幕の十 『霧積温泉での遭遇』 天下無双の大剣豪
ブレイク知識
太刀と刀の違いについて
太刀は主に騎馬武者が装備した。馬上からの刺突、斬撃など行いやすくするために、刃の部分を下向きにして装備できるように作られている。また、腰に差す刀と違い、腰の帯に太刀緒と呼ばれる紐を巻きつけることで装備させる。しかし、騎馬階級の兵士は必然的に徒歩階級の兵士よりも少なく、そして高価なものだったので、太刀は後々、江戸時代には太刀を佩く者は減っていきました。
一方、刀は刃を上向きにして、腰に差すだけという簡易な取り付けが可能で、鞘や柄も、装飾品を付けようと思わなければ簡単に(太刀に比べれば)入手できたので、足軽階級の兵士たちが主力の戦国時代にはこちらの方が普及しました。
ここからは私見です。
江戸時代には、刀を装備することが武士であるという特権であり、また明治以降、サーベルや日本刀を身に着けれるということが士官階級の特権であったことから、やはり長い刃物を持つ、ということは日本人にとっては一つの優越感なのかもしれない。
まさに、戦前までの日本は、俗にいう銃社会ならぬ、刀社会であった…のだろう。
上野国 霧積温泉麓
どうやら、信濃守一行を迎え入れた源右衛門たちの集落から見えた煙は、炊き出しの煙などではなく、碓氷峠の外れにある山の湯で知る人ぞ知る温泉、霧積温泉からの湯けむりである。
本来、霧積温泉は江戸時代末期に発見された温泉なのだが、これもなんかの御都合主義というやつなのだろう。
信濃守たちが案内されたのは、その温泉の麓にわずか数軒の農家が佇む寂れた村とも言い難い民家群だった。
「どうぞ。ここをお使いください。少し歩いた山の中腹には村人達や修行者が利用する温泉も湧いてますので。皆様方ご自由にお使いください。」
紹介されたところは、いわば小さな農家の家である。
源右衛門はそう言い、何か仕事があるらしく、足早に出て行った。
「…行ったようだな。」
信濃守は、遠ざかる足音を聞きながら、いまだに立ったままの一行に言った。
「左様ですな。集落は人もあまりいないようで気配はほとんど感じません。」
この中で唯一忍である、重兵衛はそう言って信濃守の方を見る。信濃守は既にある程度警戒を解いたのか、上半身をはだけさせ、太刀も既に外していた。
それを見ていた、太郎丸、次郎丸などの若い衆は信濃守の動きに追随する。
「殿、我々年寄りはこの小屋で少々足を休ませます。殿はほかの者たちと温泉に湯浴みにでも行かれたら如何ですかな?」
鉄平は太刀を外しながら、森次郎、水乃介の方を見やる。すでに二人は、腰を下ろし、水乃介に至っては、すでにうつらうつらと櫂を漕ぎ出していた。
「見ての通り、水乃介はもう寝始めております。拙者らは後ほど、湯に浸かりに行こうと思っております。」
森次郎もそれに追随する。
「分かった。だが、必ず、湯に浸かりに行けよ。…思った以上に俺もだが、みんな臭いぞ。」
信濃守はそう捨て台詞を残し、太郎丸、次郎丸、源之助、おまけに重兵衛を連れて5人で温泉へ向かった。
霧積温泉 脱衣場
ここの温泉は、山の中腹にあるためか、ご丁寧にも脱衣所と、湯冷まし所を兼ねた掘立小屋が建っていた。
信濃守と若者一行は、とりあえず脱衣所に向かう。
「先客がいるようだ。」
信濃守の言葉に反応した、みんなは信濃守の目線の先を見る。
刀や、野太刀などと言った明らかにこの村の人間の物ではないものがあった。
「…殿、おそらくこの近辺の地侍かと思います。」
この近辺と言えば、上野国である。1533年当時、上野国の形式上の支配者は、山内上杉氏、関東管領『上杉憲政』である。
その家臣たちと言えば、あの人物以外にはあまり著名な人物はいない。
・・
「あの男ならば少々厄介だな…重兵衛、念のため棒手裏剣を2,3本持っておいてくれ。ほかの者も何時でも動けるように。」
信濃守の脳裏によぎる人物、あの男。
戦国好きの人にはもう大体予想がつくだろう。
霧積温泉 湯場
そこには、全身に刀傷が目立つ男が二人、一人は信濃守の予期した人物、その二人が酒をちびちび飲みながら入っていた。
「ほぉ、俺ら以外にもこの温泉に湯浴みに来る者がいるのか。どこぞより参った?」
見た目30代前後の男がこちらを見て話しかけてきた。酒がだいぶまわっているのか、それとものぼせてきてるのか、顔が赤い。
「温泉での酒盛りを濁してすまんな。拙者らは信濃より碓氷峠を通ってきたのだ。温泉の湯けむりを見て、少々街道を外れたが、こうして参った次第よ。」
信濃守がそう言って、先陣切って温泉に浸かる。それに太郎丸たちも追随する。
…なかなかいい湯加減だなとか思いながら、顔がにやけてくる。
「左様か。しかし貴君らは見たところ相当若く見えるが?」
もう一人の方が、話しかけてきた。
「若いうちに見聞を広めようと、故郷より出てきた者たちですよ。」
信濃守はいかにも「極楽じゃぁ。」といった顔をしながら答える。
ちなみに今の話はだいたいアドリブで返している言葉で、本当のことは見抜かれていないはず。
「そうかそうか。信濃からわざわざご苦労なことだな。」
…
会話が止まる。太郎丸、次郎丸の兄弟ははじめて温泉に連れてきたためか、なんか遊んでいる。
源之助も先客の内の若い方に酒を勧められ勝手に酒盛りを始めた。
重兵衛は棒手裏剣を隠すためか、首から上以外の部位を湯船に入れていた結果、のぼせていた。
必然と、信濃守はあの男と二人だけとなる。
「…結局、また会ったな信濃守。今回はやめておくが、今度会った時こそ、勝負願いたい。」
男は周りが聞こえないくらい離れていったのを確認して、急に口調が変わる。
「お断りだ、秀綱。いくら世界をぐるぐるぐるぐる繰り返されても剣聖であるお前とはもう戦う気はない。」
秀綱、それは後の戦国の大剣豪『新陰流』伝承者『上泉信綱』と呼ばれる男である。
彼もまた信濃守により運命を少々ゆがめられた存在であった。
秀綱が初めて信濃守に会った場所、そこでは剣術の大会が開かれていた。
まだ無名だった秀綱はそこに参加し、新陰流を全国に流布しようと目論むがそこに…信濃守が現れ、大会で圧勝してしまう。そのために本来広まるはずの新陰流は消えかかってしまった。
まあ、その後幾度かの紆余屈折があり、見事に歴史のねじれから戻った秀綱は、ループの際、信濃守たちとは合流こそしないが信濃守との記憶は残るという不思議な現象に遭っている。
「お前には恨みもあるが、感謝もある。ゆえにこそ、此度こそ成長した俺の実力すべてをかけて山口信濃守という男に、参った、と言わせたいのだ。」
秀綱が信濃守を見つけたら勝負を吹っかけてくるのももはや一つの名物だと以前、誰かが言ってたな。
そう思う信濃守。
「まだ、時期尚早だ。まだ俺たちの動く気はない。」
含みのある言い方で信濃守も返す。
「まだ、か。…そうだな、お前さんが動くのはいつもあいつらの名が広まるころだ。いいだろう。俺もそれまで我慢しよう。」
秀綱はそう言い、飲みすぎて酔いつぶれている相方を担いで湯船から出た。
そして、脱衣所に向かいながら「そう言えば、」と言って、
「貴殿らは、これからどこへ?」
主に信濃守へ視線を向け秀綱は尋ねる。
「まずはこのまま南下して相模へ参ろうかと。」
信濃守も先ほどとは変わり当たり障りない程度に返す。
「左様か。では、道中お気をつけて。」
秀綱は今度こそ、脱衣所に向かって行った。
それから少しして信濃守たちも温泉から出る。
一応、物の紛失等がないか確認し、集落に戻って行った。
集落に戻ると、源右衛門がこちらに向かってきた。
「御武家様、夕餉を用意いたしました、貧しい村ながら村の民達からの峠でのお詫びの印としていただいてください。」
こうして、山口信濃守とその御供達は、村で夜を過ごし、温泉と剣聖、そして集落でのひとときを過ごすのだった。
翌日早朝 上野国霧積温泉
太陽もまだ明けきらない頃、信濃守は、太郎丸、次郎丸を引き連れ、源右衛門に会っていた。
「では…という…手段を…にて後日…が…」
まぁ、内容は大体、分かりやすいのでご想像にお任せします。
なお、数年後、この集落は、賊に襲撃され、壊滅することになる。
用語解説
剣聖…剣術において、極みに達したと言われる存在のこと。