幕の十壱 『遠き記憶の故郷』 若き獅子、武蔵に見参!?
ブレイク知識
戦国時代当時の人々の健康事情(戦国大名編)
戦国大名たちはいついかなる時も戦が起こってもいいように、食事を摂る場所には必ず、戦道具を用意していたという。
また、彼らを含む、戦国時代当時の日本人は基本的に味付けのバリエーションが多くないためか、、やはり塩辛い食事を食べることが多かった。
戦国大名たち、特に沿岸部に本拠地を持つ大名ほど塩っ気が強いものを多く食していたという。
戦に強い評判の大名ほど塩分が高い食事を好んでいたらしい。
代表的なのが、やはり織田信長であろう。
信長は頻繁に家臣に対し癇癪を起こすことも多く、怒りっぽかったと伝わるがそれは、体内の塩分(塩化ナトリウムなど)濃度が高い影響で血圧が上がっていたからだという説もあるほどである。
現代の日本人でも塩分の取りすぎな人は非常に多いが、戦国時代の大名に比べると大名たちは大体、5倍ほど多く塩を取っていたと言われている。
読んでいただいている皆様も塩分の濃い食事(特にお酒のつまみなど)の食べすぎには気を付けましょう。
でも、日本酒のつまみには甘いものは合わない気がする。
ちなみに私は、日本酒は飲めません。というより、酒全般飲めません。
1533年晩秋 武蔵国鎌倉街道府中宿場
この頃、武蔵国は大きく分けて、3つの勢力が争っていた。
まず、最初の戦国大名『北条 早雲』の遺志を継いで“関東制覇”を掲げ、相模国、伊豆国、そして江戸城をはじめ現在の東京都全域、いわば武蔵国南部を手中に収めた『北条 氏綱』。
そして上野国、下野国の守護であり武蔵国北部辺境、現在の埼玉県北部を領す『山内上杉家』当主、関東管領『上杉 憲政』。
加えて本来の武蔵国守護であり、両家の間辺りを領する『扇谷上杉家』当主、『上杉 朝興』。
この三家、特に両上杉家の小競り合いが頻繁に起こっていた。
今朝方まで信濃守一行が宿にしていた、旧国府跡の府中宿場に接する鎌倉街道は、その戦場になることも珍しくない場所だ。
「ありがとうございました。道中お気をつけて~」
元気な声と共に送り出された年齢層幅広いメンツ。
ご存知、山口信濃守御一行である。
彼らは霧積温泉の集落を旅立った後、上野国を越え、武蔵国に入った。
そして、混迷にあえぐ武州北部を通り過ぎ、北条家と扇谷上杉家が係争を繰り返す河越城を遠目に眺め、北条家の支配下に置かれていた武州南部、現在の東京都多摩地区に位置する場所にいる。
戦国時代のこの地方は今の東京から考えるとどうしてここまで発展したのかが疑問に思う程の緑が生い茂る広大な原野である。
しかしながら河越から、北条軍が幾度も派兵している影響か、現在の津久井城辺りからの道がここ府中まで続いていた。
北条家の戦略上、武蔵国には現在、東方攻略の拠点として、江戸城を構えている。
そして西からの攻撃には、小田原城から来た軍の一時的な中継地として津久井城、あるいは府中宿場を使うことがあったという。
後に北条家は西方からの拠点として滝山城を築城し、津久井城は甲斐の武田家への防波堤へと変貌するが、それはまだまだ後の時代の話である。
「殿、いよいよ相模に入りますか?」
ここに至るまで、一見のほほんとしていながら、常に警戒を崩す気配を見せない鉄平が聞いてきた。
ここから先は今まで通ってきた、信濃、上野、武蔵とは違う。なんだかんだ言ってもそこまで強い将や武人が少なかった北関東とは違い、油断は禁物である。
これから向かう相模国は、1495年以降、いち早く戦国乱世に名乗りを上げた『北条早雲』が支配して既に20年ちょっと経過している。
初代『早雲』の時代から、その息子『氏綱』へと世代交代こそしたものの、その軍勢は関東平定のために勢力圏の拡大を図る中で、多くの戦闘を経験している。
また、東国屈指の忍者集団『風魔忍衆』を抱きこむことで、諜報、隠密と言った行動により巧みな情報網をつかんでいた。
事実、上杉の勢力圏であった上野国に入ったあたりから妙な気配を感じていた信濃守は、アイコンタクトで家臣たちに、旅路での警戒を怠らせないよう徹底させていた。
「まあ、そこまで厳重に警戒する必要はない。今までもいろいろあったが、今はまだ俺らは、武士団ほどの脅威すらない。それにいくら調べようとも俺らの内情は調べても上野以降の経歴しか調べきれん。」
事実、信濃国にて、今回始めに村上家と一悶着あった際に、何処の所属かは知らないが、多くの間者を討ち取っている。その中には、伊賀や甲賀の忍と言った土豪集団系忍者から、戸隠衆、軒猿衆、そして風魔衆、といった近隣の忍の郷からの間諜もあった。
しかしながら、山口信濃守は自己の勢力圏ではそういった相手に対する防諜面が間違いなく天下一であると自負している。
前回のループの際にも記載していたと思うが、信濃守の勢力圏には、ある忍の軍団がひそんでいるからだ。
それは信濃守と共に数多ものループを繰り返し、数多くの相手に間諜工作を行ってきた忍頭、滋賀重兵衛率いる、通称『連合衆』である。
連合衆は、まさしく日本全ての忍衆を含む間諜集団、あるいは異国の諜報組織やら何やらが連なっている組織で、山口信濃守軍の情報網の要である。
無論、結成当初から結束力が堅かったわけではない。各々のしきたりや、各国のマナーと言ったものに縛られ、まさに烏合の衆状態だったがここ最近は非常に高い成功値をしめている。
今回の旅には特別に頭領の重兵衛のみを連れている。ほかはすべて、近隣諸国の調査および残してきた民たちの生活の安全のために今も励んでいるはずだ。
「…上野以降、ずっと何かに監視されてる気配を感じていたが…まさかな。」
ふと、源之助が言葉を落とす。
「源之助、なんだかんだ言っても本来、風魔は関東を中心に活動してる連中だ。そりゃ、監視ぐらいはするさ。まあ、お前は襲撃してきてくれた方がいいとでも思ってんだろうが。」
信濃守は源之助の愚痴に応える。
「ところで殿、相模に着いたらそっからどこに行くんです?」
源之助の背後で鼻をほじりながら着いて来ている水乃介が聞いてきた。
「あぁ、一応考えはあるが、それはまだ話さないでおこう。まずは相模国に入る。目指すは小田原城下。それだけは伝えておく。」
信濃守はそこまで言うと、ふと足を止めて街道沿いに見えたかすかに何かを感じた。
「…重兵衛。」
「はっ。」
信濃守は何か感じた方角を見ながら忍である重兵衛を呼ぶ。
「お前は俺と一緒に寄り道だ。ほかの連中は先に行って宿を確保しておいてほしい。」
信濃守の言葉に、重兵衛以外の家臣、特に長野兄弟は少し驚いた顔をしていたが、鉄平や森次郎が強引に引っ張り、源之助が「任せろ」と言わんばかりに手を振っているのを見ながら、重兵衛と信濃守は街道を外れ、気配を感じた方へ向った。
武蔵国 鎌倉街道外れ
そこは後々、深大寺城と呼ばれる城が建てられる場所であるのだが、それは数年後の話であり、この頃はその少し北に寺があるだけであった。
その寺から、西に離れた場所。そこには一人の若武者が、騎馬に乗って遠く離れた城を見ていた。
信濃守はその若武者を遠目に見つけた、道筋が続いているため、向こうはだんだんと近づいてくる。
そして、向こうも気づいていたのか、信濃守の目の前に来た時、若武者は馬を止めた。
「お主か?上野より相模に参ろうとしているのは?」
唐突にこう尋ねてきた。
「如何にも。」
信濃守は、相手のことをよくも見ずに応えた。
「ふふ、それは余裕から来るものなのかな?」
若武者は、信濃守の返答を聞き、ムッとしたのか少し怒気が感じられるような声で、再び問うてきた。
「散々と俺らのことを嗅ぎ回っている連中の元締めならわかるだろ?」
信濃守はそこまで言って一拍於いてこう言い放った。
「“*てつはう”の暴発音で腰を抜かしたうつけさんよぅ。」
信濃守のその言葉に連動して、周囲の薮やら草むらからほぼ一斉に、棒手裏剣が飛んできた。
「…甘いぞ!!」
信濃守は両袖に忍ばせていた旋棍(トンファー)で全方向から来た手裏剣をはたき落とした。
「いくら投げてもそれじゃあ、意味ないと思うがな、いかがかな相模のう・つ・け・ど・の?」
信濃守が『うつけ』という言葉を使うと、再び、各所から殺気らしきものが出てくるが、若武者はそれを手を挙げて止めさせた。
「……その体格でどうしてそこまで俊敏に動けるんだ?」
そして、ひとまず疑問に思ったことを聞いてきた。
確かにこの時代、下手したら現代もそうだが、大柄な人間は棒などを振る時、大振りしやすい。特に戦乱の世では、力に任せて武器を大振りする者も多いからなおさらだろう。
続けざまにさらに聞いてくる。
「それにそれはなんだ?」
「これは旋棍と呼ばれるもんだ。」
信濃守のその言葉に、若武者は目を開く。
「?聞いたことがないな…それはいったい…」
そこまで言ったとき、若武者の背後から人影が現れた。
「来たか重兵衛。」
信濃守と一緒に寄り道をしに来た重兵衛であった。
「殿、この男の手のモノらしき者たちが周辺に伏せておりましたゆえ、先ほど全員、気絶させました。」
若武者はそれを聞き顔を蒼白させる。
「御苦労。重兵衛、お主はさきに小田原に向え。俺はこの男と話しながら向かうゆえにな。」
「御意。」
重兵衛はそう言って道を疾駆ともいうべき速度でかけていった。
「お前はいったい何者だ?関東一の風魔を軽々と熨してしまうような忍を共に連れているとは…?」
若武者はそう言って信濃守を見る。信濃守も今の一言でこの若武者が誰かを確信した。
「ようやくぼろを出したか。」
若武者はそう言って言質を取られたことに気付いた。
「ふふっ、気にしねぇよ。俺は旅の浪人、山口信濃守と名乗っている。若き獅子よ、名乗ってもらいたいと思うが如何?」
若武者は頷いて、名乗った。
「おれは、相模の武士…新九郎だ。親しきものはそう呼ぶ。」
若武者こと、新九郎はそう答えた。
「それとすまんが、少々離れててくれるか?」
何をするかだいたいわかった信濃守は、気にもせずに離れる。
新九郎は、それを見計らうと、道脇の草むらに何かをしていた、
おそらく気絶している風魔衆に何か言っているのだろう。
しばらくして新九郎が近づいてきた。
「お待たせした、信濃殿。」
新九郎はそう言うと、若者らしい笑顔でこういった。
「あの忍がいった通りなら、目的地は小田原でしょう。拙者もちょうど小田原の城下へ向かう途中だったのですよ。一緒に行きませんか?」
新九郎はいうや否や、自身の愛馬に騎乗し、馬首を小田原への路に向けた。
「構いませんよ。…しかし、いいのですかな?風魔衆は明らかにおたくの護衛でしょう?」
信濃守はそう言って草むらの方を見る、流石は風魔忍者とでもいうべきか。気配は微塵も感じなかった。
「大丈夫です、彼らは貴方と一緒なら無事につくだろうと、言羽化のように方々《ほうぼう》に向かいました。」
新九郎はそう言って、馬と共にサッササッサと進む。
「…。」
なぜ風魔にそう思われたのか不思議でならない信濃守は、この後、無事に武蔵国を通過、伊豆新九郎という若獅子と共に一路、相模国小田原城、関東の雄、北条家の御膝下に向かうのだった。
余談
数日後 相模国小田原城下
そこは北条家施政の恩恵により関東一の街並みであった。
「殿はいつ頃来るかのぅ。」
そう言いながら、信濃守配下の者、特に年寄りたちは主君より預かった旅用の永楽銭で相模湾からとれた魚や箱根などの山麓でとれた幸などで普段はできない酒盛りを楽しんでいるのであった。
後日、信濃守に呆れられた挙句、自分たちの今後の路銀を没収されたのは言うまでもない。
*てつはう…火薬と硫黄を陶器などの入れ物に詰め、さらに鉄片や青銅片などを詰めた炸裂弾。元寇の際、大陸から侵攻してきた元軍が威嚇用に使用した音響兵器が有名。
ちょっとした豆知識
武蔵国は、一国で約112万石ともいわれる石高を有していたと言われている。これは、国の面積的に東北の陸奥国約172万石、出羽国約116万石に次いで3番目の石高である。
仮の話だが、もし江戸に幕府が開かれず、近畿地方での政治体制が続いていたら、東日本全域は、巨大な穀倉地帯へと変わっていただろう。
特に比較的温暖な関東に位置する場所であるから、東北と比べればダントツの米の収穫量を持っていただろう。
そうすれば、東国は食糧供給拠点として、現代にいたるまで活躍していただろう。
大量消費拠点が集中する西日本と、大量生産拠点の東日本。
やはり信長はこの構想が根底にあったというべきだろう。