プロローグ
中学三年生 *※* 春 *※* 春樹アキラの場合
「おまえは、バカだよな」
「先生はヅラっスね。ミスターミケランジェロ」
気持ちの良い春風が、コーヒーの香りが立ち込める広い部屋をふわりと吹き抜けていった。
暖房がいらなくなるこの季節、こうして窓を開けて外の空気を楽しむのが一番心地よい。うららかな春の午後。
アキラは目で緑を楽しみ、鼻で芽吹きとコーヒーの香りを楽しみ、耳で教師の説教を受けていた。
「てめー名前の響きが面白いからってルネサンスの三大巨匠をハゲみたいに言うんじゃねぇよ。俺もミケランジェロも別にハゲてねーよ!ったくどいつもこいつも」
「センセ、激しい動きをするとズレますよ」
「何!?」
アキラは胸ぐらを掴んできた短気なミケランジェロの手が緩んだ瞬間にひょいと離れ、二、三歩後ろに距離を取った。まったく、この美術教師はいつもアキラのことを目のかたきにする。まあ確かに、一年のころにたった一枚だけ絵を描いて以来、アキラが美術の時間の全てをサボり続けているのが悪いのだけれど。
「おまえ、ナメんなよマジで」
手鏡片手にそろそろとヅラを直しているミケランジェロが手鏡越しにアキラを睨む。
「ここが中学校で義務教育中なことに感謝するんだな!フツーの高校だったらおまえ十年たっても卒業できねぇぞ!」
「もー分かったよ。でもおれ、高校行く気ねえからさ。もーいいかな、先生。早くコンビニに行って今週のスキップ買わないと。LACK連載一周年記念でエトワールのおっぱいが巻頭カラーになんだよ」
「なに、エトワールの!?……いや待てクソ、テメーと話してたらいつの間にか本題を外れてやがる。ったく、そう言う訳にいかんのだな」
そう言ってミケランジェロは本当にどうしたものか、みたいな様子で慎重にヅラを触らないように机に肘をついた。今月も家計が赤字だわ、って言って溜息ついてる主婦みたいだ。
「俺もなにかの間違いだと思って、先方に何度も確認したんだけどな。おまえ、バカだよな」
「おう」
アキラに何度も確認しても、バカはバカだ。もうこれは仕方がないのだ。いい加減にしてほしい。ここでおもむろに冒頭に戻った話に、アキラは仕方なく付き合う。エトワールのあのおっぱいが売れてしまっていませんように。
「俺もバカなことは知ってるんだがな。きちまったんだよ」
「女の子の日スか?だからそんなイライラしてんのか」
「伏せてんじゃねぇよ。倒置法だバカ!推薦が来たんだよ!あの―――――四条学園から」
「……シジョー学園?」
「テメ、四条学園知らねえのか!?……知らねぇのか!バカだから!ま、軽く説明すると、私立の小中高大一貫のマンモス校だな。偏差値は割と高め。高すぎるわけじゃねぇけど間違いなくおまえには絶対ムリ。それがなぁ、どういう訳かうちの学校におまえを指定して推薦が来てんだよ」
ミケランジェロは困ったような表情で携帯を開くと、また閉じた。
「……はー?なんかの間違いじゃねぇの?おれバカだぜ?そんな芸術専門のガッコに万年美術サボってるおれがどーいうわけで」
「確認したんだがなぁ。うちのおバカで本当にお間違いないでしょーかってな。……おまえ、中一の時にコンクールに絵、出しただろ。あれを四条学園の理事長がエラク気に入ったらしくてな」
「あ……あの、コンクールの絵……」
「……なんつーか、まぁ。今日び高校も出てねぇようじゃろくな就職先ねぇよ。おまえの兄貴も苦労してるだろ」
ミケランジェロがカラフルなパンフレットを手渡してくる。四条美術工芸学園、と大きく書かれた表紙にはいくつもの絵画の写真。四条学園の制服を着たはちみつ色の髪をしたイケメンとおしとやかそうな美人が貼り付けた笑顔でこちらに向かって手を伸ばしている。私立らしく、豪奢な校舎や充実した設備を自慢するパンフレット。はらりと開くと、卒業生の中に著名な芸術家、デザイナーが居ることや、校内に巨大な美術館を有していることなどが書いてある。
アキラはそれを閉じてミケランジェロにつき返した。
「おれ、ムリっすよ。せんせー。どのみちうち母子家庭なんで私立の学校なんて行ける余裕ねェっす」
「それが。授業料全額免除らしいぜ。特待生だとさ。もともと四条学園は推薦制度も受け付けてねぇ。超特例らしい」
「……マジ?」
「おー。マジだとも。ここの息子を人質にでもとって脅したんじゃねぇかと思ったぞ俺は。おお、ちょうどこいつだこいつ。いけすかねぇイケメンだな。そういやおまえと同い年だったな」
パンフレットの表紙の男を指差して言うミケランジェロに、アキラは呟いた。
「……ちょっと、考えさせて下さい」
「おう。まーこっからは独り言だと思って聞いてほしいんだがな」
先生はとっつきやすくて気さくな人気者の教師、といった顔を閉じて、真剣な表情でアキラに向き直った。
それは生徒に道を示す指導者ではない。純粋に、一つの世界を追及し続けて、美に生きる男の顔。
アキラの背筋に緊張が走る。
「いろいろあったけど、おまえは美大に行くべきだと思う。その才能は―――――世界の宝だ」
コンクールから返却された袋にいれたまま、部屋の隅に放置してあるその作品を思い出す。
中学一年生のころにアクリル絵の具で画用紙に描いたその絵は、コバルトブルーの絵の具がなくなるほどに深く深く青空を作りこんだ、にせものの絵だった。
中等部一年生 *※* 秋 *※* 五十嵐夏美の場合
―――――彼の序章は、二年前にさかのぼる。
「……っ」
夏美は絶句していた。本当に綺麗なものを見た時、ひとは言葉を失うものなのだと痛感するようだった。
そこに描かれていたのは、目が痛くなるほどの青空。画面の八割ほどを丹念に作りこまれた青空が占めている。一体、何色の青を使ったのだろう。何度、塗り重ねたのだろう。吸い込まれそうな程に深いその青空を目が痛くなるほどに凝視していれば、絵の中に夏美と同じようにその青空を見上げている人影が描かれている野が目に入った。
小さな影。右側の人影ほうが左側よりも大きい。親子だろうか。
そのふたりは、それだけでもうなんの可不足もないというようにひどく満足気に、そして穏やかに塗り重ねられた空を見上げていた。
絵の中だけに現れる、コントラストの高い夢の様な世界。
初めて感じる、ふしぎな衝動が夏美を襲っていた。
それは怒りにも似た、激しい感情。
「美しいでしょう。わたくしもお気に入りですのよ」
不意に背後から声をかけられ、夏美は我に返った。絵のもとへ伸ばしかけた手を慌てて下げる。
コツ、というヒールが床を打つ音に振り返ると、そこに立っていたのは赤みがかかった髪を肩につかないほどのボブに切りそろえた女の子。くるり、と天使の輪が取り囲んだボリュームのある髪には黒いリボンのカチューシャが飾られている。纏っているのは夏美と同じセーラー服だ。しかし、履いている靴は夏美のチョコレート色のローファーとはちがい、やたらと厚底のごろんとした真っ黒のくつ。
彼女の大きな目と日本人離れした人形じみた顔立ちにその奇抜なファッションがとてもよく似合っている。彼女の容姿とデザイン性の高い小物から湧き出す反骨精神に満ちた可愛らしさは、ベースの力強い音色に彩られたヴィジュアル系バンドの何物とも相容ることのできない濃い音楽のようだった。
彼女は、半分ぐらい差のある目線を合わせながら、もう一度優しげに言った。
「こんなにも切ない幸福を見た事がありませんわ。これを描いたかたは、どんなかたなのでしょうね」
うっとりと話す彼女の妙な口調に、夏美はようやく彼女の正体に思い当った。夏美の通う四条学園中等部、一年生にして美術部部長。学園内で有名な変人、赤瀬真琴だ。
このコンクールの準備を担当していたのは美術部だったはずだ。彼女が今この場所にいるのはその関係か。
「貴女もそう思いませんこと?五十嵐夏美さん」
「あたしのこと、知ってるんだ。赤瀬さん」
「貴女もわたくしのことを知っているでしょう。おなじですわ」
同じな訳はないでしょ。という言葉は飲みこんだ。奇抜なファッションと口調、そのファッションに決して見劣りしない人形の様な顔立ち。元をたどれば華族だという由緒ある家柄。この四条学園理事長の孫とも気さくに仲良く話している姿をよく目撃している。大体のひとは四条君に気軽に話しかけることなんてできないのに。
対する夏美は容姿、存在ともに泣きたくなるほど地味だった。毎朝爆発する髪の毛はどうしたらいいのか分からずてきとうにふたつに分けてみつあみにしている。いっそバッサリと切ってしまいたかったが、ショートにするとより広がるのだ。あと、幼い頃からどういうわけか顔をまじまじと見られることが多かったので目は悪くないのだが黒ぶちの伊達眼鏡をかけていた。最近、それが流行り始めたので嫌になって母親からもらった古いべっこうの野暮ったい伊達眼鏡に変えた。女子の友達が少しは居るが、男子は夏美に見向きもしない。
普段から華やかな生活をしていて、明らかに奇抜すぎて周りから浮いているのに決してハブられているわけではない、自分という存在を大いに確立させている彼女が羨ましかった。
だけど。普段なら決して話す機会などないであろう赤瀬真琴を前にして、夏美は不思議と力に満ちていた。あの青空のように透き通った気分だ。
「あのね。この絵なんだけど、光がより当たるところに置いたほうが映えると思う。木製のデッサン額も合っていないと思うの。この絵の透明感を最大限に生かすためには、アルミ製か樹脂製の銀色のものがふさわしいと思うな。この木製枠の重厚感では絵の伝えたい美しさを殺してる」
美は、画家の魂が染み込んだ結晶。それを飾るものは、決してその血潮を無駄にしてはいけない。
赤瀬真琴は力の抜けたような少し唖然とした表情で夏美を見やった。どきり、と心臓が跳ねる。話しすぎただろうか。彼女の仕事に立ち入ったことを言ったのかもしれない。
「……赤瀬さん?」
「他には?」
しかし、彼女は真剣にその続きを促してきた。
「……だ、ダストカバーはないほうがいいと思う。絵は傷つくかもしれないけど、反射光がこの絵の具を塗り重ねた深い青空を覆い隠してしまうから」
「なるほど。理解しましたわ。この絵は画用紙に描かれていますので仮縁は難しいですけれど、確かナングレアアクリルでアルミフレームのものがあったはず……黒田」
彼女は、重たそうな段ボール箱を抱えて通りかかった背の低い男子を呼び止める。そして、あの空の絵を指さして二、三言指示をした。
黒田と呼ばれた色黒の男子は、しぶしぶといった様子で絵を持ち上げて、額を入れ替えて指定された場所へ動かした。作業をしながら夏美のそばをすり抜けざまに顔にちらりと視線を走らせたが、鼻で笑って視線を元に戻した。夏美は思わず一歩下がって小さくなる。
新たに絵が設置された場所は照明がふたつもついた特等席。
壁の端にあったその絵は光を浴びてより一層透明感を増し、晴れた日の水面のようにキラキラとして見えた。
絵が己の美しさに堂々と胸を張っているようだ。夏美はうれしくなって顔をほころばせた。
すれば、半端に暗かったさっきの場所では見落としていたものを発見する。
「嘘。この絵、佳作なんだね。てっきり金賞かと思ってた」
「……なぜ?金賞はあちらの絵ですわ」
真琴のごてごてと指輪が嵌められた指が指し示す方向にあるのは、五十号ほどの大きな絵だった。白いステージの上に立てかけられて、この絵の倍ほどの照明がその絵を輝かせている。
晴れた日の湖を切り取った風景画。
モネのような印象派を意識して描いたように見える。曖昧な輪郭の木の葉や花。光と影の扱いが上手く、光を当てずとも絵の持つ力だけできらめいて見える。
夏美は絵の中央に立って、その柔らかな光を体全体に感じた。古い豪奢な油彩額がまるで窓枠のようにその絵と現実の境目を明確にしている。爽やかな光が湧き出しているようだ。
絵から想いが伝わってくる。
薄いガラスでできた瓶の中にうずくまっている線の細い少年。瓶が浸るような孤独に震える姿が、胸が痛くなるほど切ない。こころの殻にも似た薄いガラスを割ってしまえば、彼の孤独に簡単に手が届くと言うのに―――――きっと割れたガラスで彼を傷つけてしまうから、誰も触れることもできない。
少年は孤独に絶望しながら、ガラスの向こう側の愛にあふれた世界を眺めるだけだ。
夏美は彼に手を伸ばすことはしない。
パースの取り方やモチーフの選び方も才能が感じられる。金賞のお手本のような絵。しかし、それだけだ。
金賞という文字の隣に名前が書いてあった。
"四条優季"
―――――理事長の孫。
夏美は口を開く。
「芸術って、ほとんど一方的に与えられる暴力みたいだと思うんだ。受け止めようとしなくても、こんな風に飾ってあるのを見かけるだけで―――――まるで通り魔に殴られたみたいにこころが揺さぶられる。ふいうちで、涙が出てきたりする。いろんな種類の感情が、芸術家が美に込めた感情が、頭の上でバケツをひっくり返したみたいに降りかかってくる」
夏美は金賞の絵から離れて、佳作の絵の前に戻った。
「このふたつの絵は、どうしてこんなに似てるんだろう。金賞の絵はキンキンに冷えたつららみたいにとがってるし、佳作の絵はどろって溶けた鉄みたいに形がなくなるほど熱い。でも、あたしの感情をよりぐらぐら揺さぶって離さないのは、熱いほう」
夏美は気づかないうちに、佳作の絵を見て微笑んでいた。
「……不思議ないいかたを、するのですね。わたくし、今まで絵をそんな表現したかたを知りませんわ」
「え?あはは、あたし絵の才能ないからさ。小難しい評価なんてできないんだよね。額は好きなんだけど」
「どうしてそんなに、額にこだわるのですか?先ほども思いましたわ。額は決して美の本髄ではありませんのに」
「額は美を守るもの。そして、美を飾るもの。あたし、そうやって美を魅せることが、なにより好きなんだ。額に限らないよ。着る人の美しさを引き立てる衣装。ストーリーの好き嫌いを決める演出。書物の重厚感を増す装丁。美という柱は絶対的だけれど、障害物を取り払って、光を当てないとそれは簡単にうずもれるものだから」
「変わったかた」
赤瀬真琴は端正な顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ねえ夏美」
「……!?なに、赤瀬さん」
突然名前で呼びかけられた。夏美が驚いて硬直していると、彼女は感激した様子でまくしたてる。
「わたくし、貴女が気に入りましたわ!お友達になりませんこと!?」
「……んっ!?」
中学二年生 *※* 秋 *※* 秋村剛の場合
―――――彼女たちが出会って、一年後。
剛は一心不乱に真っ白のノートを埋めていた。脇に広げてあるのはお気に入りの冒険漫画。その絵を本物そっくりに模写することが、最近の休日の過ごし方だった。こんな風に埋めたノートが、中学生になってから与えられた自分の部屋の棚を一つ占領するほどある。一番好きな冒険漫画は何度も何度も模写してしまい、かなり長い巻数があるのに展開や台詞をそらで言うことすらできるほどだった。
家にある漫画を描きつくし、最近になってよく利用するようになった近所にある古いブックカフェ。美術の専門書などの棚には近寄ったことはないが、古くて貴重な漫画がたくさん置いてあって、しかも長居しても許される。剛はすぐに店主と顔なじみになるほどに通い詰め、店主の機嫌の良いときにはコーヒーをサービスしてもらえるほどになっていた。
今日も店主おすすめの漫画を一通り読み、感動して思う存分に書きうつし、自分だったらこんな展開にすると新キャラやストーリーを作り出し、ノートを埋めていた。常に閑古鳥が鳴いているさびれたブックカフェには休日であるのに二三人しか客がおらず、コーヒーの香りに乗るジャズだけがその静けさに色を付けていた。
ちりん、と古臭いドアベルが鳴る。この昭和の香りがふわりと漂う事も、剛がこのカフェを気に入っている理由だ。
チョコレート色のドアを開けて入ってきたのは、この店の客層としては珍しい、セーラー服を着た少女二人だった。年齢は中学二年生の剛と同じ程度だろう。少し珍しいデザインのセーラー服はこの近くにある私立の名門、四条学園のものだったはず、と記憶を辿る。何の変哲もない公立中学に通う剛にとって何の接点もない少女達に違いなかった。
ただ、ちょうど手が痛くなってコーヒーを飲みながら休憩していたこともあり、剛は珍しく他人に興味を持つ。一人は赤みがかかった髪を肩あたりでくるりと内側に巻いた人形の様な子だ。深夜のアニメでああいう子を良く見るな、と剛は大して興味もなく分析し、もう一人の少女に目をやる。
地味な子だった。太い毛を無理矢理押し込めたような太くて野暮ったいみつあみを垂らし、武骨なべっこうの眼鏡をかけている。色気づいた中学生がハイソックスだとかルーズソックスだとかで武装している足元には、優等生がするように白い三つ折りの靴下を履いていた。明らかにスクールカースト上位とみられる美少女と、最下層に位置するであろう地味な少女。その二人が一緒に行動していて、なおかつ美少女のほうが地味な子に積極的に話しかけては微笑んでいる事をみると、美少女のほうが地味な子を好きなような印象さえ受ける。なんだかそのちぐはぐな様子が面白くて、剛は観察を続けた。少し休んで痛みが軽減された手は軽やかにペンを取り、彼女達の顔立ちや様子を事細かにスケッチしていく。
美少女のほうはなんだかありがちな絵に仕上がった。どの漫画にも一人は居そうな萌え担当キャラといった感じだ。気が強そうな瞳をしているからツンデレだろうか。胸が全くないことも属性の一つに数えられる。これでへんな語尾でもついていたらギャグだな、と考えていれば、「夏美は本当にドジっ子ですわねぇ」という取ってつけたようなお嬢様言葉が聞こえてきて、剛は俯いて笑いをこらえた。言葉づかいも言葉づかいだが、声がまんまアニメ声だ。
ひとしきり楽しんだ後、剛はもう一人のほうの描写にうつった。模写の基本は、自分の主観を入れない事。自分の描き方にこだわらないこと。そこにあるものをあるがままに描く。彼女の動きがぬるくて、ずっと向きを変えないことが幸いした。さらさらと動く腕。ある程度まで描き上がったところで、全体を俯瞰して剛は眉間に皺を寄せた。
そこには、美しい少女がいた。
目、鼻、口。輪郭。背すじをスっと伸ばした佇まい。細い肩、バランスの取れた胸、腰のくびれ、締まった足首。
驚いた。剛は自分の模写に絶対の自信を持っていたから、これが自分の願望を具現化したものではないということは良く理解していた。
それは彼女の真の姿だったのだ。
幅の広い二重瞼の大きな目を太いべっこうフレームの向こう側に仕舞い込み、小さくて高い鼻は無骨な鼻当てが錯覚を起させる。ボリュームの多い髪は彼女の輪郭を覆い隠し、パッと見ただけでは彼女の印象はダサいべっこう眼鏡とぼさぼさのくせ毛というイメージしか残らない。剛もそうだった。そうして、大概の男は興味なし、とばかりにこの少女に注目するのをやめてしまうのだろう。少しサイズの大きな制服は彼女の身体の完璧なラインを覆い隠していたし、三つ折りのくつしたは締まった男好みの足首を見せる事を許さなかった。
彼女は萌えっ子に向かって仕方ないな、なんて言うふうに慈愛さえ感じられるほどに綺麗に微笑む。
自分の魅力をわざわざ覆い隠し、人の群れに紛れるようにして生きる奥ゆかしさ。べっこうの仮面の向こう側からたまに溢す無条件の愛情。
雷が剛の頭のてっぺんを貫いたようだった。
ペンを折れんばかりの力で握りしめる。ページをめくって新しいページを出すことも煩わしく、剛は頭に浮かんだ全ての事を書きなぐった。
長く美しい黒髪。自分だけを見つめる優しい瞳。なにがあっても必ず寄りそってくれるという愛。彼女から感じた全てをひたすらにノートに書きなぐった。息をするのも忘れるようだった。美しい、美しい彼女。その奥ゆかしさ、滲みでる愛情。その全てを描き切りたい。彼女の幻影でいいから、このノートに閉じ込めてしまいたい―――――!
ノートの残りページが尽きて、ようやく剛はペンから手を放して息をついた。全力疾走した後の様に呼吸が荒れていて、落ちつかない。継ぎ足されていたお冷をぐい、と一気飲みして、力を入れ過ぎて震える手を何とか握りこみ、携帯を取り出す。時間を確認すると、既に閉店時間はとっくに過ぎた午後十時だった。
弾かれたように立ちあがる。普段はカウンターの奥で好きな本を読んでいる店主は、剛の様子が見える席に移動して煙草を吸っていて、立ち上がった剛にニヤリと笑いかけた。当然のことながらあの女子中学生たちも含めて客は誰ひとりとして居なくなっていて、closeの札がかけられた入り口は照明が落とされている。
「よう、坊主。ラブレターは描けたか」
「ラブレター……」
「さっきの女の子達だろ?派手なほうか?地味なほうか?」
寡黙な剛と寡黙な店主はこれだけ頻繁に会っていても会話を交わしたことは数度しかない。珍しくはじまった会話に、剛も思うがままのテンションで答えた。
「……描けました。でもこれ、思い入れ強すぎというか夢みすぎというか」
「ふうん?また、随分と斬新なラブレターだ。おまえらしい」
剛の描いた絵を覗き込みながら、店主は酒で焼けた声でからりと笑った。
「綺麗な子だ。これじゃあ、おまえが大好きなあの漫画のヒロインみたいだな」
その言葉を聞いた時、剛の眼前にあまりに輝いた道が広がったような気がした。長い長い一本道。脇にそれる道は一つもなくて、どこに辿りつくのかは余りに果てすぎて見ることはできない。それでも、その道が自分が進むべき道だということは頭に叩き込まれたみたいに分かることができた。そうして、その道が開けたことが余りに嬉しく思った。剛は震える手を隠そうともせずに店主に向かって笑顔を向けた。
そう、その道の行き着く先は。
「彼女の名前はエトワール。フランス語で星って意味です。彼女は俺にとっての星だ。俺は……俺なりの、告白方法を思いつきました」
店主はしわしわの顔をさらにくしゃりと歪ませて笑った。孫をみているような表情だった。
四条学園中等部三年生 *※* 冬 *※* 林冬乃の場合
―――――少年が自らの道を歩み始めてから二年後。
「なに?これ。漫画……?」
真琴から手渡された紙袋に入っていたのはシュリンクも切られていない新品の漫画。同じタイトルのものが十冊ほど入っている。少年漫画の連載作品のようだ。その作品名には聞き覚えがあった。最近漫画好きの友人たちの間で人気になっている漫画だ。少女マンガ好きの冬乃は読んだことはなく、漠然と内容を知っている程度だった。
その名前は、“LACK”。
確か、アクセルという主人公の男の子が悪い悪魔にさらわれたエトワールという幼馴染の女の子を助けにいく冒険物語、だったか。
少年漫画特有の線の太いキャラでツンツンとした茶髪の少年が大きな剣を構えている姿が描かれた表紙のものを一冊手に取る。
「優季くんは、どうしてこれを私に?」
状況がつかめず、冬乃は学園で一番の有名人の名前を出して首をひねった。
*※*
中等部では気遅れしていたものの、高等部への入学が決まって意を決して入った伝統ある美術部は、やっぱり四条学園というだけあって凄い人達が沢山居た。
冬乃はいつもそうするように、イーゼルを抱きかかえるように持って、人気がなく光が当たりづらい壁際へと移動する。ロッカーが並ぶ壁を背にすれば自分が描いているものを見られることがないからだ。
先月から描いている、今年の四条コンクールに出す為の描きかけの絵を見て溜息をつきたいような気分になる。四条学園が主催のコンクール。その性質から外部よりも内部生のほうが入選しやすいと思われるが、実際は一切そんな事はない。伝統のある由緒正しい芸術コンクールである。プロアマ関係なく、個人が作った未発表の芸術作品であればジャンルは問わない。四条賞には実に多彩な応募作品が集まる。キャンバスに描かれた仰々しい油絵から、前衛的な彫刻、挙句には建物一つをまるまる使った建造物アートなんかまで。審査は一切の偏見を除外して行われる。
そんな、時代に柔軟でかつ格式の高い事で芸術家達に評判の高い四条コンクールではあるが、ひとつだけ常軌を逸していることがあった。
それは、最優秀賞である金賞が三年前から全く同じ人物の作品に与えられているという事だ。
その人物の名前は四条優季。この学園一番の有名人であり、理事長の孫、校長の息子にあたる。
そんな出目のせいで一回目の金賞受賞の際に八百長だと騒ぐ人間はたくさんいた。何せ、審査委員長は理事長、つまり優季の祖父である。彼はそれを聞いて、もっともだと受け止め次の回からは架空の名前を付けて応募した。結果が出て初めて、名乗り出たのだ。賞の取り消しも辞さないという強気の態度である。成りすましでないことを証明するために、絵に細工まで施して。審査委員長である彼の祖父まで驚くほどの徹底ぶりだったという。また、その作品も誰も文句がつけられないほどの美しい作品で、彼の実力はその身をもって証明した形になった。
ここは四条学園。芸術の才能を持ち、努力をし続けることのできる人間のみが入学を許される場所。そして数百年に一人の特別な天才を見つけ出すためにそのほかの才能と未来のある若者たちを選別するための場所。―――――芸術家の墓場。
彼は瞬く間に学園内のヒエラルキーの頂点に立った。大学部や高等部の先輩たちさえも、優季とすれ違う時には挨拶をするようになっていた。
彼が校内で独裁状態に入ったことには芸術の圧倒的な才能以外にももう一つ理由が存在する。
それは、モデルのように整った容姿のためであった。
ラピスラズリのような澄んだ青い目。光の加減ではちみつ色に輝く髪。母親がフランスと日本のハーフということらしく、日本人離れしたモデルじみている顔のつくりをしている。身長は百七十九センチ、絵に集中するため部活動はやっていないがスポーツは一通りこなし、一般教科の成績もダントツ。乗馬サークルにて乗馬体験をしていた時、女子生徒の何人かは感動のあまり失神したというのは冗談のようで本当の話だ。
曰く、白馬の王子様。
恵まれた才能、恵まれた容姿。神は二物も三物も与えるようで、その人柄は何にもまして称賛されるものであった。気さくで、人当たりがよく、誰にでも分け隔てなく接して決し、決して気取らない。欠点はあるにはあるのだが、彼はそれを悟られるようなことはしないので、おそらく彼の欠点を知っているのは初等部のメンバーだけだろう。
優季の人気はとどまることを知らず、彼が中等部三年生となる三度目のコンクールで危なげなく金賞を取ってからは他校や他の美大などでまでファンクラブが作られるようになっていた。つい先日、四条コンクールの展示と並行して行われる四条学園全体の文化祭の後の選挙で彼はとうとう中等部三年生にして高等部の生徒会長に就任した。中一で中高合同の美術部部長に選ばれた真琴も常軌を逸しているが、すぐに進級するとはいえ中等部の生徒が高等部の生徒会長など前代未聞どころか本末転倒もいいところだ。彼が進級するまでのこの半年間、高等部の規律は中等部の生徒が守るわけである。
冬乃は初等部からこの学園に通っているので彼と面識はあり、初等部ではよく一緒に遊んでいた。
しかし冬乃は中等部に進級したころから徐々にクラスの人間から避けられる―――――いわゆるスクールカースト最底辺に陥った。あからさまにいじめられるわけではないが、冬乃はクラス内で空気のような扱いをされるようになってしまったのだ。
降ってわいた厄災のような事態。冬乃は仲間に入れないのは自分の容姿が悪いのだと結論付けた。日本人形のように黒く重たい髪。もったりとした奥二重。薄いくちびる。ごまを散らしたようなそばかす。冬乃は優季やその他の初等部のメンバーと距離を置くようになった。
優季だけは優季は冬乃のことを心配し、何かと付き添ってくれていた。初等部からの付き合いというのはいわゆる幼馴染に近いものがあるからだ。しかしそれが裏目に出た。ちょうど優季が四条コンクールで一度目の金賞受賞を果たし、爆発的な人気が生まれたなかで華々しく中等部の生徒会長に就任したという時期だったということもタイミングが悪かっただろう。優季を独り占めしていると言いがかりをつけられ、とうとう直接的にいじめられるようになったのだ。優季は何とかしようとしてくれていたが、あまりの惨めさにいたたまれなくなり、冬乃から一方的に関係を断った。優季は辛そうに冬乃を見つめていたが、冬乃の覚悟を読み取ったらしく冬乃がクラスの隅で小さくなっていても声をかけないようになった。
それ以来、中等部で彼と言葉を交わしたのは極めて事務的な二、三言だけだと思う。今では、彼と冬乃は全く違う世界に生きていた。
リアルの世界で居場所を失った冬乃は二次元の世界に逃げ込んだ。元々、上手い下手は抜きにしていわゆる萌え、と呼ばれる絵を描くことが好きだった。自分のサイトを作り、好きなアニメや漫画のキャラの絵や漫画を投稿した。コミケという場所があることは知っていたが、自分の容姿に激しいコンプレックスを持っていた冬乃は人前に出ることがどうしても出来ず、活動はネットに終始していた。冬乃の絵はじわじわと人気を集め、今ではイラストSNSでランキング上位の常連となっていた。
高等部に進学することがきまった二月、真琴が冬乃を美術部にスカウトした。真琴も初等部から四条学園に居る女子生徒である。中等部、高等部合同の美術部の部長を務めている。中学一年生で部長となったのは彼女が史上最年少らしい。
初等部のころは彼女と優季と合わせてよく遊んでいた。しかし、冬乃のほうから壁を作ってからは疎遠になっていた。
優季や真琴といった初等部からのメンバーは人数は少ないものの、誰しもがカリスマ性を持っていて、学園においても各分野のリーダー格となっている。パッとしないのは冬乃ぐらいだ。初期メンバーなのにね、という陰口がどこかしらから聞こえてくれば、冬乃は聞こえないふりをして顔を俯けた。
真琴はどこから聞きつけたのか、冬乃のネット上での活躍を知っていた。
「芸術に貴賤はありませんわ。貴方の思う美を、思うさまに表現すればよろしくてよ」
真琴の真意はわからない。本当に冬乃の絵に芸術性を感じたのか、それともひとりぼっちで過ごす冬乃を憐れんだのか。しかし、冬乃は意を決して美術部に入部した。
冬乃が得意とするのはペンタブレットとイラストソフトを使ったデジタル絵であったのだが、こうしてキャンバスに向かい合っているのはそういった真琴の気遣いに答えたいという思いがあったからだ。しかし簡単に修正や重ね塗り、効果などを出すことができるデジタルと違ってアナログは一つ一つの線の取り返しがつかない。この学園の性質上、初等部より力を入れられていた美術の授業で習った記憶を総動員しても、自分の納得いくような作品を作ることができない。
この日も、冬乃は早々に行き詰まり、下書き用のスケッチブックに萌え絵を描いて息抜きをしていた。
アナログで絵を描くことができないというのは、やっぱり本当の意味での芸術家ではないのだろうか。
そんなことをぼんやりと思っていると、不意に入口のあたりから黄色い歓声があがった。この手の声は聞きなれているから、そちらを向かなくても何が来たのかは容易にわかる。
つまりは、学園の王子様―――――四条優季が美術部のアトリエを訪れたのだ。
優季を神かなにかのように崇めている女子たちがわあ、と周りを取り囲み、頭ひとつぬきんでている優季は苦笑しながら真琴を呼ぶ。
優季と並んでも見劣りも気後れもしないのはこの学年ではもはや真琴と、同じく初等部出身の白雪みゆきという男子に絶大な人気を誇る学園のマドンナぐらいで、彼女が立ち上がると信者たちはすごすごと自分の席に帰って行った。
「部室に来ないでくださるかしら?優季。貴方がいらっしゃると部員の集中が途切れるのですわ」
「はは、すまないね真琴。どうしても今きみに伝えたいことがあって、急いで来たんだよ」
優季は悪びれずにさわやかに笑う。ミントの香りがする粒子が彼を取り囲んでいるようだった。優季は手にしていた紙袋を真琴に渡すと、彼女の耳元で何事かを呟く。真琴は一瞬怪訝そうな顔をして袋の中身を見やったが、こくりとうなずいた。
「頼んだよ」
「もう来ないのであれば」
「はは、相変わらずキッツイなぁ。じゃあ、またね。みんな」
その紙袋の中身は部活終了後に明らかになった。他の美術部員が完全にいなくなってから腰を上げ、筆などを洗っていた冬乃のもとに一度帰ったはずの真琴が現れたのだ。
「あれ、真琴ちゃん。帰ったんじゃなかったの?」
「貴女に伝言を預かってきたのですわ。あのバカから」
「優季くんから?」
真琴は優季には当たりがキツイ。たぶん優季のことをバカなんて呼べるのはこの学園中探しても彼女ぐらいだと思うが、真琴の優季嫌いは初等部の頃からなので冬乃は普通に対応した。彼女は美術部でもないのに毎年金賞をかっさらっていく優季に大きなライバル心を抱いているのだ。
「今日は夏美と帰るはずでしたのに!あのバカのせいで遅くなってしまいましたわ。夏美を一秒たりとも待たせたくないのに、全く面倒な男ですわね。ハイ確かに渡しましたわよ」
そうして、冬乃はあの紙袋を押し付けられることになったのだった。真琴はため息を吐きながら続ける。
「理由は言わないんですのよ。読んでみなよ、きっと冬乃はこういうの好きだからって。全く自分で言えばよいものを。優季は、冬乃のことが気になって仕方がないっていつもぼやいていますわ。でも自分から話しかけに行くと冬乃が怒るんだって。そろそろ壁を作るのをやめて、前のように話してあげたらいいのに」
「……うん。そうね、そのうち……真琴ちゃん、ありがとう。読んでみるわね、これ」
「ええ。では、帰りましょう。もう下校時刻は過ぎていますわ」
冬乃はひとりぽつぽつと夕焼けでオレンジ色に染まる町を歩いて帰った。途中、校門のあたりまでともに歩いていた真琴が、校門で待つ別のクラスの女子を見つけるやいなや「夏美ぃぃぃ」と叫びながらに勢いをつけて抱きつく様子が見えたが、自分の姿を知らない子に見られたくなかったので、真琴に短い別れの挨拶をして逃げるように帰ってきた。
帰宅すると、真っすぐ部屋に戻った。母親の趣味でごてごてとしたロココ調の家具で統一された子ども部屋。家具一つ一つが主張するその様が冬乃はあまり好きではなかった。ピンクの革張りの、猫足のカウチソファに疲れたように腰を下ろす。
ローテーブルの上にその漫画を全てのせ、丁寧にシュリンクを外した。やたらと干渉してくる過保護な両親には勉強をすると言ってあるので部屋には入ってこない。
優季はどんなつもりでこの漫画を勧めてきたんだろう?
冬乃の指が一ページ目をめくる。
―――――その瞬間、冬乃は物語の世界に引きずり込まれた。
四条学園高等部二年 *※* 四条優季の場合
―――――少女が運命の物語に出会い、二年。
「……」
優季は満足げな顔をして漫画を閉じた。優季が唯一持っている漫画、"LACK"の二十巻である。ちょうど冬の世界での決闘が終わり、永遠の氷が溶け春が来た世界で平和を祝う宴会をしている話だった。
戦いの中でエトワールの居場所について、重要な手がかりをつかんだアクセルは仲間とともに次の世界に向かう。おそらく次の冒険が仲間とともに過ごす最後の冒険となるだろう。ここまできた達成感と、早くエトワールを助け出してほしいという願い、そしてこの胸躍る物語がずっと終わらなければ良いのにという寂寞で満足感が胸をいっぱいにしていた。
やはり、この物語は極上だ。
優季は一人掛けソファでしばらく余韻に浸ってから、使用人が発売前にフライングで届いた"LACK"を載せてきた盆の上に大きめの白い封筒が載せてあることに気付いた。"LACK"の新刊にしか興味がいかず、忘れていた。優季はサイドテーブルに載せてあるそれを手に取る。
名前を貸してほしいと頼んでいた友人からのコンクールの結果を転送してきたものだった。使用人が持ってきたトレイの上に載せてあるペーパーカッターには目もくれず、優季は手でその封筒を破り、中からマトリョーシカのようにさらに現れたひとまわり小さな封筒を破る。中の紙まで共に破れてぎくりとしたが、気にせず現れた中の結果を確認する。
―――――金賞、受賞。
右側が少し破れてしまった結果通知書に最優秀賞の文字を見つけ、ほっと息をついた。授賞式の日程が書かれた紙に青い付箋が貼ってあり、達筆でメッセージが添えられていた。
『また優季じゃないだろうな?』
祖父の字だ。優季は苦笑した。残念ながら、今回も僕ですよ。おじいさま。
高等部二年生の秋。毎年恒例の四条コンクール。金賞はこれで五連覇だ。祖父はこういった優季のヘタをすれば八百長にすら見られてしまうような派手な活躍をあまりよくは思っていないのだが芸術家としてのプライドは替えられないようで、結局厳正に審査を行いその年に一番美しかったものを金賞に出す。そして毎年その正体が優季だとわかり悔しがるのだ。
今年、あの男は絵を出しているだろうか。
中学一年生。出会いは、そんな幼いころだった。
優季は初めて金賞を取った年に同時に佳作を受賞していた同い年の男のことを思い出す。優季は十二歳だった。四条賞はプロの芸術家が多く参加する由緒正しい芸術コンクールである。一次審査で落選するプロもたくさんいるなか、中学生という年齢で賞を取った者は優季とその男しかいなかった。優季はそれを聞いて興味半分にその男の絵を見に行ったのだ。
圧倒された。
恐怖すら覚えるほどの美の奔流が、優季を貫いた。
どうしてこんな絵が描けるのか全く見当もつかない。天から舞い降りてきたかのような、どうしようもなく神々しい絵であった。
苦しい思い出から、愛おしさだけをつまみだして画用紙の上に踊らせたような切ない作品。描いている本人が涙を流している様子が見えるようであるのに、その作品には、愛するものと共に生きる優しい喜びが感じられた。その想いは激しすぎて到底画用紙一枚で賄える熱量ではなく、今にも爆発しそうだ。
体中に鳥肌が立った。
この絵は、怖い。人間がこんなものを描けるわけがない。描いたやつがいるとするならば、そいつは人間ではない―――――!
どれぐらい長く、その絵の前にとどまっていたのだろう。あきれたような真琴が、もう美術館を閉めるから出てくださいませ、と優季を追い立てるまでその絵の前に立ち尽くしていた。
「真琴、君はこの絵―――――どう思うかい?」
呆然とした様子でそう尋ねる幼馴染に、真琴は鼻で笑うように答えた。
「ああら。完全無欠の王子様が及び腰ですの?情けないですわね。くれぐれも信者にそんな姿見せないでくださいませ?まぁ……この絵の素晴らしさに気付くあたり、見どころがないわけではないですが」
「……僕は、この絵に勝てると思うかい」
「何をおっしゃいますの。貴方は金賞。彼は佳作。審査員には貴方の絵のほうが優れていると判断されていますのよ」
「そんな評価じゃなくていい。君の意見が聞きたい」
嘘だ。是が非でも世間の評価が欲しかった。―――――芸術を放棄した、あの父親に認められるために。だから祖父に良い顔をされないというのにコンクールに提出したのだ。しかし、この異端にすら感じられる美しい作品を差し置いて己が賞を取っている状況が信じられず、その疑念は優季のプライドを激しく傷つけた。
そして、真琴は望み通りの言葉を吐いた。
「……率直に言わせていただくと、今の貴方では勝てませんわね」
「―――――っ」
握りしめたこぶしが爪で切れて血が滴った。
「……すまない、今のは」
自分のみにくい嫉妬に真琴を巻き込んだ。謝罪の言葉を言いかけると、真琴はしょうがない男ですこと、なんて笑みを漏らした。
「何歳からの付き合いだと思っていますの。貴方が王子なんて馬鹿げた存在などではなく、不甲斐なくてみっともなく残念で器の小さい不器用な男であることは幼少のころより承知しておりますわ。わたくしは常日頃から貴方がいけすかないと思っておりますけれど……その負けず嫌いさだけは、評価してもよいと思っておりますのよ」
真琴は優季に挑戦的な笑みを見せると、厚底のくつをころんと鳴らして美術館を出て行った。優季は絵の前に立ち尽くして思案する。
今の自分では、この絵に勝つ事はできない。その言葉が、脳裏をぐるぐるとまわる。
心臓が怖いぐらいに高鳴って、いっそうるさかった。
〔その負けず嫌いさだけは、評価してもよいと思っておりますのよ〕
勝ちたい。
その日から、優季の創作活動は、その絵を超えることだけが目標となった。
文字通り血が滲むような努力を繰り返した。長期休みになれば海沿いの別荘にあるアトリエにこもるようになった。新しい事業に必死で優季にかまっている暇もない父親は優季のそんな努力に気付くことすらなかっただろうし、祖父はようやく自分の程度が分かったか、なんて言いたげな様子だった。
その作品を書いた男の名前が脳裏をぐるぐるとめぐり、似た名前を発見しては肩をびくつかせるような有様だった。
春樹アキラ。
何枚も何枚も描き散らした。
悔しかった。
春樹アキラはそれきり、四条コンクールに応募してくることはなかった。あの作品をきっかけに祖父が男を口説き落とし、四条学園高等部に入学させたということは聞いていたが、芸術の授業で展示される高等部生徒の作品を見ていても、その名がついた作品は本当に同一人物が作者かと疑いたくなるような凄惨な出来のものばかりが上がっていた。
あの作品だけがまぐれだったのかと祖父はぼやいたが、優季はそうは思わなかった。
あの作品は春樹アキラの魂そのものだ。
さまざまなコンクールで最優秀賞を取り続けても、あの絵にはまだ勝てないという呪いが優季を苛んでいて、満足しない日々が続いていた。
そしてあの日から四年後、今年。恒例の四条コンクールの展示が行われた。
美術部が準備がてらおこなう内部観覧日。一般公開より先に見られるそれに赴いた優季は、自分の描いた絵がミュージアムのいつもの特等席に鎮座していることを事務的に確かめた。作者の名前は間違いなく優季の名前になっている。奥へ進んだ。
「いらっしゃいましたわね!優季!さあ、これを見なさい!」
そこへ突然竜巻のように登場した真琴に苦笑する。体は成長しているのに服や小物の趣味は変わらなくて、厚底のくつや頭に斜めに飾られているミニクラウンなどがひどく幼く、相変わらず独特の可愛らしさを醸し出していた。
優季は彼女の爪が黒く染められた指が指し示す作品に目を向ける。
銀賞。
それは、優季が焦がれてやまないあの空の絵だった。
「……っ!?」
優季は驚愕に息を詰まらせる。確かにあの絵だ。四年前に佳作を取り、優季のこころを打ち砕いたあの春樹アキラの絵がどうしてここにあるのだ。
優季の憧れともトラウマともつかない究極の存在になりつつあったその絵は四年前よりも確実に美しさを増して優季に襲い掛かってくる。
「……あ……ど、して……」
「額ですわ」
真琴の声で我に返った。力が抜けてへたりこみかけていた足に気付き、慌てて体制を立て直す。改めて絵を見上げた。
空の絵は群青色のマットで固定され、マットには銀色の飾り線が通り絵を囲っている。金属枠には角に継ぎ目が目立たなくなるようなシンプルながら繊細な装飾が施されていて、決して主張せずに、存分に絵の美しさを引き立てていた。
絵の持つ激しいパワーが伝わるまでの距離によるほんのわずかな減衰すら許さずにダイレクトに感情に流れ込んでくる。
額の力。美を余すことなく発揮する装飾。
圧巻させられた。
「素晴らしいね」
その言葉を言うだけで精いっぱいだった。
どういうわけか真琴がこの額を作ったのはこの子ですのよ、と作者本人を連れてきた。うちの高等部の制服。ネクタイの色からして同級生のようだ。やたらと地味な女の子。名前は五十嵐夏美と名乗り、ろくに言葉を交わす間もなく真琴がなんて可愛らしいんですの、と奇声を発して抱きついている。真琴の奇行には慣れきっているので、適当にかわして逃げるように歩を進めた。
あの吸い込まれそうなほどに高い空が追いかけてくるような妄想にとりつかれる。高鳴る鼓動を押さえつけるように胸をつかんだ。振り払うように角を曲がった。
息が詰まりそうな衝撃が優季を再度、襲った。悲鳴に近い声が掠れて吐き出す空気の音になった。目を見開く。
銅賞のスペースに飾られていたのは、間違いなく春樹アキラの絵だった。何十回、何百回と模写したあの絵柄が寸分たがわずそこにあった。
優季は呼吸が苦しくなるのを感じた。その作品があふれ出るエネルギーで周囲の酸素を焼き尽くしてしまったようだ。視界がかすむ。
素晴らしい作品だった。
それは”LACK”をモチーフにした油絵だった。
優季は連載当初からファンである。そして、“LACK”の作者は連載開始当初中学生だったという。二年前、その作者が何の縁か四条学園に入学すると聞いた時に嬉しさのあまり、読んでくれそうな冬乃に漫画を全巻プレゼントしたほどだ。作者はたまたま優季と同い年であり、廊下で出会うようなこともあるのだが、照れくささが先行してしまいいまだに声をかけたことはない。
彼の絵は良い意味で全く変わらなくて、その絵には信じられないほどの色彩に満ちた未来が満ち溢れていた。自分が出したくても出せない色、雰囲気。その全てがその絵に凝縮されていて、頭を打ち砕かれたような衝撃が襲った。
優季がこの少年を追い掛けて追いかけて積み重ねた努力なんて粉にして消えるような、溢れんばかりの才能が優季の四年間の努力をあざ笑うかのように立ちふさがっていた。
LACKという物語がもつ疾走感が痛いほどに伝わってくる。今にも絵から飛び出しそうな主人公のアクセルとヒロインのエトワール。獰猛なドラゴンと戦うこのシーンはおそらく物語の一巻にあたる冒頭部分だろう。多少デフォルメされて描かれる公式の漫画の絵と少し変えられ、写実感を増した劇画調にアレンジされている、繊細でありながら豪快な絵。幾度も塗り重ねられた油絵で表現されている、彼らに襲い来る地獄のモンスターが口から吹き出す炎が激しい音を立てているのが聞こえてきそうだ。
また、自分の作品のはるか彼方をいかれた。この少年には決して勝てない。膝をつきそうなほどの絶望感が優季を襲っていた。
彼がいまだに佳作や銅賞などに甘んじているのは、技術が未熟だからであろう。
持つものだけに理解することができる、芽吹きかけている圧倒的な才能。
隣に立つ真琴は静かに「凄いですわね、彼」なんて言葉を発する。
優季は真琴に呟くように聞いた。
「……僕の今回の作品が、この絵に勝てた、わけが……」
「寝言をわたくしの耳に吹き込まないでくださいませんこと」
真琴は四年前のように優季の言葉をぴしゃりと叩き落とす。
「四年前にも言いましたわ。貴方が金賞で彼は銅賞だった。それが全てですわ。負けたと感じているのは貴方の勝手なプライドでしょう」
「君の感覚を信頼して聞いているんだ」
優季はようやく絵から目を離して、彼女の瞳を覗き込んだ。
彼女は一瞬だけたじろいだが、すぐに持ち直して真っすぐに見つめ返す。
「言わせていただけるなら……彼はこの四年間、全く成長していませんわね。技術的にも、思想的にも。この四年間何をしていたのか気になるほどですわ。向上心が全くと言っていいほど伝わらない。でも―――――だから、でしょうか。彼の魅力は四年前とは変わりませんわ。絵からあふれ出すような底知れない未来。今は多少に荒削りでも、この先絶対に素晴らしい才能を開花させることをわたくしたちに容易に予測させますわ。なんて、大きな原石でしょう」
「……」
「そして、貴方のほう……この四年間の努力が手にとるようにわかります。貴女が自分自身に一切の妥協を許さなかったことを疑うひとはいないでしょう。……ただ、貴方の作品は――――――」
「……分かった。ありがとう」
優季はそれ以上の言葉を遮るように、言葉を返した。おそらく一番言いづらかったであろうことを言わせてしまったことに罪悪感を覚える。
「才能を努力で凌ぐことが、いかに不可能なことか。わたくしたちもつ者はそれを理解していなくてはいけませんわ。貴方も、どうか聞き分けなさい。……次は、SAC。あの男は必ず来ますわよ」
踵を返した優季の背中に真琴のいつもの険が少しとれた、しかしそれでいて相変わらず本質を突いた言葉が追いかけてくる。優季はそれを聞いて少しだけ立ち止まったが、振り返らずに進んだ。
優季は爆発しそうな己を制御するように、春休みのすべてをかけて海沿いのアトリエにこもった。
真琴の言うことはわかるし、それは優季の考え方と同じだ。絵の世界において、画家の持つセンスは美のすべてであるといっても過言ではない。技術など、完成度の差にすぎない。
―――――それでも、努力がいつか才能を超えると信じたい。なんだってやってやる。才能は、絶対的なものではあってもスタートラインにすぎないのだから。人より先のスタートラインにぼうと立っていたところで、後ろから追い上げてきたやつに負けてしまえばそれは後ろから努力した奴の勝ちなのだ。
才能を才能で打ち負かすには――――――努力を積み重ねるほかないのだ。
歯を食いしばりすぎて、口の端から血が出てきたことも気づかず、優季はキャンバスに叩きつけるように作品制作を続けた。
高等部二年生 *※* 冬 *※* 春樹アキラの場合
―――――少年が二度目の絶望を経験してから、半年。
春樹アキラ、特別美術クラス――通称SAC――への進級が決定。
その突然の知らせは、あの中学三年生の春を思い出すようだった。
四条学園。全国有数の芸術に力を入れている小中高大一貫のマンモス学園だ。付属する大学部からは著名な近代芸術家を多数輩出し、高等部からは全国の有名大学に合格者を出している。
中一に描いた絵を最後に、この先一生絵は描かないと心に決めていたアキラにとって、年中芸術漬けにされるその環境は頭痛がしそうだった。ただ、悩んでみた所で、家に金がないと言う事実は揺るぎない。しかしアキラが絵を辞めた経緯を知っている母親と兄は、決してそんな学園にいくことを無理強いはしなかった。けれども高校にはいくようにと説得してくれた兄のために入学を決意したのだった。
その学校には小学校からの一貫校によくあるような、内部進学生と外部編入生のような差別は存在せず、ヒエラルキーは外見や能力、人柄ではなく作品の出来栄えによってすぐに変動した。不思議な世界だった。
しかし、アキラはもともと自分の好きな絵や彫刻しか作ることができない。気分がのっていなければ、おそらく作品の出来栄えは素人にもはるかに劣るだろうという情けない自信がある。アキラはそんな我儘な事情で芸術の授業の手を抜いた結果、一般科目も合わせてヒサンな点数を取ってしまっていた。
これでは卒業どころか進級さえ危うい。少し危機感を抱き始めたころに突如発表されたのが、特別美術コース、通称SACへの進級者というものだった。
ずらりとならべられた二十五名の名前が掲示板に張り出され、その前に群がった生徒たちが一喜一憂している。アキラは興味なさそうにそのわきを通りすぎようとした。SACというものが普通のクラスと何が違うのか全く分からなかったし、アキラの興味は完全にべつの方向に向いていたからだ。今日は月曜日。今日発売のスキップを買わなくては。今週は東の島編、冒頭の戦闘からアクセルがピンチに陥ったところだ。アクセルは瀕死状態に陥ったリリーを助け出すことができたのだろうか。そしてようやく居場所の判明したエトワール。まさか地獄の魔王、ジークフリートに捕まってしまっていたなんて。あのおっぱいが変態ジークフリートに食われてしまってはいないだろうか。
上の空だったアキラの目の前に、長身の男が立ちふさがった。アキラはぶつかりそうになったところで足を止め、少しだけ顎を上げて道をふさいでいる男の顔を見やる。
知っている顔だった。この学校の理事長の孫だか息子だかだ。なぜ女じゃないんだろうと地団太を踏んで悔しがりたくなるほどのきれいな顔をしていて、女子からの人気っぷりはもはや新しい宗教のようだった。気さくであっけらかんとした性格は男子にも人気があって、高等部の二年間、生徒会長を務めている。先日行われた文化祭後の投票でも危なげなく支持率九十パーセントを保持し、三度目の当選を果たした。文句のつけようもなく我が学年でヒエラルキーのトップに立っている男。四条優季。もうなんか優秀すぎてキモい。
普段周囲に二重にも三重にも連れている取り巻き達の姿はなく、アキラは初めてその男の全身を見たような気さえしていた。
この男のことはあまり好きではない。目線がわずかに上のその青い目から視線を外すように下に向けた。
「春樹アキラくんだよね」
そんなアキラの心情など全く分からないといった様子で、王子様はさわやかに話しかけてきた。日本人離れした瞳が不思議な色に光り、この色を作り出せれば、きっと闇を湛えた深い絵になるだろうと無意識に想像した。
「……そうだけど」
「僕、四条優季っていうんだ」
そんなこと知ってるよ、イヤミか。とにかく顔に出さないように目を合わせた。
「はあ」
「きみと同じクラスになると聞いてうれしいよ」
「同じクラス……?そんなの、まだわからないだろ。一般クラスの発表はまだ先だぜ」
「まだ見てないのか?きみ、SACだよ」
「さっく?」
「特別美術クラス。中学三年間、それと高校二年間の実績を鑑みて、選ばれた才能のある生徒だけが入ることのできる特別なクラスだ。校舎も別に丸々一棟与えられるし、大学部への推薦権も無条件に得ることができる。どうしてきみ、そんなことも知らないの」
「特別……?選ばれた……?言ってる意味が分からない。万年最下位のおれが選ばれるわけないだろ」
「希望制じゃないんだよ。全校生徒全員審査対象になる。その中からふるいにかけられて、本当に才能のある一握りだけがSACに進級することができる。選ばれたことは本当に名誉なことだ」
「……そもそも、特別だとか知らないけど、おれはこのさき芸術を続けるつもりなんてない。もちろん、辞退することはできるんだろうな。人気があるんだったらおれよりやる気のあるやつが入ればいい」
そう言い切った瞬間、四条の顔がわずかに怒りにゆがんだように見えた。
しかしそれは一瞬だけの変化で、すぐに王子様の仮面を取り戻す。
「きみはSACがどういうところかもよく分からないようだな……まあ、いっか。制度上、進級に伴うクラス分けというだけだし。きみは来年からは、僕と同じクラスになるって覚えといてくれればいよ」
「待てよ四条……」
「四月。SAC専用校舎で、きみを待ってるよ」
今度ははっきりと見えた。
四条の憎しみがありありと浮かんだ、すさまじい表情。
口では穏やかなことを呟いてけむに巻いておきながら、はっきりとした殺意に近い何かを確実にアキラにぶつけていた。
アキラは背筋がひゅうと寒くなったのを感じる。
四条はそれだけを伝えると、くるりと踵を返して、一定のゆったりとしたスピードで廊下を歩いて行った。
アキラはしばらくの間、エトワールのおっぱいも忘れて、その後ろ姿を呆然と眺めていた。
十歳 *※* 記憶
「ねえ、お父さん。ぼくの絵、すき?」
「ああ。おまえの絵は世界でいちばん、いい絵だ」
「ねえ、だったら―――――」
*※*※*
「お父さん。ぼく、絵を描くのが好きみたいだ」
お父さんはぼくがもってきた、初めて描いた絵を両手で握りしめていた。そして、少し躊躇したように伸ばした手をさまよわせてから、ぼくの頭におそるおそる手を置いた。
ひどく壊れやすいものをなぜるようなたどたどしい手つきにぼくは目を閉じる。
お父さんは、固まっていた。表情はよくみえない。
お父さんは絵を描いている人だ。たまーに小さな個展を開いたりもする。ぼくは、お父さんのちいさな世界で叫んでいるような、そんな胸がきゅっと締めつけられるような切ない絵が大好きだった。
お父さんは決してぼくに絵を描かせることはしなかった。だからぼくが絵を描いたのはこれが初めてだ。
「……アキラ、これどんな気持ちで描いたんだ?」
後ろに立っているきれいなおじさんも、むずかしい顔をして固まっている。
「光って見えたんだ。中にいるのが、出して、出してって言ってるみたいに。だから、ぼくはそれを出してあげたんだ」
「……そうか」
しばらく無言でぼくの頭をかきまわしてから、お父さんはすこしつっかえながら、噛みしめるようにそう言った。お父さんのその口ぶりが、とっても寂しく聞こえて、ぼくもどうしてか悲しくなった。どうしてかな。
「タイガ……」
「わかってる、和希。……アキラ、見せてくれて、ありがとう」
「……はい」
お父さんは、またぼくの頭を撫ぜた。さっきよりも、少しだけ強い力だった。
お父さんが永遠にぼくの前から姿を消したのは、その三年後のことだった。
*※*※*
「僕、世界一の画家になります。……その、そうしたら、お父さんは……ぼ、ぼくをみとめてくれますか」
優季は描き散らした絵の中で一番時間を掛けた、一番良くできたはずの絵をおずおずと父に差し出した。よほどのことがないと入ることもできない、父親の書斎。そこにはマホガニーの重厚な執務机と何台かのモニターがあって、父は優季のほうをちらりと一瞥し、子供をあやすような声を掛けるが、キーボードに走らせる指は止めない。そんな場所からは、優季が握りしめている絵も満足に見えていないはずだった。優季は泣きたいような気持になりながら、父に再度、そんな声を掛けた。
「優季。画家になるなど、まだそんなくだらない夢を持っていたのか」
「くだらなくなんてありません。お父さんも画家だったじゃないですか」
「……昔の話だ」
優季は唇を噛みしめる。父の現役時代の作品は父がほぼ全て処分してしまったけれど、何個かは優季がこっそりと部屋の中に持ち込んで隠している。
父はとげのある厳しい声でつぶやいた。
「己の能力を過信するな。才能にうぬぼれるような発言をするんじゃない。浅ましく、愚かだ。優季。世界の、どれだけの人間が芸術家を志し、何人が挫折しているのか、わかっているのか。本当に絵を描くだけで生きていける人間はわずかに一握りしかいない」
優季は硬直した。目頭がカッと熱くなる。優季は眉根を寄せ、歯を食いしばる。絶対に涙をこぼすようなことはしたくなかった。
知らず知らずのうちに力を入れていた手の爪が、油絵具を塗り重ねたキャンバスを引っ掻き、剥がれた絵具が爪の間に入り込んだ。
「僕は挫折などしません。選ばれた人間だと自負しています」
「勘違いするな。……まぁ、好きなことをできる今だけ、身の丈に合った芸術をしていればいい」
父の固く厳しい声が、容赦なく優季の小さなからだに突き刺さる。それでも、優季は顎を引いて真っ直ぐに父を見上げた。
かつて、目を輝かせて絵を描いていた父。ひとつ作品が出来上がるたびに優季をそばに呼んで、これはこうだといくつも説明をしてくれた。
あるとき、突然制作をぱったりとやめ、それからは芸術を事業として展開し、奔走するようになった。父にとって、芸術は金儲けの道具になったのだ。
自分をそのまま三十年成長させたような男らしく整った精悍な顔立ちは、そのときから優季ではなく、世の中のありとあらゆる金になる作品へ向けられていた。
父が自分を見てくれなくなったのは同じ時期だと思う。
ならば、自分は父に認められる―――――価値のある作品を制作する。それが優季には、父に認められるための唯一の道に見えていた。
「……はい」
いつか必ず。
*※*※*
十歳の少年達のちいさな願いは、目指している未来が同じものだった。
これは、のちに二十一世紀の芸術爆発と呼ばれる時代の先駆けとなる若者たちの青春。
百年に一人の天才と呼ばれ、作品は全て天文学的な価値がつき、後世の芸術史に高らかに名を残すこととなるある人物の物語。