序
その国ではこう伝えられている――
「藤咲くころに、オコウ来りて、古き世は果てなん」と。
最初の揺れは、何の前触れもなく訪れた。
初めは、地の底から響くような低い唸りだった。遠雷かと思うほどかすかな音。しかし次の瞬間、大地は激しく跳ね上がった。
村は一瞬で混乱に呑まれた。子どもたちは泣き叫び、土器は棚から落ちて砕け散る。犬は狂ったように吠え立て、森では鳥が一斉に飛び立った。男たちは足を踏ん張り、女たちは子どもを抱いて山へ祈りを捧げる。
チカトもまた足元をすくわれ、納屋の柱に手をついてようやく体勢を保った。
鬱蒼と茂る太古の森さえ、大地とともに震えているように見えた。
だが、揺れは始まった時と同じように、突然止んだ。
谷を支配したのは不気味な静寂。鳥も虫も、風さえも息を潜めている。
その静けさを破るように、慌ただしい足音が響く。
コダマヒコだった。
息を切らし、血の気を失った顔で広場へ駆け込む。
「チカトの姉貴!」
叫ぶ声は震えていた。
「土地神の神籬が…! 御柱が……!」
蒼白な顔で叫ぶ少年に従い、チカトたちは神聖な杜へ足を踏み入れた。
神籬そのものには何一つ変わった様子はない。
ただ――それを囲む四つの柱だけが、ことごとく地に横たわっていた。
折れても腐ってもいない。根元から崩れるように倒れているのだ。
「あの揺れで……?」
人々の呟きを遮るように、誰かが叫んだ。
「空を見ろ!」
人々は一斉に天を仰いだ。
西の空は、まるで血を流したような深紅に染まっていた。
その空を、一筋の彗星が燃えながら横切っていく。
長く尾を引くその姿は、天を裂く剣のようだった。
どよめく人々の中、チカトの祖母が重い声で語りだした。
「予言の通りじゃ……『藤咲くころに、オコウ来る。地は震え、天は血に染まり、古き世は果てなん』」
その名を聞いた瞬間、村人たちの表情が凍りついた。
神使。
この地では、遠き高天原の神々が遣わす使者をそう呼ぶ。
その姿は、一つの時代の終わりを告げるものとされた。
天より降りた彼らは、古きものを払い、新たな世を開く存在とも、また地上を裁く滅びの使いとも恐れられた。
人々が動揺する中、チカトは倒れた柱を一本ずつ静かに確かめていた。
胸を突く違和感。そして、息を呑む。
「……そんな」
柱はすべて、神籬を中心にして綺麗に「外側」へ倒れていた。
自然の力では起こり得ない。まるで神域そのものが、何かを迎え入れるために道を開いたかのようだった。
チカトの胸に、冷たい予感が広がる。
古き時代より恐れられてきた兆しが、すべて揃ってしまったのだ。
――オコウが来る。
大地は見ていた。
ただ静かに、その時を待っていた。




