっと隣にいて欲しい。

 俺は、ひたすらに願った。人にこんなに執着している自分が、ロマノが俺に施してくれたものの大きさを物語る。ロマノはずっと、俺の憧れだったから。

「クロムちゃん……自分は」

 ロマノは小さな声で必死に伝えようと口を動かす。俺は耳を近付け、一音も逃すまいと集中した。

「自分は、幸せでしたよ」

 ロマノは目を閉じて、微笑んだ。静かに、静かに、そして安らかに。

「少し……休みますね。クロムちゃんが……いてくれるなら……安心です」

「あぁ、ゆっくり休め。もう無理はしなくていい。元気になったらまた、一緒にご飯を食べよう。ご馳走を用意して待っているからな」

 ロマノは眠った。息は整っている。落ち着いた、気楽そうな表情だ。俺の知っている、ロマノの表情だ。


 ベッドの隣で、俺はずっと座ってロマノを見守っていた。ロマノの吐息が聞こえると安心する。何もする事もなく、何も怯える事はなく、そんな平穏な時間がずっと続いて……俺は段々眠くなっていた。俺も少し休もう。昨日の分までぐっすり眠ろう。そして目が覚めたら、ロマノは元気になってくれるんだ。


「ロマノさん!」

 男性の大声で俺は目を覚ました。慌てて周囲を見ると、先程の医師が病室に来ていた。「ワクチンが届きましたよ!」と明るい顔で言っている。そんなに早く届いたのかと時計を確認すると、なんと5時間近く寝ていたと知った。

「ワクチン! これで助かるんですね!」

「えぇ、そうです! 今すぐ投与します。すみませんが、席を退けて頂けますか」

 医師に指示され、俺は退いた。医師はやはり手際よく、ワクチン注射の準備を始める。そしてロマノの手に触れた時、急に目を見開いて固まった。

「まさか……」

 医師は声を暗くして、ロマノの手首を触ったり口元に耳を近付けたり瞼を開いたりした。何故早く注射しないのかと、俺は文句を言いたかった。そんな素人考えを挟む余地などない現実を、すぐさま叩き付けられる。

「……申し訳ありません。私はまた、救える命を救えなかった」

 何を言っている? なんで謝罪した? 早く。早くロマノを助けてやってくれ。今は静かに眠っているが、また症状が悪化するかもしれないだろ。

 あぁ、静かだ。時計の針の音しか聞こえない。不安が加速する音だ。さっきまで安心していたはずなのに。ロマノの吐息が聞こえて、安堵していられたはずなのに。

 聞こえない。

 不気味な静寂だ。ロマノの体は、僅かにも揺れていなかった。まるで、精巧な人形のようにすら見えた。

 人ではなく、物体のよう。これを表す言葉を、俺は知っている。何度も見てきている。この理不尽な世界では、決して珍しくもない。

「間に合わなかった……。予定より早く届いたのに! これで救えると思ったのに!」

 嘆く医師の声は、耳に入ってこなかった。誤魔化しようもないロマノの死が、俺の前に突き付けられる。

 頭の中だけに存在した、明るくて気楽な未来は、音も立てずに霧散した。

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