幕の玖 『獅子の影走る上野』 碓氷峠の一悶着
ブレイク知識
村上義清は、信濃国北半分を統一し、村上家最盛期を築いた男である。
また、甲斐の虎、こと武田信玄相手に何度も苦杯を味わせている。彼がもし信玄と敵対していなければ、武田家は多くの有能な部下を失うこともなかったであろうし、上杉謙信との川中島の戦いも起こりようがなかったと考えられる。
村上義清は武田信玄の上洛の野望を事実上、打ち破った男と言えよう。
天文二年(1533年) 夏
上野国 碓氷峠
信濃国を後にし我らが主人公、山口信濃守とその一行は関東と北陸をつなぐ国、上野国に入っていた。
順風満帆に旅を続けていた一行だったが国境の碓氷峠に差し掛かったところで、誰の差し金かはわからないが、やけに統率された盗賊に襲撃されたのである。
流石に敵地で油断はしていなかったが、如何せんわずかな数だった信濃守一行は、苦戦していた。幸いだったのは、向こうが弓矢や礫などの飛び道具を持っていなかったことだろう。統率こそとれている敵だが、如何せん個々の能力ではこちらが凌駕している。
少なくとも高々、数十人程度の数の差は幾多もの時間を生き抜いてきた信濃守たちには、わけもないものだった。
そして、今に至る。
「…つまりはお前らは食い扶持をのために、俺らを捕えてを金目のもんを掻っ攫おうとしたってわけだ。」
あのあと何があったかは、…ご想像にお任せする。
確かなのは、盗賊の頭目らしき男がほかの仲間たちと同様、御縄にされていることだ。
…いたるところに痣やら、腫物ができている。今は信濃守と重兵衛によって尋問されている。
「…そうです。俺たちゃあ、この峠を通る商人や御侍様方を襲ってるんだ。」
頭目以外の連中は結構派手にのしちまったせいか、みんな気絶している。頭目の男は話を続ける。
「俺たちゃ最近起きた戦で滅びた家に徴兵された農民でさ。だけども、村に帰ると領主様が変わってて、その新しい領主様は俺たちが敵についてた連中てことを知っとったようで、村へ入ることを許さんかったんだ。それどころか見張りの足軽たちは槍さえ向けてきた。だからやむなくこんなところで追剥紛いなことしてるんでさ。爪弾きされたとき、村にいたみんなの家族たちもなんだかんだで八分されて、追い出されたんだ。だからこの峠の近くに隠れて住んでるんだ。」
頭目の言葉に嘘偽りを臭わせるような感じはなかった。むしろどことなく、助けを求めてる、そんな気配すら感じた。
「少し前までは、100人ぐらい仲間がいたんだけどもやっぱり、にわか武術で御武家様相手に挑んだツケで、仲間も今やここまで減っちまった。」
頭目はそう言って俯く。100人前後の農民がいたということは結構大規模な村落であったのだろう。
しかし、その新しい領主とやらも結構、暗愚なやつであるようだ。これだけの人数を放逐したまま、しかもほったらかしにしているとは。そう思う信濃守。ここ最近のループでは、自分の領内にはこういった者たちは存在しなかった。しかし彼のループの始めのころは、むしろこういった者たちこそ信濃守軍の主力であった。今の彼に従う家来、兵士たちの中にもそう言ったことを生業にしている者もいた。
この場にいる仲間にも何人かいるがそれはまたの機会に…
「…なるほどな…。しかし、この峠、言うところの碓氷峠は信濃と上野を繋ぐ峠道。とはいえ山々に囲まれていて、普段から商人や物持(*)の往来の多い道ではない。越後に向かうなら利根郡から坂戸に向かうを行くだろうしな。北信濃に向かうにも越後経由で行くか、あるいは…。こんなとこは、それこそ在郷の地侍が通るくらいじゃないのか?」
信濃守の言うことはもっともである。こんな峠道、しかもはっきり言って痩せこけた土地を往来するような物好きは滅多にいないだろう。この辺には後に、松井田城という城が築城され、その頃から開発され始める。数十年先の武田家や北条家の傘下にであればまた違っただろうが、残念ながら今、この上野は、関東をまとめる室町幕府の機関、『鎌倉府(*)』の関東管領家である山内上杉家、『上杉憲政』の領国であった。
山内上杉家は隆盛期には上野国以外にも、越後国、伊豆国を領していたが、越後を守護代であった長尾家に奪われ、また伊豆も北条早雲によって奪取された。そのため山内上杉家は残る上野の支配を盤石にするために、少しでも謀反の気配がある地侍達を掃討しているのだろう。
なぜ、そんなことを知っているかと言えば簡単な話で、このルートは以前のループで通ったことがあり、その時に襲撃してきた上杉家のある男からから聞いたことだからである。今回のループではその時期からそう離れてないので今回もおそらくそんな事情であろう。
「…あの~、お侍様?」
信濃守が黙りこくったので、頭目はいろいろ、悲劇の想像を始めてしまった。
というのも、実は信濃守自身は知らないのだが、彼の逸話がいたるところで噂となって有名になっている。なぜなら、半年前に起こった村上家と真田家の戦で介入したことを誰とは言わないが漏らしてしまったようで隣国である上野にもその噂はなびいていた。
まあ、しょうもない噂だ。 「信濃に鬼の集団が現れた」 というだけ。
もちろん、山口家の忍頭領の重兵衛が知らないはずはないが、信濃守に言ったところで…なのであえて言ってない。
ここは信濃と上野の境目、当然この噂は届いている。むしろこの辺だと実際の戦場に近いあたりだから噂が一回りして大げさになっている可能性もある。
この頭目が、嫌な汗をかき始めたのもそのためだろう。
さらに信濃守が黙っていると、頭目はなぜか大声でわめき始めた。
「…申し訳ありません!拙者らも必死なんです!!毎日食い扶持稼ぐのにやむなくこんなことしているのです!ここはどうか俺の命だけでお許しください!!」
急に喚きだした頭目をいぶかしみ、重兵衛が信濃守を見ると、
「……」
普段、喜怒哀楽の表情が比較的激しい信濃守が、無表情でいた。重兵衛は信濃守が無表情でいる、それは何かが噴き出しそうなくらい激昂している時だ。
「…安心せよ、なにもお前さんをどうしようとかそういうのでこんなことになってるわけではない。」
無表情の信濃守に代わって重兵衛が頭目を諭す。言い忘れてたがほかの家臣たちは気絶して動けない連中を見張っている。
「…頭目、名は?」
信濃守がようやく口を開く。その顔には何かを思いついた感じがうかがえた。
「はい!?」
そんな声を出した頭目は重兵衛の言葉を聞いて少し落ち着いた様子だったが、信濃守が名を聞いて、本能的に反応してしまった。
「名を聞いたのだ。別に取って食おうとはせん。お前、なんて呼ばれてんだ?」
信濃守はもう一度言う、その声色は先ほどまでのような殺伐とした気配を感じさせない。
「…俺は『源右衛門』って言います。」
源右衛門の名乗りを聞いて、信濃守も答える。
「俺は、山口信濃守。とりあえずこいつらのこともあるし、お主達の住処に着いて行っていいか?」
そう言って信濃守は気がつきはじめた源右衛門の仲間たちと、馬の世話を始めた太郎丸たちの方を指さす。
「分かりやした。俺らの住処んとこに来てください。」
そう言って頭目こと源右衛門はその後、気絶した者たちを起こし、信濃守一行を自分の住処に連れて行くのだった。
信濃守たちが源右衛門に着いて行った、少し後に碓氷峠にて数人の男が現れる。
「…あれが噂の鬼か…。確かに人とは思えないデカさの男だった。」
一人の男が口を開く。
「如何にも、あの体躯では鬼と間違われるのも無理はない。あの体躯と贅力に任せた戦い方からあのように鬼とでも言われたのだろう。所詮は猪武者の枠を出ん。御館様に伝えることもあるまい。大して心配することはなかろう。」
そう言って男たちは闇に消えていった。はたして、彼らの思った通りの結末が来るのか、それとも違った結末があるのか。この時はまだ誰もわからないのだった。
源右衛門に導かれ、上野国境、碓氷峠の近くにある彼らの仮集落に向かっている信濃守は、今後の予定修正の旨を太郎丸と重兵衛に伝えていた。
「…ということは、つまりあの者は本来は我が父上の弟分であったと?」
太郎丸は驚愕しながらその事実を噛みしめる。実は源右衛門は、信濃守の幾度となく繰り返されてきたループによって本来の生活を捻じ曲げられたNPCの一人であった。彼は本来であれば上野にいることはなく、信濃を挟んで西の飛騨にいたのだ。
おそらく彼は、信濃守の影響を受け、飛騨にいた太郎丸一家が信濃守に仕えるようになったため、その後の多少の修正の結果だろう。源右衛門は当然ながら太郎丸のことを知っているはずもない。
太郎丸は『山口信濃守』という人物が本来、実在しない存在というのは信濃守についていくと決めたときに知っている。ほかの者たち、もちろん『縣衆』の者たちも信濃守の正体は知っている。
太郎丸がいろいろ思案しながら歩いていると、源右衛門の足が止まっていた。まだ集落らしき影はないが、先の方角から、炊き出しの煙が出ているのでそこなのだろう。
「皆様、あそこが我々の住処です。」
用語解説
物持…現代でいう金持ちのこと。当時は貨幣などの金銭の普及率は低かったので、物をたくさん持っていた人間が当時の富裕層たちであった。
例:寺社の仏僧や豪農など。
鎌倉府…鎌倉幕府でいう六波羅探題的なもの。この時期は、古河と堀越という地に分裂して鎌倉府があった。上杉憲政は古河公方が主である…一応。