幕の壱 “戦国で生きる”、天下を相手に大ゲンカ、
天正20年(1592年)
ずいぶんと長い時間を過ごした気がする。
彼は大勢の人でひしめく和室でふと、ひとりごとのように呟く。その風貌には一切の皺もなく、肌も瑞々しい。一見すれば青年そのものだ。身なりもいかにも君主らしき甲冑を身に着け、陣羽織をまとい、腰には大将にふさわしく太刀が据えられていた。
今は城内にこもり軍議の最中である。
軍議は幾度もしてきた。
この男が大会の覇者となり、現実に戻れなくなって、すでに数百年以上…。
現実では何年経っているか。
…わかるはずもない。
実際、意識は死と共に失うことはよくある。しかし意識が戻ると、つまりリセットされると、必ずある場所にいるからである。
つまり、ゲームオーバーということである。
もとに戻れないとわかって2度目のプレイ時は、自身の記憶に焼き付いている。かつて共に戦ったはずのNPC達には初対面の態度をとられた。
…覚えててもらえない。
孤独に打ちひしがれ、わざと流れ矢を受けてゲームオーバーした…が、このゲームは意外とご都合主義というか、3度目のプレイ時には、なぜか親しかったNPC達には知られていた。
やはり、人との会話というのは大事だと彼も再確認した時であったのは言うまでもない。
さて、今回は何度目のプレイなのだろうか…。
一つだけ確かなのは今回の状況では自分自身が天下人となったわけではないということだけだ。
我が名は“山口信濃守”。諱は大分前から名乗らないようにしている。
今回のプレイは、俺にとっては2度目の関白豊臣政権である。
天正18年(1590年)、関白となった“豊臣秀吉”は相模国小田原城を落城させ、関東の雄“北条氏”を滅ぼし天下統一を果たした。
そして翌年の同19年、彼は朝鮮出兵を行うことを宣言する。
ここまでは史実とそう変わらないだろう。
しかし、この宣言には反対意見が多く、特に東国に領地を持つ大名たちはこぞって反対した。
その筆頭とも言えるのが関東へ国替えとなった“徳川家康”。
それにもう一人。
奥州の動乱などで大幅に領地を削られた“伊達政宗”である。
今回のプレーでは、俺は特に東国大名との関係を良好にしていた。
そんな背景も相まり、京都の聚楽第にある徳川屋敷における徳川・伊達・そして俺の算段により、“山口信濃守”は突如、本拠地、信濃国“長野城”に帰還した。
名実ともに天下人となった秀吉は、激怒した。
「今更、天下に仇名す輩が出ようとは‼」と。
秀吉は、これを唐入りの前哨戦と称し、天正19年、つまり1591年、朝鮮侵攻軍の大将に任じられた“宇喜多秀家”を中心とする部隊およそ16万の大軍を美濃国“大垣城”と尾張国“清州城”に送り込んだ。
また、並行して越後の“上杉景勝”と加賀の“前田利家”にも出兵を命じ、合計20万以上にも及ぶ大軍が信濃を取り囲んだのだ。
たかが信濃国一ヶ国に20万…、まぁいいか。
当初は当方側の支城をあえて解体したりわかりやすく焼き払ったりしたことでだれが見ても此方側のは数日で降伏すると思っていたようだ。
だが経験則から考えた山口流焦土作戦によって、五分五分の戦いをしてみせた。
特に木曽路より信州に向かっていた宇喜多軍には2ヶ月以上、山道で足止めを喰ってもらったうえに、豊臣軍きっての猛将“加藤清正”、“福島正則”を重傷に追い込み、“黒田官兵衛”、“黒田長政”親子の策による偽装離脱によって陣営をかく乱。
さらに当家自慢の部隊による会戦で“小西行長”を討ち取るなど、秀吉の予想以上に大きな被害が出させてもらった。
木曽路における苦戦は、大した被害もなく信濃国境の飯山城を攻略した北陸道の部隊達にとってはあまりの惨憺たる結果なうえ合流見込みは低いことによる補給の苦慮などでに士気は次第に落ちていった。
意外な豊臣軍の劣勢に秀吉自身も焦った。
援軍として弟の“豊臣秀長”を中心に、5万の軍勢を遠江国“浜松城”に送る。
「このままではまずい!これ以上の戦況悪化はようやく従った各地の諸将達に独立の機会を持たせてしまう」
そう考えた秀吉は最大の大名である徳川家を除いた東国の大名たちにも出兵を命じる。
しかし、東北大名の筆頭格である“伊達政宗”は
「東北仕置の際に改易した大名たちの一揆の鎮圧に忙しい」
といって、出兵を拒否。
また同じく東北有数の大名である“最上義光”、“津軽為信”も別の場所での一揆鎮圧で参陣が困難な状況であった。
…とはいえ、東国有数の織豊系大名である会津の“蒲生秀郷”2万、常陸の“佐竹義宣”1万が東方から進軍することを予期して山口軍はジリジリと包囲され、仕方なく籠城策をとったように見せかけたのだった。
ここでようやく軍議に戻るとしよう。
「敵はおおよそ30万。北は上杉、前田の北陸勢6万、いまは飯山城跡に陣を敷いております。東は佐竹、蒲生の東国勢3万、こちらは中立となった真田親子に上田領にて翻弄され当領内にすら来れてない模様。西には依然として宇喜多率いる本隊16万。しかしながら槍働き著しかった、加藤主計頭殿、福島左衛門尉殿は大阪にて療養中とのこと。その他多くの指揮官が一時的に戦線を離脱しており、現状、指揮を執っているのはその将たちの家臣たちか若輩者。柔軟な対応ができるものも多くないため、宇喜多殿本人は美濃国岐阜城にて命じているようです。そして南には豊臣家援軍5万。大将ですが、総大将は西の宇喜多秀家、北は前田利家、東は蒲生秀郷、南は豊臣秀長。現状、全軍ともですが我が軍との戦闘によって負傷した者たちの救出に力を注いでおります。また、城内に忍び込んでいた間者、忍びの類は本日までに約5000以上を討ち取っております。」
敵の状況を報告するのは、山口家の忍頭“滋賀重兵衛”。
信州伊那の生まれで山口家に仕える忍たちの総大将である。
「うむ、しかし、よくたかが信州一国しか領していない当家相手に北条攻め以上の兵を出したな。そこまで唐(明国)が欲しいか。」
返事をしたのは当主、信濃守。
「左様のようですな。一方の我が軍は、籠城の際に領内に散開していた常備兵が合わせて約5万、それに加え、大阪や京都で召し抱えたことにしている浪人などがが6万、志願してきた領民兵が1万と、計12万ですか。よく当家単独で10万もの兵をかき集められましたな。」
そういってこちらに話すのは、筆頭家老“富山智鉄”である。
その他の家老衆をはじめ、今いる家臣の大半は彼がゲームを何度も生き続ける中で作り上げていった、オリジナル…つまり架空の武将たちである。
中には、史実ではすでに生きていないことになっている名のある武将のなかにも、オリジナルのキャラとして存在している者もいる。
「上方で集まった浪人衆が意外に多かっただけのことです。拙者も当初は驚きました。それだけ豊臣家が浪人を生んでしまった…。浪人の大半は九州や東北で改易された大名家の家来。放っておけば後々厄介になっていたであろう火種だ。」
智鉄の言った言葉に反応し、浪人について話したのは大阪屋敷詰めであった『石川之行』、その他にもたくさんの武将たちが、甲冑を身に着け、本丸の広間に集まっていた。その中でも異彩を放つのがこの二人。
「天下相手の大ゲンカだ!いくさ人の血が騒ぐぜえ!信濃殿(信濃守)、拙者は籠城なんてまっぴらだ!負け戦こそいくさ人にとっての華道さ!ぜひ、遊撃軍として城外にふせさせてくれ!」
「然り!野戦こそ勝機の道。拙者も慶次殿とともに。」
上方から集まった浪人たちの中でも筆頭格の存在『前田慶次朗利益』と『可児才蔵吉長』である。このほか、浪人たちの中には北条家の残党『大道寺政繁』、織田旧臣『佐々成政』(史実:1588年切腹)、『河尻秀隆』(史実:1582年討死)なども参戦していた。
「まあまあ、前田殿も可児殿も落ち着いて。もちろん籠城なんてしません、援軍も期待できないのに籠城なんて言うのは下策も下策です。我ら浪人衆は、これより長野城より出撃し、西の総大将、宇喜多秀家を討ちに行きます。」
「…うむ。頼みましたぞ。日向殿。」
そして浪人衆のなかでも、最も当時有名な人物は、『明智日向守光秀』であろう。今回のゲームでは光秀は山崎の合戦に敗北したのちに、坂本城に落ち延び、当時信濃統一に尽力していた山口家からの申し出により琵琶湖からの脱出後に一族郎党そろって仕官したのだった。
「…いえ、主君殺しの汚名を背負った拙者をはじめ主従一同匿っていただいておりながら、今まで恩も返せず、憂いておりました。平穏な世のためにも此度の戦で時を稼ぎ、秀吉殿の唐入りを遅れさせねば。では、参ります。」
今回の信濃籠城はあくまでも時間稼ぎであった。こうしていれば、天下の豊臣家に完全に従属しきっていない大名家内にも「なぜ豊臣軍はたかが信濃一国落とせない。」、「これでは朝鮮出兵は無駄足ではないか」という声が出てくるだろう。そう考えてのことである。
「しかし伊達殿や徳川殿に利用されよう日が来るとはな、まあ俺は天下に興味はないし、今回のプレーこのままじゃ多分、この戦の責任追及で切腹がいいとこだろ。つまらねえ、戦国で生きると決めたからにゃあ、戦場こそ俺の死に場所、俺らも出撃すんぞ。縣衆、ついてこい。死に出の旅じゃあ。…じゃあな家老衆、また次の世界で会おう。」
「「はっ!」」
こうして信濃守は何度目になるかわからない戦場に向かうのだった。