人は見たいものしか見ない。そして、読者は読みたいものしか、読まない
「読もう」でランキングされているファンタジー郡を読み漁っている時に感じた事なんですが、読者はその小説が与えてくれるものに敏感なんだという事。
私は基本的に小説を読むときにおいてエンタメ性以上にテーマ性を求めているのですけど、無数にあるエンタメ小説郡をひたすら読んでいた時、正直、テーマ性などどうでもよくなってきた状態になった事がありました。「物凄く面白くなくてもいい!感動なんて求めない!せめて楽しめるもの、不愉快にならないものでさえあってくれれば!」と・・・。その瞬間、「小説を消費として読むという事が、どういう意味なのか?」という事を感覚的にですが理解できた気がしました。
この感覚は実は凄く重要で、秀作といわれる小説ばかりを選択して読んでいると、そこにある良し悪しの取捨選択というものが、テーマの扱いや文章から響く素晴らしいイメージというものに、どうしても囚われてしまうからです。
しかし、秀作ではなく、むしろ習作というべき作品群を読んでいると、「読み続けるかどうか」という閾のラインは、まず「その作品が不愉快でないかどうか」、次に「その作品を読んでいて気持ちが良いかどうか」となる。
そんなの当たり前だろ!といわれるかもしれませんが、そうじゃないんです。
どんなに文章が大雑把でも、どんなに内容がありきたりでも、どこかで見たような内容でも、その二つが達成(維持)されていれば、読者は読み続ける事に大きな抵抗を感じなくなる・・・という事なんです。
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秀作といわれる作品は「読者が見たくない景色」でさえ説得力をもって納得させる。そこにおいて必然的にテーマが絡む(無意味に不快な文章を提示しようとする作家は殆どいないだろう)。
そこにおいて、作品を読んで感動した読者はテーマが素晴らしいから感動していると感じてしまう。もちろん、、そうなのですが、しかしその内実はテーマという食材以上に、その料理の手腕が良いことに尽きる。読者のテーマに対する勘違いがそこに生まれやすいと思う。実は読者が感動する本質は単純なほどに作家性そのものに依存する。
それは何を意味するかというと、読者が見たくない景色を、見たい景色にするという事。それは見たくない景色に魅力的な一面を見出す作家の視点であり、その視点を支えている深い洞察や作家自身の背景なのだと思う。
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小説を読むという事は、ある意味、「何かしらの期待感」をもった上での作業だと思います。そこにおいて「喜びを見出す」行為だと思う。
……そこにおいて、内容は“ある意味”、二の次、三の次になる。
「不快にならないもの」、「気持ちのよくなれるもの」、それを満たす何かしらを読みたいと、読者は無意識に求めるのだと思う。そこにおいて、内容などどうでも良い、むしろ無い方が良い場合だってある。それは言葉通りの意味ではなく、内容の充実を計った為、上記の2つのコントロールが難しくなり阻害されるなら、そんなのは余計で蛇足だと感じるという事。
(ここにおける「不快」や「気持ちよさ」は、物語に流れるリズムを壊したり深めたりという意味。物語をより音楽に例えるなら、それが「ノイズ」なのか「ハーモニー」なのかと考えるといいかもしれない)
習作というべき作品の、特にメッセージ性の高い作品において、どうしても読み続ける事が困難になる原因はそこにあるのかなと感じました。しかし、その場合、メッセージ性そのものが問われやすい為、読者の論評や評論において勘違いが起きる。つまりメッセージに対する論理的な批判です。
それに対応する為にメッセージを論理武装すると、さらに大きな問題が生じる。何故なら、小説は論文じゃない為、メッセージに対しての論理(理屈)はむしろ読者の反感を買う可能性が高いからです。
※ つまり、、あるメッセージに対しての賛否はそれぞれの「読者の背景」にどうしても依存するからです。だから、そうじゃなく、「そのメッセージが生まれるまでの背景」をドラマによって構築し、感情(体験)として理解(経験)させる必要がある、つまりそれが小説における説得力となるのだと思う。
そこにおいて「主人公に対する読者の感情移入の重要性」は決定的になり「説得力」そのものとなるのだと思う。
逆にいえば、その背景の構築そのものを描くのが面倒であるのならば、そのメッセージはそこまで必要でないと言えるわけで、わざわざ読者に読ませる必要がないとも言える。
人は見たいものを見る。読みたいものを読む。見たくないものを見せようとする時、読みたくないというものを読ませようとする時、そこに説得力が必要となる。
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これは「テンプレ的作品に、何故、人が群がるか?」という説明にもなる。ヒーローを見たい。無双を感じたい。恋愛やそこにおける快楽を感じたい。幸福感を感じたい。生きている実感をポジティブに感じたい。そこには人々の期待をある程度保証した形がある。
読者が最初に求めるのは、リアリティでもないし、感動でもない、その部分。だから、そこにおいて読み手は「嘘」だとわかっていながら騙されるし、リアリティが無くてもスルーできるんです。
これが「消費としての快楽」となる。これは「せめて消費でもいいから、楽しみを与えてくれ」という事そのものであって、消費の肯定ではない事が重要だと思います。本当は感動したい、けど、「心に残るものであるならば最高だけど、でも、そうじゃなくても、楽しめるならいいよ」、という事だと思う。
無数にある「読もう」小説郡の中で、大きな期待感でなくても読み続けて楽しめる作品が数多くある事に気づいた時、「ほとんど同じ様な内容なのに、読むのが辛い作品」との検証において、「あぁ、私はこのメッセージが嫌いなんだな、それを読みたくないんだな」という部分が致命的になっている事を実感しました。と、同時に似たようなメッセージがあるにも関わらず、むしろ感動した作品の存在を考えた時、それがどういう事か?と考えました。
今回、「読者とはなんだろう?」「作品を読むという事はなんだろう?」という意味において考察してみました。何かしらの参考になれば幸いです。