妻として死なせて
――そうですか。
夫が、自供したのですね。
だからこんな書類をわたくしに見せるのですか。
モラレス子爵夫人として、12年に渡り多くの書類を決裁して参りました。けれど、これほどバカげていて、謂われなく、不必要な書類は初めて目にいたしました。
いいえ。お断りいたします。署名いたしません。
なぜって……わたくしが署名したら、書類が完成してしまうではないですか。そうすると、効力が発生してしまう。
しかるべきところに提出され、受理されてしまう。
なぜわたくしが、そんなことをすると思われるのですか?
ええ、そうです。12年間、わたくしたちは白い結婚でした。それがどうしたと言うのです。たとえ触れ合うことがなくとも、わたくしたちは夫婦です。
……減刑? わたくしに? なぜ?
必要ありません。わたくしは夫とともに裁かれます。わたくしと夫は、同じ罪状でございましょう?
情状酌量……あら、いやだ。
そう。白い結婚はわたくしを哀れな女とするのにちょうどいいのですね。
だから離婚届ですか? ……夫の署名入りの。うふふ。あの方、本当にわたくしのことを考えてくださっているのね。
うれしいわ。
あら、ごめんなさい。涙が止まらないわ。
初めてもらいましたの。夫から、こんな素敵な恋文を。
前言を撤回いたします。こちらの書類は、どの叙情詩もこれを凌ぐことはできない、美しい、かけがえのない書類です。
だから、夫にお伝えくださいましね。わたくしは署名しなかったと。
それだけで、わたくしの気持ちも伝わります。
……おわかりにならないのねえ。
わたくしは、モラレス夫人として、夫とともに死にたいのです。
――お尋ねしてもよろしゅうございますか。あの子はどうしていますか。
はい。この6年、わたくしと夫が我が子と偽って育ててきた、あの子です。
……そう。実のご両親の元に。
そう。
……そう。
本当に、我が子と思って、慈しんで参りました。まだ、わかっていないでしょう? なにが起こったか。
そうね、大きくなって、この状況を理解したときに。
わたくしたちの愛は、決して紛いものではなかったと。
そう思ってほしいと……願うのは、傲慢ですわね。
お願いします。もうひとつ書類があるでしょう。そちらに署名させてくださいな。
そうです。わたくしが、わたくしの罪を認める書類です。
6年前のあの日、生まれたばかりのあの子を、地方の産院から拐いました。夫は民間の医師の姿を気取って。わたくしは、市井の産み月間近の妊婦を装って。
騒ぎに乗じて連れて逃げようとしたのです。それで起こした小火が、まさかあそこまで延焼してしまうとは、思いもしませんでした。
お怪我をなさった方もいらっしゃいましたね。当時、治療費を匿名で送らせていただきましたけれども、もちろんそれで償いになったとは考えておりません。
その地域にはずっと地方交付金を出して来ました。なけなしの良心を慰めるために。愚かですわね。
なぜ自分たちで、って……だれを巻き込むことができましょう? わたくしたち夫婦の罪に。使用人を? どうして? わたくしたちが望んだことなのに。
わたくしたちは、いずれこうして露見したときに、わたくしたち以外が裁きを受けることを望みませんでした。
――そうです。これらのことが露見しなければ、わたくしたちは、あの子をモラレス子爵家の正当な後継者として立てるつもりでおりました。
ですので、これは貴き血の正統性を揺るがす犯罪です。わたくしたち夫婦は、青き血を穢そうとしました。
帝国法に則り、極刑ですわね。存じております。
そうわかっていて……どうして、だれか他の人を頼れますか。
あの子が……わたくしたちをわすれて、幸せになれればいいのですが。
なぜ養子を取らなかったかと? そうですね。ある意味夫の矜持のためであり……なによりも、わたくしのためでした。たのしい話ではありません。
そう。それでも聞かねばならないのですか。お仕事、大変ですわね。
どこから話しましょうか。わたくしが夫の元へ嫁いだときから? 白い結婚だけれど、義両親から子を望まれ続けて辛かったこと?
夫が不能で……そのゆえにわたくしも、他の女性も抱けずに、子を見込めないことを、わたくし以外だれも知らなかったこと?
……何度泣きながら詰ったかわかりません。胤をちょうだい、わたくしを母にしてちょうだい、と。
もちろん、無理でしたけれども。
だれよりも辛くて、だれよりも悲しかったのは、夫だと思うのです。
わたくしが、一晩中泣き明かして、夫を責めて、疲れ切って眠ってしまったときも。
ずっと朝まで抱き締めていてくださいました。
わたくしが眠っている間、夫もまた、泣いていたことを知っています。
「ごめんな」
ひとこと、そう言ってくださったとき。
わたくし、この人の荷を負おうと決めたのです。
それからは、不思議なことでした。
夫はわたくしを抱きませんでしたし、夫以外の男性に身を委ねるなど考えられもしなかったわたくしは、今でも乙女です。
それなのに。
だんだん、食が細くなって参りました。
微熱が続き、胸が張り、それに女の常のものもなくなりました。
そのうちに吐き気を覚えて食事ができなくなったのです。
とても不思議なことでした。
そして、自室で嘔吐を繰り返していたときに、耳聡い義理の母が駆けつけ、宣言しました。
「当家の嫁が、やっと後継を孕んだわ」
と。
夫と結婚して、5年が経過しておりました。
わたくしは絶対安静の元に置かれました。
夫はそのとき、ちらりともわたくしの不貞を疑いませんでした。ただ、秘密裡に多くの医者を尋ね、わたくしと同じ症状の前例を探して回っていたようです。
その結果、強い思い込みで妊娠症状を抱える女性の症例を持ち帰って来ました。
でも、もうそのときには、わたくしは多くの願望から、自分が本当に妊娠していると思いこんでしまっていたのです。
諭されても、宥められても、どれだけ機序よく説明されても、夫の言葉を理解できませんでした。
自分は夫の子を孕んでいると、信じて疑いませんでした。
初めて、夫はわたくしが眠っていないときに、泣きました。そして椅子に座るわたくしの膝にすがり、何度も何度も、謝罪の言葉を述べました。
そこまで追い詰めてしまってごめん、と。
自分が臆病であるがために、ただひとり苦しませてしまって、ごめん、と。
夫は、嫡男の自分に大きな期待をかける両親や、社交界からの評判を失うことを過度に恐れていました。しかたのないことだと思います。本当に立派な男性なのですもの。
それに、努力家でもありました。じつを言うと、夫は決して能力が秀でているわけではない。自分でも、自身を凡庸だとよく述べていました。だからこそ、多くのたゆみない時間をかけて研鑽を積み、不足を補って来た方なのです。
眠る時間すら惜しんで、家や領民のために働いていました。領内を駆けずり回るだけでなく、本当は苦手な他領との交渉事も積極的に行って。それはきっと、夫の体調にも影響したことでしょう。
わたくし、それを知っていました。
そして、そんな夫を心から慕い、尊敬して参りました。
不思議なことにわたくしのお腹は、本当に妊娠したように膨らんで行き、胎動を感じることさえありました。
お腹を蹴られることさえ。懐かしいわ。……幻覚だとしても。
けれど、夫はわかっていました。子どもが、なにかが、産まれるわけではないことを。
追い詰められたのは、わたくしではありません。
だれよりも、夫です。
空気の良い田舎町で『産む』計画を立てました。幸いと言っていいものか、手放されたばかりの手入れされた小さなお屋敷がみつかりました。
そこへ、産婆経験があるというこじつけの理由だけで、モラレス子爵家に古くから仕えている老婦人を、その夫とともに伴って参りました。
当時その老夫婦は、もうすでに耳が遠くなっていて、目も悪く、ときおり記憶の混濁が見られました。けれどちゃんと仕事をこなす上で信頼と実績がありました。なので、わたくしたちの計画に、好都合だったのです。
もちろん、反対されました。でも、押し切りました。だれにも騒ぎ立てられずに、静かに産みたいのだと。初産のわたくしが疲れ果てないためにもそうすべきだ、と強弁して。
その代わり、産んだらすぐに戻ると。
あとは……ご存じの通りです。
子育ては……たくさん悩ましいこともございましたけれど、なにもかもがうれしく、たのしく、幸せでした。
本当のご両親から、その喜びを奪ってしまったことを、心から申し訳なく思っております。夫とわたくしが幸せであった分、きっと苦しんで来られたことでしょう。
……あの子のご両親は、どんな方ですか? あの子はどんな風に受け入れられましたか?
――そうですか、よかった。
ずっと、探しておられたのですね。泣いて、よろこんで、迎え入れて。……それを聞けて、ようございました。思い残すことはございません。
受けいれてもらえるとは思いませんが。どうか、謝罪を伝えてはいただけませんか。本当に、申し訳ありませんでした、と。
なにかあったときのために、あの子の名前で積み立てをしております。モラレス子爵家はこれで取り潰しになるでしょうが、モラレスとは関係のない資金です。成人のときにあの子へ開示されるよう、代理人を立てております。
もうきっと、本来の名前で呼ばれているのでしょうね。それでも、わたくしたちの思うあの子の名前で、遺すことを許してくださいませ。
結局、わすれて幸せになってほしいと言いながら、心の中では覚えていてほしいと願っているのでしょう。
愚かですね。わたくしたちは。
夫とわたくしに、あんなにたくさんの幸福をくれました。本当に、幸せな6年でした。どうかこの後の人生も、あの子が、あの子らしく生きて行けますように。
――すべてお話ししました。
おわかりいただけなかったとしても、わたくしはすべてを受けいれて、罪に殉じます。わたくしが成したことですから。
夫とともに、処刑されます。
なぜって……愛しているから。
あの人の妻として死なせてください。
それが、わたくしの最後の望みです。
死刑執行報告書
執行経過
一、執行告知及び教誨
午前一の刻、刑吏長が被執行夫妻に対し、それぞれ帝国法に基づき発布した死刑執行命令を告知した。
夫は無言で頷き、妻は「わかりました」と述べ、特段の抵抗はなかった。
その後、それぞれ教誨室へ誘導。教誨師との面会において、夫は「ご迷惑をおかけした、すべての方にお詫び申し上げます」と述べた。妻は「本当に、申し訳ございませんでした」と深々と頭を垂れた。
茶と菓子が提供されたが、両者とも手をつけず。夫は教誨師へ獄中で綴った文書の処分を頼んだ。妻は「今日は、晴れでしょうか」と尋ねたため、そうであると教誨師が返答した。
二、執行場への連行
午前二の刻半、刑吏官に護送されそれぞれ執行場へ移動。前室にて被執行夫妻が再会した際、夫は涙ぐみ、妻は嗚咽を漏らした。
互いに抵抗などはなかった。
被執行夫妻がそれぞれ席に着いた後、刑吏長及び施設長が立ち会う中、死刑執行命令書が読み上げられた。
三、執行の状況
刑吏長より、それぞれに毒杯を手渡す。受けるようにとの刑吏長の言葉の後、被執行夫妻は互いに見つめ合い、同時に杯を干した。
妻は杯を取り落とした。夫は冷静に杯を卓へ戻し、妻が落とした杯を拾おうとしたが、果たせなかった。妻が先に苦しみ始め、夫へと手を伸ばした。夫はその手を取って握り、苦しみ始めた後に喀血した。
四、死亡確認
執行から約半時後、立会医官が被執行夫妻両者の心音の停止を確認し、午前三の刻、両者ともに死亡と診断した。
五、執行後の措置
検視を終了した後、両者の遺体を清拭し、棺に安置した。執行に際し、特段の混乱は認められなかった。




